京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(227):神泉苑・その5




 京都市街地の中に古くから遺る、数々の歴史と伝説に彩られたパワースポット、神泉苑を紹介する第5回目です。
 今回も、この庭園の各所をめぐりながら、そうした伝説のいくつかを紹介していきたいと思います。

 今回は北門までの道を、「五位鷺」伝説や「百鬼夜行」伝説などとともに紹介していきます。

 まずはシリーズ前回の続きから。
 本堂から北門へ、「平安殿」という建物の前を通ります。








 この平安殿という建物には、京料理の店『平八』があるようです。
 懐石や鍋物などの京料理の他、披露宴なども行われているようです。

 ただ、私のような貧乏人が一人で入るには、あまりにも高価・高級すぎるますので、この時は入りませんでしたが(苦笑)。



 池の一角、『平八』さんの前には、竜船が浮かべてあります。





 平安時代の皇族・貴族などもこうした船を浮かべて遊宴を楽しんだものと思われます。
 『平八』さんでは、竜船に乗せてもらうサービスも受け付けているそうです。


 ところで、竜と言えば。
 「竜の棲む場所」「竜穴の存在する場所」との伝説もある神泉苑ですが、空海が召喚・勧請した善女竜王の他にも、竜の伝説があります。

 『今昔物語集』の「忠明、龍に値へる者を治する語」という段にも、こんな話が伝えられています。

 昔、後朱雀天皇の時代。
 皇居を警護の武士の一人が、従者に自宅まで酒の肴を取りに行かせた時のことです。
 自宅に使いにやった従者がいつまで経っても帰ってこないので、不審に思った武士は、自宅まで確かめに行きました。
 その従者は自宅で、死んだように臥していました。家人の話では、「昨日、今にも死にそうな表情で帰ってきた」とのこと。武士が問いかけても、身体を少し動かす程度で返事は無く、本当に死んだように眠っています。
 武士は、丹波忠明(たんばただあき)という名医に相談します。
 武士の話を聞いた丹波忠明は、「灰を多く集めて、その男を灰の中に埋めて、しばらく様子を見なさい」と答えました。
 武士は忠明医師の言うとおりにして、しばらく様子を見ていると、灰が動き出し、従者は正気に返って起き上がってきました。
 武士は従者に水を飲ませて落ち着かせてから、何があったのかを訪ねました。
 従者は答えました。
 「昨日走っていますと、神泉苑の西側でわずかに雷鳴があり、夕立になりました。その時、神泉苑の中は真っ暗闇になりました。その暗闇の中から、金色の手が現れ、急に四方が暗くなり、意識も朦朧としてきました。何とか家までたどり着きましたが、それから後のことは覚えていません」
 再び武士は忠明医師を訪れ、その話をしました。
 その話を聞いて、忠明医師は笑って答えました。
 「やはりそうだったか。竜の身体を見た人が病に倒れた時は、この方法でしか治せないのだ」
 職場に戻った武士は、同僚の武士たちにその話をしたところ、皆が丹波忠明医師のすごさに驚き、世間にも伝わったということです。
 この一件だけでなく、忠明医師はただ者ではない、と語り伝えられているそうです。

 この話で中の中で注目すべきなのは、「神泉苑に金の竜が居た」ということではなく、「丹波忠明という医師が特殊な、卓越した能力を持っていた」ということです。
 ここに登場しました丹波忠明という人は、単なる名医というだけではなく、大陰陽師・安部晴明や、妖怪を倒したという源氏の武将などと同じように、「特殊な力を持った超人の一人」として伝えられていたようです。
 忠明医師の異能を示す説話・伝説は他にもあるのですが、今回はこれだけ紹介するにとどめておきましょう。



 では、神泉苑内の散策に話を戻します。

 平安殿の前を過ぎて、小さな石橋を渡っていきます。
 
 



 石橋の上から見た光景。たくさんの生き物たちの姿が。








 あっ。この中に鳥の姿も。





 なんと!
 これはゴイサギではないですか!
 いや、これは何とも……。
 こんな時に、この神泉苑でゴイサギ(=五位鷺)に会えたとは、何たる幸運でしょうか!
 神様の巡り合わせという奴でしょうか。

 すみません、何故私がゴイサギを見てこんなに大喜びしているのかと言いますと。
 神泉苑には、ゴイサギ(=五位鷺)の伝説も遺されているからです。
 神泉苑のHP内にも書かれていますが、ゴイサギ(=五位鷺)に関しては次のような伝説も遺されています。


>醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。
召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。
召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。
帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。
以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれ、
謡曲にも謡われるようになる。


 これが「五位鷺」の呼び名の由来だとも伝えられてるそうですが。
 神泉苑の御池通り側入り口付近にも、五位鷺の由来が書かれた案内板が立っています。



 

 でも、この五位鷺くん。
 天皇の前では命令に従い、ひれ伏しても、私ごときの言うことには従ってはくれません(苦笑)。


 いよいよ、北門が見えてきます。
 その時、北門前にふたつの白い物体が見えます。





 「誰だよ、こんなところにのレジ袋入りのゴミを放置しているのは」と思って近づいたら……。





 2羽のアヒルが、身体を丸めている姿でした。
 ここ神泉苑のアヒルは、神泉苑のマスコットキャラみたいになって大事にされているようで、神泉苑のHP内のコーナーでも紹介されています。
 以下は、これより以前に神泉苑を訪れた時の様子ですが、ここのアヒルは人によく慣れたかわいいアヒルです。












 アヒルを見た後は、神泉苑の北門と、その前に広がる二条城の堀・石垣の前に出ます。









 ところでこの北門にも、妖怪の伝説が遺されています。
 『今昔物語』の「尊勝陀羅尼の験力に依りて、鬼の難を遁れたる語」という、以下のような話。

 平安時代の延喜年間(903~923年)。
 藤原常行という美男の若君(右大臣・藤原良相の息子)が、西三条の自宅から、左京に住む愛人の元へ従者を連れて、夜中に出かけた時のことです。
 常神泉苑の辺りに差し掛かった時、松明を燃やして罵りながらやってくる行列に出会います。
 常行の従者が、神泉苑の北門が開いていることを知っていたので、そこに隠れて様子を見ることにしました。
 そこで身を隠して様子をうかがっていますと、なんとその行列は、恐ろしげな姿をした鬼の集団だったのです。
 常行は鬼に見つかって、捕まりそうになりましたが、病悩消滅・長寿安楽・厄難除去の功徳があるとされる「尊勝陀羅尼」を入れてあったので、鬼たちを退けることが出来て、一命をとりとめたと、伝えられています。


 ただ当時の北門は、現在の北門とは違う位置にありました。
 というのは、かつての神泉苑は現在よりもはるかに広大であり、当時の北門があった場所も、現在の二条城の敷地内にあるそうです。ですから、藤原常行が百鬼夜行に遭遇した現場は、現在の二条城内にあるわけです。
 中世以後、神泉苑は衰退・荒廃は進み、徳川時代には二条城造営により、大きく規模を縮小させられたそうです。
 ということは、現在の二条城の敷地をも含んだ広大な庭園だったわけですね。

 神泉苑の縮小があったからこそ、世界遺産にも登録された二条城の存在と、現在の街の繁栄があるのですから、それに対して批判がましいことを言うことはできませんが……。
 それにしても、もしこの、数々の歴史と伝説に彩られた神秘の庭園が、当時のまま遺されていたら、果たしてどんな様子だっただろうな、とも思えてきました。


 さて今回で、シリーズ第223回から5回続いた、神泉苑の紹介特集は終わります。









 今回はここまで。
 また次回!
 



*神泉苑へのアクセスはこちら



*神泉苑の公式HP
http://www.shinsenen.org/



*『京都 神泉苑 平八』のHP
http://www.heihachi-web.com/




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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