一期一会・

宇宙と仏法のあり方についての洞察。人間の成仏。

メチタの海、第2章の始まり(六)原子爆弾投下

2014-08-09 | web

人影の石広島...住友銀行入口の階段に残された被爆者の影跡

  昭和20年の8月6日、午前8時15分、広島にとてつもない大きな爆弾がアメリカの爆撃機B29が投下したという情報が流れた。広島は横浜から遙か遠い処だなと一郎は思った。一郎には前年母と東北の栃木県黒磯という処にコメの買い出しに手を引かれて行った思い出があった。当時はコメは配給制で自由に手に入れることはできなっかたのでお金は無いので、母の着物を代償に米との交換目的に誰もがするようにコメの東北に買い出しに行った。

その前の年、戦火激しくなって来た都市部の田舎の無い学童は地方の寺に集団疎開した。

 

   それも、経済警察の取り締まりは厳しくて、やっとの思いで農家の人に頭を下げ下げコメを手に入れて母は袋に詰めた袋を赤子を背中に背負うようにしっかり紐で括り付け更に両手にも下げて、一郎はリュックサックを背負い親子で40キロ近いコメを背負い帰路の上野行きの列車の乗り込んだ直後に赤い腕章をまいた数人の経済警察が闇米の摘発臨検にどやどやと乗り込んできた。何処からともなく。「経済だ!みんな逃げろ!」といういう叫び声。「一郎!早く逃げるんだ!」とっさに母は一郎の手をつかんで車両の出口に走った。車両の中は大混乱だ。ここまで来てやっとの思いで手に入れたコメを警察に取られまいと必死であった。

 それと、19年秋には戦火が激しくなり本土決戦は近いという状況もあり都市部の住民の多くは地方の田舎に子供達を疎開させていたのだ。田舎に郷里の無い学童は集団疎開で学校が地方の寺や神社に向けて疎開させたのだ。小学六年生であった一郎の

疎開先は小田原足柄上郡の源家由来の善福寺という寺に疎開した。それと、徴兵されていた長兄が浜松の航空隊に赴任していたが、明日スマトラに出兵するのという電報を受けて、浜松の航空隊に母と最後の別れの面会を許されて始めて訪問したのだ。後にも先にも地方に出向いたのは此の二回限りであった。

広島、長崎というとても遠い処で起きた原爆投下の惨禍はその後日本の存在が益々不安な結果となって行った。あの浜松航空隊の正門入口で母と一郎を敬礼で出迎えた軍服姿の雄々しい兄の姿が脳裏を横切った。

  母は、落ち込んで悲しい目つきで一郎を見上げた。母は日本の今の近況を新聞の記事を隅から隅まで何か探していた。「俊哉は戦死したのだろうか・・・」とつぶやいた。

 



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