■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森123号

2008-05-04 | 101号~200号
       ■こならの森123号■1998.7発行

表紙 「のかんぞう」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…のあざみ……3p
知らんの5つの市/……ホームズ……4p
結婚(誕生)…遠藤さん夫妻…5p
クイズ/タウン/現代国語…だい…6-7p
JC・インタビュー…東ちづる…8p-11p
小京都………12-17p
ロータリー………18-19p
ざ・ショートショート………20-21p
海棠市子の映画評………22p
書評・絵本紹介……23p
インフォメーション98………24-27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

小京都………12-17p

■コ・京都ミステリー
 このほど、佐野市で市政55周年を記念して、全国京都会議がおこなわれた。古都といわれ都市をあげて見ると、確かに全国には多い。そして、そのいずれもが多かれ少なかれ、究極の都、京都をイメージしているといっていいだろう。東京でさえも京都のイメージを得ているといわれている。東北の藤原三代も京にあこがれそれを思い描いた都市造りをした。東国の京(東京ではない)鎌倉でもしかりだ。京都がなければ、鎌倉の都市造りもまた違ったものになっていただろう。
 なぜそこまでして京都の都市造りは完璧なものとなったのだろうか。実際に、京の都の基礎、平安京は未完の都であった。現在では完成されたように思われる都だが建設当時の思惑とは違っている。平安京が基盤造りをして、基礎を築いた後、信長も秀吉も、京都を根拠地としては活用しなかった。桃山や大阪を拠点に城を築き、根城にした。今の米でいう、ワシントンとニューヨークとでもいうのだろうか。経済や政治の中心がどこに移っても、精神的な中心@母体@を常に京都において来たとも言える。藤原京、平城京、平安京と移り変わった首都としての完成が、現在にも続く『京都』だといえるだろう。
 また、平安京の前に造られた長岡京が、早良親王の怨霊によって現在の京都に変更されたともいわれている。
 映画『もののけ姫』ではないが、なにかこの時代特有のスピリチュアルな文化があったと思われる。
 さて、『古都・佐野』へ話を移そう。現在の佐野市の都市計画は、佐野氏が拠点を唐沢山から今の城山へ移した1602年から始まる。
 『駅南のひろば』に連載の『駅前古今』の著者、郷土史家・京谷博次さんによれば、佐野市の都市計画にも四神相応の考え方あったという。規模は小さいが、1602年(信吉)から、地図にあるような地形の都市づくりをしていた。
 原図は1853年、井伊直弼が佐野に来た時に製作した。太い線は井伊直弼が遊行した道筋を表したもので、当時の道の広さには関係ないという。
■唐代の長安城
 ご存じの通り平安京は中国の長安城をモデルにして建設された。しかし、四方にぐるりと回した城壁は、平安京では簡素なものになっている。日本では騎馬民族のような外来からの襲撃を受けるということはないから、かなりオープンが外壁であったということだ。佐野でも、地図を見る限りでは城壁らしきものは見られない。
四神相応の考え
西■大道=東山道、例幣使街道
北■丘陵=城山、水道山、唐沢山
南■窪地=渡良瀬川沿岸の低地
東■清流=三杉川
 四神相応とは、広辞苑によれば『四方の神、東は青竜(流水)、西は白虎(大道)、南は朱雀(くぼち)、北は玄武(丘陵)の四獣。四季を神に配した称。』それをもとに、相応したもっとも貴い地相が四神相応。東に流水があり西に大道、南にくぼち、そして北に丘陵のある地相がよい。平安京もこの考えに基づいて選定。
[佐野京(佐野市)と平安京(京都)の相違点]
■京より一歩進んだ防御都市
 この近辺ではまれに見る近代的な京都を見本にした都市(計画)であると言える。ただ、京都のような厳格な碁盤の目ではなく、食い違いが防御上の工夫がこらされているというから、時代により京都より(規模の違いこそあれ)さらに進んだ防御都市と言ってもいいと思う。
 京の鬼門にあたる位置には比叡山がおかれている。実際には、長岡京ができたときに開山しているので、京都の鬼門除けのために比叡山が造られたのではないそうだが、長岡京から鬼門方向に向けて京都が造られたことを考えると、その位置関係も始から加味されていたとも考えられる。
 佐野市ではどうか、実は同じように、鬼門に集中して寺が配されている。市内の地図を見て頂ければ一目瞭然だろう。そして、道路の要所要所にも社寺が配されているのである。
 ただ、まるっきりのさら地を開拓したというより、既成の土地を碁盤の目上に整備したものという。
 こならの森掲載の歴史講座の中にも、「道の突き当たりには寺を配します。これは有事の際に寺に防御の役名を果たせるためです。西を流れる秋山川は水堀の役目です。水道山といわれる山には、小野寺から八幡宮を遷座して祀ります。寺の大部分は唐澤山の麓にあったものです。」とあります。 
 佐野市は小京都と銘打っている数ある都市でも、その歴史的古さや、都市計画など、呪術的バリアなどどれをとっても、小(コ)・京都といって過言ではない。しかし、現在では、往年の町並みを残した地区があまりにも少ないので、見ただけ(一見)では単なる地方小都市としか受け取ってもらえない。せいぜい、心に残る一番のイメージはラーメンの町と言ったところだろうか。事実、町に住む人でさえ関東随一のミニ京都だということにあまり関心がないようだ。
 ただ、歴史だけでは日本一の小京都だと威張れる訳ではない。小京都のメンバー都市は名だたる有名な都市が目白押しだからだ。とても本来なら太刀打ちできるものではない。足利市の鑁阿寺周辺の方がソレらしいと思うし、イメージづくりも、その膨らませ方(ハッタリ)も残念ながら佐野市には全くない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿