小学生にお年寄りの絵を描かせると、上手い下手は別として、ほとんどの子どもが、似たり寄ったりの絵を描きます。
ヤフーで「高齢者 イラスト」「お年寄り イラスト」と入れて検索すると、出来不出来は別として、子どもたちがイメージした絵と同じイラストが出てきます。
老人、お年寄り、シニア、高齢者は、日本では同じイメージとして画一化され、そのイメージに沿った似たり寄ったりの絵やイラストばかりになっているのです。
これは、単に絵やイラストの世界ばかりではなく、国や地域における現実の高齢者対策にも大きな影響を及ぼしているのではないか、と不安になってきます。
何でこんなに想像力の乏しいイメージの中で高齢者に接する要領が出来上がってきているのでしょうか。
ある事象、ある集団、ある事件に対する固定的なイメージは、その国の思考や行動の水準を表しているように思えてきます。
固定した画一的イメージは、『対象を生きて動いているもの(こと)として見ていない』ことから生まれてくるイメージなのです。
だから、老人は動きが鈍くて困るとか、老人のくせに偉そうにしているとか、ヒドイ場合には、「うざい」などと言われて邪魔者にされていくのです。
共存の思想や人間社会の循環の事実が、その場その場で適当に扱われてきて、老人は、蚊帳の外の存在にすらなっているような気がします。
現実のこの世の中には、優秀な老人や高度な技術を持っている老人や気高い人生を送っている老人が数多くいます。
でも、この方達もその場その場の方便で、スゴイとか立派とか言われていますが、だからと言って、彼らが豊かなイメージで社会に位置付けられているわけではないのです。
大人の中(大人という言い方)には、老人は含まれていないのではないかとさえ思う時もあります。
子どもと成人が一つのグループ。
老人、高齢者、お年寄り、シニアがもう一つのグループなのです。
ですから、いくら平均寿命が延びて世界一近くになっても、社会の質自体が世界一になろうとしない限り、若者と比べて老人は、不幸せな扱いを受ける率が大幅に高いのです。
現在の日本は、高齢化の真のピークに入ろうとしています。
今こそ、老人に対するイメージの変更と活動の場の確立を始めない限り、この国の未来は、夕方のすさびた場末のような国になってしまうだろうと思えて仕方ありません。
朝の光を眩しく感じる日は
伸びようとして瞳の輝く日
朝の光が何気なく過ぎる日は
耐えている自分だけの日
朝の光はどんな時にも平等なのに眩しさも意味も違う
伸びようとする瞳が好き
光の横でギリギリ自分を支えているあなたの強さも好き
・
みんな気持ちで負けるな
手を繋いで一緒に進もう
(くろほとき)
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おはようございます。
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