リメンバー 石井紘基

故石井紘基議員の存在を過去のものにしてはならない。石井紘基の業績と遺志を伝えていくBLOG

「特別会計」「財政投融資」「補助金」のすべての廃止を

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
「特別会計」や「財政投融資」という「裏帳簿」と、「補助金」という麻薬によって構成された利権財政システムの「御三家」を根本的にあらためることは、経済の復活のためにも社会の健全化のためにもきわめて重要です。
38ある「特別会計」については、原則として、すべての廃止を前提に再検討すべきでしょう、また、ただちに各省庁ごとの所管制をやめ、とりあえず2~3年の暫定措置として全体を財務省の所管にうつし、国民にみえるものにすべきです。

廃止または抜本的見直しのさい、事業系、保険系、管理系、融資系、整理系など特会の性格によって、その方法や緊急度が異なります。
港湾整備、空港整備、道路整備など事業系の特会と、産業投資、開発資金融通など融資系特会、および電源開発促進、石油・エネルギーなどの整理系特会の大部分は、ただちに廃止すべきです。

また、現在9種類の特定財源が直接特会にいれられ、具体的な使途が国会の審議や議決の対象となることなく、なかば行方不明の状態となっています。こうした不透明を放置することはできません。原則としてすべての税金を一般会計にいれ、国民の前に使途を明らかにすべきです。これも緊急の課題です。


さらに国家公務員の給与など人件費も、半分以上が特会から支給されています。国家運営の基本的支出である人件費・管理費について、このような不透明、不明朗も許されないことです。

年間40兆円の規模をもつ「財政投融資」制度は、郵貯、年金、簡易保険などの巨額な国民の金を特殊法人などに注ぎこむ、市場破たんの元凶です。早急に廃止すべきです。

財投は、わが国が発展途上にあった時代には、財投の活用による鉄道、道路、電力など基礎的インフラ整備が生産性を高め、流通コストの軽減を求める市場の活動に大きな役割をはたしました。しかし、経済が発展したこんにちでは、もはや政。官の浪費を支えるためにのみ存在しているといっても過言ではありません。

「補助金」も、麻薬のような制度です。したがって、「公共事業」や投資事業にかかわる「補助金」は、スケジュールをたてて早急に全廃しなくてはなりません。

現実には、いっきょに廃止するわけにはいかない補助金もあるでしょう。それは教育、福祉、環境保護関係と、すでにとりかかった「公共事業」の地方負担分に対する交付金などです。これら福祉事業などに関する補助は、将来、市場経済への移行と税制改革の進展のなかで、民間からの「税の選択的納付」としての「寄付」に支えられるような誘導が必要です。もちろん、基礎的な福祉、教育、医療は、地方の政府予算で責任をもつのが、憲法上当然であり、それが前提でなければなりません。


「誰も知らない日本国の裏帳簿」より

38の特別会計の内訳

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
特別会計(38個)

事業会計

1郵政事業
2郵便貯金
3造幣局
4印刷局
5国有林野事業
6国営土地改艮事業
7道路整備
8治水
9港湾整備
10空港整備

保険会計

11簡易生命保険
12地震再保険
13厚生保険
14船員保険
15国民年金
16労働保険
17農業共済再保険
18森林保険
19漁船再保険及漁業共済保険
20貿易再保険
21自勤車損害賠償買任再保険

管理会計

22登記
23外国為替資金
24国立学校
25国立病院
26食糧管理
27農業経営基盤強化措置
28特許
29自動車検査登録

融資会計

30財政融資資金
31産業投資
32都市開発資金融通

整理会計

33交付税及び譲与税配付金
34国債整理基金
35電源開発促進対策
36石炭並びに石油及びエネルギー
37需給構造高度化対策
38特定国有財産整備

特別会計とは

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
通常、国の予算というと,この一般会計のことをいい、マスコミもこれしか報道しないが、じつは「特別会計」と呼ばれる裏の予算があり、こちらのほうが規摸ははるかに大きいのである。特別会計については次節で詳しく説明するが、国が郵政とか道路整備とかといった特定の事業を営む場合や、厚生年金保険のような特定の資金を保有してその運用を行う場合につくることができる、一般会計とは別の会計のことだ。

その特別会計がいま38もあって、それらの歳入を合計すると336.5兆円、歳出を合計すると318.7兆円にもなる。ここに人ってくるのは、揮発油(ガソリン)税のような税金もあれば、厚生年金の保険料もある。一般会計の四倍もの規模をもつ、この特別会計こそが"財政の横綱”なのである。

この国の財政にはもう一つ、他の先進国には見られない「財政投融資」という大きな枠組みがある。詳しくは第三節で説明するが、私たちの郵便貯金や簡易生命保険の保険料、年金の積立金を集めて、それを特殊法人に融資したり、国債や地方債を引き受けたりしている。その規模が平成一二年度の計画段階では43.7兆円だった。

これら三つについては通常、一般会計を第一の予算とみなし、財政投融資を「第二の予算」ということが多いが、それはことの本質をみていない。規模の点でも、実質的な意味でも、特別会計こそ第一の予算であり、財政投融資はそれに次ぐ第二の予算、一般会計は単なるたてまえ予算といっても過言ではないのだ。

また、これら三つの枠組みの間では、たとえば一般会計から特別会計に資金が繰り入れられたり、財政投融資で調達された資金が特別会計に繰り人れられたり、相互に複雑な資金のやり取りが行われている。そしてその財政資金がさまざまなルートを通って地方自治体に流れたり、特殊法人,公益法人に流れたりし、さらには関連企業に流れて、この国の"官制経済”体制の動脈を形成しているのである。

ー日本が自滅する日ー 利権財政の御三家 より

「日本の構造改革」を成功させるには

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から

わが国経済政策の混迷を象徴している「不良債権処理」と「景気回復」をめぐる"論争"もまた、わが国経済の特性への無理解から生じている。

与野党を含めた政界も経済界も言論界も、当面の経済・財政の立て直しをめぐって大きく二つの議論に分かれている。

一方の陣営は、経済間題の解決にとつての根本的課題は銀行の不良債権処理
と考えている。小泉政権の「骨太の方針」がその代表格である。他方は、不良債権処理を進める。

方で不良債権が増大していく、いたちごっこの状態の下では、景気の落ち込みと地価の下落が続くだけなので、公共投資による景気刺激で需要を喚起することが重要とみる。

しかし、私にいわせれば、これらの議論は「景気回復が先か、財政再建が先か」「二兎追うもの一兎をも得ず」などの議論と軌を一にするもので、日本経済に対する認識が近視眼的である。

後者の方から述べてみよう。この立場が主張する政府の財政出動は、確かに一般的には経済活動の触発剤になる。しかし、その際忘れてはならないのは、この理論は市場経済体制下においてのみ通用するということだ。

ところが、今日のわが国の宮制経済体制下では、経済対策としての公共投資等の予算はほとんど公的セクターまたは行政システムを通って流通し、余剰価値や付加価値を形成する「市場」を素通りし、むしろ市場における生産・流通コストに負荷をかけてしまう。財政出動によって刺激すべき「市場」がそもそも"寝たきり状態"なのだ。


政府が一升の酒を漏斗に注げば(予算配分)、そのまま酒ビン(GDP)に一升弱の酒が落ちてくるだけのことだ。いくら「需要政策」を採っても経済は活性化も膨張もしないのである。

この国では、過去十数年にわたって「景気対策」として総計百数十兆円の財政を投入し、かえって構造的には事態をますます悪化させてきた。
公共投資論者は、そのことを省みない"原理主義者"である。

この賭はいくら張っても当たらない。
彼らが「景気対策」が効果を現さなかった毎年ごとの偶発的要因をどれほど説いてみても説得力はない。株価が反応したことがある、といえぱそれはあるだろう。
しかし、それは株式市場がある以上当たり前のことであり、マクロ経済の趨勢とは無関係なのである。

これに対して、小泉改革が採用している前者の考え方は、不良債権をまず処理し、金融機関と企業を身軽にする必要があるとみる。そのうえで民間部門の構造改革を進め、サービス産業やIT産業を起こしていけば、景気回復が実現するというのである。

しかし、これでは、手術はしてみたが病人は死んだ、という結果になる。民間部門の改革や景気回復のくだりにいたっては、日本経済の体質に関する認識の乏しさと、構造改革の内容の薄さを露呈しているといわざるを得ない。
官制経済という経済の「砂地」に対して、どれほど種を播いても、耕しても、芽は出ないことを知るべきである。

さて、本書で私は、政官権力が政官権力のために作った日本の国家システムを作り替える「構造改革の戦略」を提示する。

ー日本が自滅する日ー 序章より

日本の経済成長率は公的支出の反映

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
「骨太の方針」は、不良債権処理を行う「集中調整期問」は経済成長率がゼロまたは一%程度にとどまらざるをえない、と述べている。この「構造改革」と経済成長率との関連には矛盾があることにも触れておかなければならない。

この辺の記述は、「集中調整期間」中は高い経済成長が望めないことを、あらかじめ断っておくつもりであるためのようにも見えるし、逆に公共投資とは別の形で需要政策をとり続けることによって現状の国内総生産〔GDP)水準の維持を宣言する意図のようにもとれる。いずれにしても理解困難である。

後にGDPと市場経済との関連において述べるとおり、わが国のGDPはほとんど政府支出の反映という性質を持っている。したがって経済成長率を左右する要素はほとんど公的支出にかかっている。
一方で小泉政府は「新規国債発行を三〇兆円以内」に抑えるほか、公共投資予算等の削減を打ち出している。

また、郵政をはじめ特殊法人等の「民営化」を実行すれば政府の予算支出はさらに減少するはずである。全般に、民営化を含め、構造改革の成果は当面強い「デフレ」要因となる。

こう考えると、「成長率ゼロまたは1%」という期待はどこから出てくるのだろう逆に、政府予算規模の水準を維持するとすれば、それは財政の構造改革との矛盾を来す。

はたせるかな昨年11月五日、「骨太の方針」からわずか四カ月で内閣府は平成13年度の成長率見通しを、プラス1.7からマイナス○・9に下方修正した(もっともこれは予算規模の縮小からきたというより、構造改革の迷走によるものであろうが…。

もし本当に「民需主導」、すなわち経済の資源を行政の分野から市場に向けて大規模に移転するのであれば、わが国の中央政府支出(260兆円を当面の三年ほどのあいだにせめて米国の国家予算並み(190兆円)の規模に縮小するべきであろう。

そうなれぱ、市場経済体制が形成されるまでの「革命」期間におけるGDPは大幅に縮小し、成長率は大幅なマイナスになるはずだ。成長率はGDP数値の対前年度比であるから、大規模予算の配分で国民生活が維持されるわが国のような官制経済体制下では、成長率は必ずしも経済の実態を反映するものではない。

したがって、「骨太の方針」が成長率にこだわるのは自家撞着である。財政規模の縮小は当面、必然的にマイナス成長をもたらすのがわが国のシステムなのであるから、そのことを明確にしたうえで改革に着手しなければ、それは生きた市場のマインドに大きな打撃を与える。

この点について小泉氏は理解を欠いている。小泉氏はむしろ、構造改革の期間中は財政規模を大幅に縮小し、それに連動して成長率が下がること、そしてこれは景気の実勢を反映するものではないことを明確に主張すべきなのである


ー日本が自滅する日ー 序章より

国家経済構造に対するアンチテーゼを掲げよ

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
いま必要なことは、従来の方針のどこに比重を移すかではない。現在の国家経済構造に対するアンチ・テーゼ(対案)を掲げることである。そして、そのプログラムを示すことである。今日わが国が直面している事態を見れば、大問題は既存の体制それ自体にあることがわかる。
既存の体制とは、権力による経済侵蝕の構造、すなわち官制経済体制である。市場を市場でなくしてしまった官制経済体制にこそ日本経済低迷の原因があり、そこにこそ目本再生のための問題を解く鍵がある。

銀行や企業活動の行き詰まりが解決されないのは、不良債権処理への手際が悪かったからではない。(全民間の三倍の規模をもつ)政府系金融の肥大化と政府の過度の介入・規制による金融市場自体の自壊状況が原因なのだ。そして経済活動市場)全般への行政企業の大規模な進出,侵蝕による市場経済そのものの瓦解が原因なのである。

したがって、日本経済の基盤の構築、すなわち官制経済から市場経済への転換なくして、ひとり銀行だけが蘇ることはないし、経済が旧来の体制のままで息を吹き返すこともないのである。

以上、小泉政権の「経済再生」と「構造改革」についての私の見解は二つに要約できる。

第一に、金融事業本来のシェアと活動諸条件を政府系機関が占有している状況下で、民間銀行の不良債権が「優先的に」解消されることはありえないということである。

第二に、不動産・建設・土木・運輸・通信をはじめ主要産業各分野が政府系行政企業に圧倒され、国内に市場性が失われている状況下では産業の創出・改編も企業の不良債権解消も、それ自体問題にならないということである。

ー日本が自滅する日ー 序章より

「構造改革」は官制経済から市場経済への体制の変革

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
「構造改革」は政治家や官僚が作ってきた積年の.悪弊である既得権益の構造を打ち破る国民自身の闘いでもある。
そうした国民の期待を担っている小泉首相が、自分自身の確固とした信念に基づい
た方針も出さずに「多くの人々の意見を聞いて」では納得できない。
「構造改革」が既存の権益や利権を破壊するものだとすれば、旧体制における利権を手放すことへの「抵抗」は必至である、彼らはその全存在をかけて命懸けの闘いを試みることになろう。

「構造改革」は官制経済から市場経済への体制の変革という意味でも、また既成の秩序・権益との闘いという意味においても、まさに「革命」なのである。これは大勢の人々の意見を聞いて方針を決める、などという性質の問題ではない。
〃ベルリンの壁〃の向こう側のことは政府自らが明らかにすべきだ・同時に国政調査権を持つ政治家が自ら調べて実態と方針を国民に示し、犠牲者である国民とともに改革を断行するのだ。それくらいの知識と構想力と指導力がある政権でないと真の構造改革は遂行できない。

行革担当大臣が省庁の特殊法人見直し案提出の期限目前に、参考例はないかとヨーロッパに勉強に行くような一夜漬けではいささか心もとない。ヨーロッパに行ってわかることは、特殊法人などというものが支配的な国は官制経済の日本ぐらいのものだということぐらいである。

もし小泉氏が全身全霊を投じてこの闘いの陣頭指揮をとろうとするのであれば、むしろ向こう三年間にわたり、「開かれた戒厳令」ともいうべき強力な臨戦態勢を確立することが必要だ。民主主義の制度をさらに広げて、国会の自宙討議や、それを国民とつなぐテレビの活用、そして政治家の自由な言動と責任を保障する党議拘束の廃止などが求められる。

ー日本が自滅する日ー 序章より

市場から権力の足枷を取り払え

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から

以上のような認識に立てば、いま必要な構造改革とは、官制経済の中心である世界最大級の行政企業群とそれを支える法制度や財政システムの廃止であることがはっきりする。これこそまさに、構造改革の目的でなければならない。
そのための大胆で壮大なプログラムの提示と実行に、政治は取り組むべきなのだ、

これさえ断行できれば、諸々の経済問題は基本的に自立した経済が自ら解決する。「サービス産業の拡大」「産業構造の再編」「経営革新」など市場の具体的な活動にまで政府が直接手を下すことは、むしろ構造改革に反する。

「IT国家」などに政府が深入りすることは、権力主導の公共事業の発想と同じで、むしろ構造改革の逆行である。
当面は基本的に、市場活動に対する権力の足枷を取り払いさえすればよいのだ。

とはいえ、これこそ政治家を含む壮大な既得権益との厳しい闘いであり、緻密な戦略の下に国民とともに実行されなければならない「歴史的課題」なのである。


結局、構造改革とは、民闘部門にさらなる世話をやくことではなく、官制経済体制から市場経済
体制へ転換することなのである.、このことを明確にすることが構造改革の戦略である。



ー日本が自滅する日ー 序章より

見えざるベルリンの壁

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
言い換えれば、必要なのは「市場」の存在を前提とした政府の景気対策や産業政策の論議ではなく、政治家が政治的に旧体制と闘い、そのシステムを打破し、「市場経済体制」と自立した経済を保障する新たなシステムをいかに創るかということなのである。

私がかねてから述べてきたように、この国には"見えざるベルリンの壁"がある。冷戦時代に資本主義と社会主義を分け隔てた、あの壁だ。壁の向こう側では、一九六〇年代以降、"政府権力の闇市場”が拡がっていった。その勢いは山火事のように早く、その量はねずみ算のように一般の想像を絶する規模に膨らんだ。

この権力による経済侵蝕のそれぞれの過程において、それに合わせた政策と予算と法の巧妙な"裏打ち”が積み重ねられ、それらが次第にそれなりの国家形態を形成させた。この変貌は見えない所で行われたため、実態は一般にきわめて解明されにくいものであった。
この解明には実際、政治家が持つ国政調査権という手がかりしかないほど閉ざされたものだったのである

ー日本が自滅する日ー 序章より

ありもしない"市場"

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
わが日本国では、この周到に編みあげた官制経済体制のシステムの下に、政治家たちが笛を吹き「景気対策は税金をバラ撒くもの」「経済は政府の政策と予算で支えるもの」との"原理主義"を普及させ、学者も評論家もマスコミも、そして経済人といわれる人々までがこぞってこうした集権的意識構造の下に振る舞っているのである。

その結果、国の本来の会計であるコ般会計」予算は八五兆円と書いたカモフラージュ(迷彩)の中に置かれ、実際の運営は誰も知らない二六〇兆円という巨額のカネが闇の中のコウモリの大群のように飛び交うことになった。

この中で補助金として配分される金額は少なくとも五〇兆円、公共事業関係で支出されるカネは国だけで三〇兆円にもなる構造が完成しているのである。

この国の「経済」は端的にいえば、国と地方と合わせて国民の税金と貯金、年金、保険積立金など三五〇兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。

つまり、市場特有の拡大再生産機能によって生み出される果実はないに近い。
経済的価値を創出する"市場〃が死亡状態となり、回復不能の、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。
積もり積もったほんとうの借金額は1〇〇〇兆円を超えてしまっている。

いやこの重い病を癒す方法は、ありもしない"市場”に向かって"金融対策”だ"景気対策”だと無駄な金を突っ込むことではない。
問題は単なる経済政策の領域にあるのではない。
その鍵は"市場”と権力のあいだにあるのである。

ー日本が自滅する日ー 序章より

いま為さなければならない真の構造改革とは何か

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
それを論ずるには、まず、今日わが国が直面している経済、財政、社会の危機をもたらした要因は何か、について正しい認識を持つ必要がある。この三〇年間にわたってわが国に浸透し、遂に体制を支配するに至った"官制経済"のシステムこそが、その要因である。

官制経済体制とは、中央集権、官僚制、計画経済、そして閉鎖財政(国民に見えない財政〉を基本構造とする国家の類型である。

官制経済体制の下では基本的に経済は権力に従属するため、本来の経済(=市場)は失われる。

したがって構造改革の目的はただ一つ、国家体制を官制経済から市場経済に移行させることである。経済を権力の侵蝕から解放し、経済(=市場)のものとするのである。

利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。
第一に行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する"政策"、
第二に開発法、振興法、整備法、事業法、政省令、規則、許認可等からなる"法制度"、
第三に補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される"財政制度" そして
第四に特殊法人、公益法人、許可法人など官の企業群を擁する、"行政組織"だ。

以上の"政策"法律","会計","組織"の四本柱はすべて各省庁の縄張り(所管)となり、それぞれに連なる政治家があり、政治的。力関係"(政治力)によって機能するのである。これがまぎれもないわが国官制経済のトータルシステムなのである

ー日本が自滅する日ー 序章より

国と地方の特殊法人、認可法人、行政系公益法人はすべて早急に廃止すべし

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
過去にも、鉄鋼、国鉄、電々公社などの民営化が行われた。これらは、国民経済の発展途上で成長の先導役をつとめた基礎的インフラ整備事業であったが、今日の特殊法人などは、これらとまったく性格を異にする。

後の章で述べるように、それらはむしろ経済に対する"侵略者"なのであり、市場とは本質的に相容れない権力機構の側の存在である。形だけ株式会社にしてお茶を濁そうとしても、官,民の領域がますますルーズとなり、事態をいっそう悪化させるばかりである。

むしろ彼らが権力の陰で領有してきた経済の資源を市場に戻すべきである。
国と地方の特殊法人、認可法人、行政系公益法人はすべて早急に廃止することとし、その上で財務の状況等によってそれぞれの実行時期と処理策を定め、必要な責任の追及と、やむを得ざる借金を整理する以外にない。

さらに社会的に必要な仕事は、経済活動としてではなく行政事務として堂々と行政機関自身が行うことにすべきである。
また投資や取引、開発事業など経済活動に属すべき事業は放出するだけでよい。そうすれば市場が勝手に市場の論理に従って動く。会社が設立されるなり、既存の民間企業が取り込むことになるまでである。

ー日本が自滅する日ー 序章より

特殊法人の安易な「民営化」は事態を悪化させる

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
小泉首相は従来から「郵政民営化論」を主張し、その財政的側面からの理由として、郵貯資金が特殊法人に回っていることを挙げている。だが、それをいうなら、一五〇兆円もの年金資金なども特殊法入のメシの種になっている。

厚生大臣として小泉氏は「厚生年金基金」の名称を変えて「年金資金運用基金」という同じ特殊法人を作った張本人である。
そのことはさて置くとしても、特殊法人の原資として郵貯だけをやり玉にあげていたのでは特殊法人の食いぶちはなくならない。

特殊法人問題に対する小泉氏の姿勢にも問題がある.、小泉首相は特殊法人等の「民営化」または「廃止」を主張し、特殊法人を経営する省庁自身に具体策を提示させた。これはたとえ話でいうならば、鯛や鮪に自分たちで狙の上に乗って自分の刺身を造れ、というような見当違いである。
橋本内閣や小渕内閣が試みたのと同じことを、小泉氏も繰り返している。改革を断行しようとするのなら、自分サイドで設計図が描けなければダメだ。

特殊法人等の"行政企業"は、たまたま個々別々にあるのではない。彼等の存在は、「政策」「法制」
「財政」の仕組みと連関したトータルシステムの中の機能の一部分なのだ。

ー日本が自滅する日ー より

真の構造改革とは何か1

2005年05月07日 | 石井紘基の著書から
言い換えれば、今日の危機的状況を招いたわが国の仕組み(=構造)は何かを明らかにするとともに、それを"もう一つの"の仕組み(=オールタナティブ)に取って替えるための大構想と大戦略を提示し、果敢に実行することこそが期待されたのである。

小泉首相は就任以来約半年のあいだに、「構造改革」の課題として、国債の新規発行額の限定や道路特定財源の問題、一部の特殊法人や公共事業の見直し、将来の郵政民営化といったことに触れてきた。
正直にいって、これでは、これまで試みられてきた個別的な政策といったいどこが違うのか理解できない。

「骨太の方針」とか「工程表」などのネーミングが躍っただけに思える。
たとえば、道路特定財源が「無駄遣いされている」から「見直す」ことは言葉として間違いではない。

しかしそれを財政の「構造」間題として取りあげるのなら、特定財源は九種類もあるのだからそれらの総体を問題にしなければならない。しかも、それらの多くは本来の予算であるべき「一般会計」ではなく、「特別会計」という裏帳簿に入る仕組みになっている。

後の章で見るように、これらの資金は行政レベルで配分が決められ、公共事業や"行政企業〃業界などへの「補助金」として流されていく。小泉首相の道路特定財源見直しは、"森"が殺られているときに一本の"枝〃を語るようなものである。"枝〃を治すには"森”を知り、"森”を治さなければならないのに。

ー日本が自滅する日ー より