一期一会・

宇宙と仏法のあり方についての洞察。人間の成仏。

私のお父さん

2015-08-28 | 日記

『私のお父さん(O mio babbino caro)』は、プッチーニ作曲の歌劇『ジャンニ・スキッキ』の劇中歌ですが、聞いたことがあると思いますが。

オペラが好きだという人は、日本人ではどのくらいの人がいるのでしょうか?

一般の日本人の音楽に対する感性のレベルをどう表示したら良いのかわかりませんが

日々、TVなどで流される音にはいささかうんざりします。多くは歌謡曲ですが、一部を除いて騒音としか思えない音楽?です。

僕には騒音としか思えない響きです。昔の童謡音楽が僕には懐かしく心穏やかにしてくれますが、今はラジオでもTVでも同様の番組が殆ど聴こえて来ないのは何故なんでしょうか?

歌劇『ジャンニ・スキッキ(Gianni Schicchi)』は、主人公の中年男ジャンニ・スキッキが、大富豪の遺産を巡る親戚間の騒動と、若い男女の恋を見事に解決するさまをコミカルに描いた喜劇。

有名歌謡曲歌手にしてもバイブレーションを聴かすだけの特徴で、聴きずらいのも僕だけでしょうか?昔は童謡歌手で姉妹で歌っていた女性歌手も今は大衆受けの歌謡曲に鞍替えして大衆受けを狙っている様です。

オランダの素人発掘オーディションHolland's got talentに現れた9歳の少女アミラ・ウィライアージ。

彼女の歌声に会場はスタンディングオベーション。そしてその歌声はすぐに世界中を駆け回った。

第二のスーザン・ボイルとも呼ばれた彼女と審査員のやり取りを観ても解ります。

ユーチューブでHOLLANDのテレビ番組TALENTで発掘された子供の歌のチャレンジ番組で金賞を取ったアミーラという9歳の少女の歌はオペラのアリアでした。

アミーラの歌声は昔のマリアカラスを彷彿させるような歌唱力で、その様子は審査員の表情行動を見ても信じられないという感動と驚きを隠せないでいるのが解ります。

今僕は毎朝、セブンで購入したサラダチキンサンドをコーンスープで食べながらアミーラさんのOMIO BANBINO CARO (わたしのお父さん)の動画を聴いています。天使の歌声とはこんな声でしょうか・・・

このブログに訪れてくださったアナタにもこの感動を伝えたくて書きました。

また、世界的な有名なバイオリストでアンドレリユー(千と千尋の神かくしのテーマ音楽を作った人)のオーケストラとアミラさんの演奏が聴衆のの感動を呼ぶ様子が涙を誘います。

アナタにも是非この感動を共有したくて、お届けします。

 

 


積極的平和主義

2015-08-25 | 日記

こんにちは、お元気ですか?いつも僕のブログに焦点をあわせて、見てくださって有難うございます。

8月25日の夜、テレビ朝日のニュースステーションでヨハン・ガルトゥング博士のことが取り上げられました。

実は、ヨハン・ガルトゥングという人は、ノルウェーの社会学者、数学者で平和研究、紛争研究の開拓者、また第一人者として知られてい人です。

戦争のない状態を平和と捉える「消極的平和」に対し、

貧困、抑圧、差別など暴力のない状態を「積極的平和」とする概念を提起し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。平和のための超国家的なネットワークの総括者で、超国家的手法の開発者でもある。

過去にスリランカ、アフガニスタン、北コーカサス、エクアドルなど、世界で40ヶ所以上の紛争の仲介者としても活躍してきました。

ヨハン・ガルトゥング氏はオスロに生まれ、オスロ大学で数学と社会学の博士号を取得。1959年、オスロ国際平和研究所を創設し、1970年まで代表を務めました。

また、1964年には雑誌 Journal of Peace Research を創設し、編集長として、ヨーロッパにおける平和研究を主導しました。1987年にはライト・ライブリフッド賞を受賞。1993年には、平和的手段による紛争解決のための国際NGO、TRANCEND International(トランセンド・インターナショナル)を創設した事で知られています。

日本においても中央大学、国際基督教大学、関西学院大学、立命館大学、創価大学などで客員教授を務めるなど、日本との親睦の深い学者であります。これらの日本の大学に通っていた学生も良く知っているはずです。

しかし、今現在私たち日本の参議院議会で今の日本をミスリードしようとして憚らない自民党総裁を始め日本の防衛を管理指導する中谷防衛大臣に対し憲法違反を指摘して撤回を求めているのにあくまでも、自分の理論を矛盾に満ちた答弁で躱し煙に巻いたいる様は益々私たち国民を欺いています。

憲法9条は唯一日本の平和を維持させるキイなのに、このキイを壊そうとしている指導者は平然として自分は首相であるから、自分が責任者であることを言っているのです。

壊れて難破することが明らかなノアの箱舟に強制的に国民を移住させようとしています。

70年前に、日本はアメリカに原爆という大量虐殺兵器で虐殺を受けたのを忘れてしまったのでしょうか。この戦争犯罪を犯したアメリカにすり寄りアメリカに寄らないと日本の安全は無いという首相の理論は、明らかに戦争犯罪者に加担する人間ではありませんか?

このアメリカによる原爆による過去の惨劇を受けた日本人は野党の山本議員の質問指摘にもあくまでも力の対立でアメリカに力を入れようとして右往左往している様が益々、明らかになっています。

阿部首相の答弁も矛盾だらけで「そもそも」とかという修飾語の連発で的確なあいまいな言辞で外し我々が聴く限りではすべての答弁に理解しがたい言い回しが多くて、議論のたらい回しで、質問者の与えられた時間が無理やり剥ぎ取っているのです。

戦争の原因は、矢張り貧困、差別、暴力です。国家のみならず、一般家庭、一般企業でも

同じです。私たちの家庭でもそうです。貧困が原因で家庭内暴力、殺人が起きます。学校でも暴力差別で殺人も起きます。企業でも同様の事象が起きます。国の指導者の感性が欠如すれば、同じ現象が生じます。当たり前のことではありませんか。

国家の暴力行為は認めて個人の暴力は良くないのだという理論は絶対に誤りです。

憲法9条の理念をいじりまわして、壊そうとしている安保法案は即時撤回しなければ、やがて、日本は中国やロシアの外国からの他国侵逼を避けられない事態が起きます。

今から700年前に日本の宗祖日蓮大聖人は予言しています。

人は、苦しいことや悲しいこと、また困難なことに遭った時、それを解決し克服する方法につ

いて思いを巡らしますが、世法による解決法を見つけることは容易ではありません。
 

仏法では、生・老・病・死など人間だれもが直面する人生の本質的な苦悩を根本的に解決す

る道を説き示しています。そして、その本質的苦悩を解決せずして、真の幸福はありえないと

説いています。
 

真の幸福とは、因果の道理をもととした正しい信仰によって、健全な生命を確立し、深い智慧

と強い心を養うことによってもたらされるものです。  どのようなことにも、けっして揺らぐこと

のない安穏な境界、それが真実の幸福なのです。

 

日蓮大聖人の教え

釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その

最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経を説かれました。

 この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(ま

っぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人です。

 日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南

無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説か

れました。

個人に置いても社会でも、国でもこれは全く同じです。キリスト今日もイスラム教も国を国民を

救うことは不可能です。救い主神など存在しないからです。池田創価学会は法を誤り大衆を

欺いた結果今現在衰退の一歩を辿りつつあります。

国家の法も誤れば衰退します。何が正しいのかを判断するのはあくまで個人の信念を源泉と

して堅持しなくてはなりません。

最後までお読みくださって誠にありがとうございます。

明日またお会いできますように頑張ります。

 

エンブレムとデザイナー

2015-08-20 | 日記

コンニチワ

いつも僕のブログに興味を頂いて訪問下さって本当に有難うございます。

今朝は前々から疑問に感じていた東京五輪の公式エンブレムのデザインについてです。

多分僕のブログに訪れて見ていただいていらっしゃるスキルのある方ですから、美意識の高い方だと思いますので、今回の東京五輪の公式エンブレムのデザインには不満をいだいていたと思います。

僕自身もその一人です。

日常会話においては、「エンブレム」という語はしばしば「シンボル」(象徴・シンボル)と同じ意

味で使われるのですが、厳密には両者の間には区別があるそうです。「エンブレム」は、観念

または特定の人や物を表すのに使われる図案を指す。

具体的にエンブレムは、 紋章,記章。ドイツ語ではワッペン。学校やスポーツクラブのシンボ

ルマークを刺繍でまとめたもので,ブレザーコート,セーターなどの胸に付けられます。現在

では単に装飾として用いられています。

このデザインを見た瞬間、先ず見た目に少しも新鮮さに欠けていて、インパクトがなかった事です。

僕も50年近く、広告代理店を経営してきて、関連的にデザインというものに深い関心を持っています。過去に二部上場のある医療関係の企業のロゴを作成納品した実績もあります。

誠に失礼ですが、このエンブレムは日本を代表し、世界にアピールするだけのコンセプトが感じられないからです。

先ず美意識が欠如していることです。オリンピックとパラリンピックとを掛けて足して2で割ったと言うような理屈をつけていますが、先ず見た目の印象や感性・美意識が皆無だと思います。

極論すれば、あまりに稚拙でデザインにも個性が感じられないし、ただ単に〇に線をはめてみただけの、絵ではありませんか。

極論すれば小学生でも描ける絵ではないでしょうか?

そもそも、東京オリンピックは日本国民の意思を反映するものでなければ行けませんから、デザインは職業デザインナーからの作品を募集するのではなく日本国民のみなさんから募集して採用決定するべきではないでしょうか?

素人個人のみなさんの方がずっと新鮮で素直な作品アイデアが提供されると思うのですがいかがですか?

過日採用発表時に誇らしげにVサインを見せて笑っている佐野研二氏の顔が空々しく見えてきます。

僕の予感が的中したので、逆に驚いています。

酷似問題の渦中にいるアートディレクターの佐野研二郎氏に、新たな盗用疑惑が浮上。

7月に発表された東京五輪のエンブレムが、ベルギー・リエージュ劇場のロゴとと“酷似”しているとして、デザインした会社の関係者がTwitterやFacebookで類似性を指摘し、騒動となっていた問題。デザインした佐野氏は事実無根を主張している。


佐野研二郎氏、デザイン模倣認め謝罪(8月14日)

共同制作のデザイナーが「第三者のデザインをトレース(描き写し)していたことが判明した」

と明かす。

東京五輪公式エンブレムをデザインした佐野氏は8月14日、自身が手掛けたサントリービー

ルのキャンペーン賞品での模倣を認め謝罪。代表を務める事務所の公式ホームページで「複

数のデザイナーと共同で制作した。事実関係を調査した結果、デザインの一部に関して第三

者のデザインをトレース(描き写し)していたことが判明した」と明らかにした。

今の日本の現状はあらゆる面で破たんをきたしています。

其の原因は根幹をなす日本のリーダーの哲学が破たんしているからです。

リーダーの誤りは下の部下は間違った方向へに誘われていきます。この原理は、企業でも学校でも、一般家庭でも同様の原理だと思います。

個人でも、美意識が欠けていれば、陳腐なものに同調して聊かの違和感も抱かず流されて行きます。そう感じたので、今回の記事を公開いします。

みなさん、最後まで読んでいただいて感謝します。

やっと涼しくなってきましたね、高校野球も愈々決勝戦ですね、僕自身は横浜生まれの人間

ですが、沖縄代表のチームに声援を億宇ていたのですが、健闘したのですが残念でした。70

年前に耐えがたい悲惨な戦争の犠牲を強いられた沖縄に思いを含めて優勝してほしかった

おですが・・・次回に是非優勝旗を取り返してください。祈りを込めて・・・・

 


男性用か女性用か

2015-08-15 | 日記

【これは実話です】と言ってヤフー知恵袋に出稿された記事です。
先日バスのターミナルのトイレで。。。なんかおばさんがもじもじしているなぁ。。と思っていたらいきなり男性用のトイレに飛び込んでいきました。もう絶句!!しました。
女性用トイレが混んでいたからには違いないでしょうが、それにしたってなんの恥じらいもためらいも感じられない彼女の態度に究極の大阪人の姿を見た気がしました。
一体どんな顔して出て来るんだろうと、密かに見守っていましたが、全然悪びれた風もなく、
本当に普通で平然としていました。あまりにもフツウなので思わず大丈夫でしたか?
(無事間に合ったのか?他に男性はいなかったのか?など色んな意味で。。)
と、いう意味を含んで話してみましたが非常にケロッ!!として笑っていました。
こんなこと、東京ではありえません。
もうなにがなんだか感覚が分からなくなりぞっとしました。
みなさんの関東vs関西、それ以外の地方でも
いろんなカルチャーギャップのエピソードを
教えて下さい!
&この実話に対する感想もお寄せいただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願い致します!!

という記事を目にしました。

こんな情景は、大阪に限ったことではありません。立秋とはいえ未だ暑い日々が続く毎日ですが、僕の様に営業で外回りをしている人種はとにかく喉が渇いて堪りません。ですから行く先々の駅で電車を降りるたびに、先ず駅の自販機で缶ジュースをダウンロードします。一時的にのどの渇きは抑えられますが、ものの10分も歩いていると、炎天下で汗が更に吹き出て来ます。ポケットのハンカチーフは度々の汗の吸収でべとべとです。こんな経験は外回りの営業マンは良く経験しているのことですが、車を運転しない僕は毎日歩きで行動しているので殊更こんな体験は日常茶飯事です。

女性なら、一般的に日傘で日焼けを防ぐ方法が取られて不自然ではありませんが、此の間20代の男性が、日傘を差していとも涼しげに歩行しているのを見かけました。それを見て僕は異様な感じを受けたのです。

この感情は一体なんなのだろうか?と自問自答しました。先ほどのおばあさんが突然、男女の区別のあるトイレの男性用トイレに駆け込んだという記事です。

数日前に、僕は女性専用電車について意見を書きましたが、あまりアクセスを頂かなかったようなのがPV解析で知りましたが、それはさておき、突是もよおしたとき緊急時に男性用トイレに女性が飛び込む事は日常あり得る事ですし、不思議な行為ではないと思います。逆の場合もあります。別にこーひーを飲むためだけにマックやドトールに入るとは限らないからです。

トイレを使用するために飛び込むことも大有りです。しかし、そんな緊急時に限って男性用のロゴのドアは使用中で、使用できないのです。もう放尿直前で、脚をすばめてドアの前で待機していると中々開かない。このような時の苛立ちを経験した男性は多いことだろうと思います、女性用トイレは今空いている筈です。若い時は我慢して、男性トイレの空くまで必死にガンして待ちました。我慢して待っている間中はとても長い時間のように感じられていました。「中の人間は、一体中でなにをしてやがるうだろう?大便?極度の便秘?居眠り?エッチな雑誌を見てる?試験勉強?」などなど様々な批判めいた感情が脳裏を横切ります。もう待てない!一向出くる気配がない。少し後ろめたい気持ちを抱きながら、すぐさま女性用トイレのドアを開けて飛び込む。

人間生きていれば飲食は必然の行為ですし、そうであれば、男女の差は無く排泄行為も必然です。自宅での飲食にせよ外食にせよ男性用食堂とか女性用食堂などの区別はあまり聞いたことがありません。で、あるならば排泄に限って、男女の区別をするのはどうも理解ができない矛盾点です。権利の混同ではないのではありませんか?

此ほかに、日常の言語の使用にも男女の区別が当たりにされていて、矛盾を感じ得ません。服装も左前と右前と、男女ではボタンのかけ位置が異なります。左利き右利きでは男女の区別はないではありませんか?

日本古来の風習は長い年月の中で少しずつ変化していきます。進化といってよいのか、ただの変化といってよいのか僕には理解できませんが、僕の意見のご感想を頂けると嬉しいです。全国のみなさん、未だ猛暑やら豪雨の災害を上手く乗り越えて頑張ってください。


男性用か女性用か

2015-08-15 | 日記

【これは実話です】と言ってヤフー知恵袋に出稿された記事です。
先日バスのターミナルのトイレで。。。なんかおばさんがもじもじしているなぁ。。と思っていたらいきなり男性用のトイレに飛び込んでいきました。もう絶句!!しました。
女性用トイレが混んでいたからには違いないでしょうが、それにしたってなんの恥じらいもためらいも感じられない彼女の態度に究極の大阪人の姿を見た気がしました。
一体どんな顔して出て来るんだろうと、密かに見守っていましたが、全然悪びれた風もなく、
本当に普通で平然としていました。あまりにもフツウなので思わず大丈夫でしたか?
(無事間に合ったのか?他に男性はいなかったのか?など色んな意味で。。)
と、いう意味を含んで話してみましたが非常にケロッ!!として笑っていました。
こんなこと、東京ではありえません。
もうなにがなんだか感覚が分からなくなりぞっとしました。
みなさんの関東vs関西、それ以外の地方でも
いろんなカルチャーギャップのエピソードを
教えて下さい!
&この実話に対する感想もお寄せいただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願い致します!!

という記事を目にしました。

こんな情景は、大阪に限ったことではありません。立秋とはいえ未だ暑い日々が続く毎日ですが、僕の様に営業で外回りをしている人種はとにかく喉が渇いて堪りません。ですから行く先々の駅で電車を降りるたびに、先ず駅の自販機で缶ジュースをダウンロードします。一時的にのどの渇きは抑えられますが、ものの10分も歩いていると、炎天下で汗が更に吹き出て来ます。ポケットのハンカチーフは度々の汗の吸収でべとべとです。こんな経験は外回りの営業マンは良く経験しているのことですが、車を運転しない僕は毎日歩きで行動しているので殊更こんな体験は日常茶飯事です。

女性なら、一般的に日傘で日焼けを防ぐ方法が取られて不自然ではありませんが、此の間20代の男性が、日傘を差していとも涼しげに歩行しているのを見かけました。それを見て僕は異様な感じを受けたのです。

この感情は一体なんなのだろうか?と自問自答しました。先ほどのおばあさんが突然、男女の区別のあるトイレの男性用トイレに駆け込んだという記事です。

数日前に、僕は女性専用電車について意見を書きましたが、あまりアクセスを頂かなかったようなのがPV解析で知りましたが、それはさておき、突是もよおしたとき緊急時に男性用トイレに女性が飛び込む事は日常あり得る事ですし、不思議な行為ではないと思います。逆の場合もあります。別にこーひーを飲むためだけにマックやドトールに入るとは限らないからです。

トイレを使用するために飛び込むことも大有りです。しかし、そんな緊急時に限って男性用のロゴのドアは使用中で、使用できないのです。もう放尿直前で、脚をすばめてドアの前で待機していると中々開かない。このような時の苛立ちを経験した男性は多いことだろうと思います、女性用トイレは今空いている筈です。若い時は我慢して、男性トイレの空くまで必死にガンして待ちました。我慢して待っている間中はとても長い時間のように感じられていました。「中の人間は、一体中でなにをしてやがるうだろう?大便?極度の便秘?居眠り?エッチな雑誌を見てる?試験勉強?」などなど様々な批判めいた感情が脳裏を横切ります。もう待てない!一向出くる気配がない。少し後ろめたい気持ちを抱きながら、すぐさま女性用トイレのドアを開けて飛び込む。

人間生きていれば飲食は必然の行為ですし、そうであれば、男女の差は無く排泄行為も必然です。自宅での飲食にせよ外食にせよ男性用食堂とか女性用食堂などの区別はあまり聞いたことがありません。で、あるならば排泄に限って、男女の区別をするのはどうも理解ができない矛盾点です。権利の混同ではないのではありませんか?

此ほかに、日常の言語の使用にも男女の区別が当たりにされていて、矛盾を感じ得ません。服装も左前と右前と、男女ではボタンのかけ位置が異なります。左利き右利きでは男女の区別はないではありませんか?

日本古来の風習は長い年月の中で少しずつ変化していきます。進化といってよいのか、ただの変化といってよいのか僕には理解できませんが、僕の意見のご感想を頂けると嬉しいです。全国のみなさん、未だ猛暑やら豪雨の災害を上手く乗り越えて頑張ってください。