愛なのか、殺すことが。
富山・安楽死疑惑。ほんとうに疑惑なのか?というのを以前書いた。今日の北海道新聞の夕刊にこう書いてあった。
呼吸器を取り外しても「中には3時間、心停止しない人がいた」という。当たり前だ、誰も殺してくれ、なんて頼んでいない。誰もが生きたいと願っている。「殺してくれ」という人だって、自分で死のうとしない。最後まで生きたいのだ。3時間は、患者さんの精一杯の生きたいという意思表示だったろうか。さもなくば、それまの治療が誤診ということもある。なぜなら、呼吸器なしに、そんなに長く生きられるということを想定してなかったろうからだ。
動機については「愛しかない。苦しみを推察できる気持ちをもっていなければ、いけない」などと、言ったそうだ。 愛してこそ、生きてほしいんじゃないのか、苦しみをどう推測したんだ。医者は科学者だから、科学的に推測したんだろうな。で、なくば、それは妄想と等しいことだ。妄想の推測で、呼吸器外されたら、たまったものではない。自分が見るに忍びないほどの苦しみだったのかもしれない。その苦しみを、患者さんと置き換えたのなら、妄想も極まれり、だろう。
また、かの外科部長は「今までやったことが法に触れるか判断してほしい」という。そういう問題じゃないだろうが。命の問題としてこの医者はとらえていなく、呼吸器を取り外したことの是非だけを問うて、法に触れないのならセーフで、自分は正しいと正当化しようとしているに他ならない。
正しいとは、少なくとも人の生命のためになることであり、呼吸器を外して、命を奪うことでないはずだ。
夕刊みて一気に書いたので、訂正がいっぱいあると思います。
数時間後か、明日かになおします。