京都の闇に魅せられて(新館)

城陽の夜叉伝説の木と墓石 @ 京都妖怪探訪(800)

 

 

(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)

 

 

 どうも、こんにちは。

 シリーズ前回に引き続いて今回も、京都・城陽市内の妖怪伝承地を訪れます。

 今回は、「夜叉ばあさん」と呼ばれた女性と、その呪いの伝承が伝わるスポットです。

 しかもこれは、シリーズ前回に訪れた水渡神社からの帰り道の途中で偶然見つけた、つまり私の計画性が無く、行き当たりばったりな性格ゆえに、たまたま発見してしまったスポットでもあるのです(笑)。

 これまでも本シリーズでは、このようなケガの功名みたいな経緯で発見したスポットもいくつか紹介してきましたが。

 これも未知の、新たな妖怪スポットに巡り合わせてくださった、何かの神様のお導きに違いない、とプラスの方向に解釈して、このスポットを訪れ、取材と撮影と調査をし、こうしてブログ記事にすることにしたのです。

 

 

 シリーズ前回で水渡神社を出た後、近くのバス停「城陽高校」停留所まで行きましたが・・・バスは一時間に一本ほどしか出ておらず、次のバスまでには一時間ほどまたなければなりません。

 

 

 

 これでは、最寄りの鉄道駅では歩いていった方が早いと考え、帰り道は駅まで歩くことにしました。

 豊かな街路樹に覆われたこの辺りの歩道は、やや歩きにくいものの、なかなか面白いと思いながら、楽しんで歩くことが出来ました。

 その途中で、こんな案内看板を見つけました。

 

 

 

 

 その時私のアンテナは、案内板の中に書かれた「夜叉婆さん伝説の池」というのを見逃しませんでした。

 これは未知の妖怪伝承の匂いがする!

 そう思った私は、このまままっすぐ最寄りの鉄道駅を目指すという予定を急遽変更して、その「夜叉婆さん伝説の池」を目指し、その池のそばに立つという「伝説の夜叉婆さんの顔した古木の瘤」を探すことに決めました。

 それにしてもこの辺りの歩道は、街路樹が一杯で、少し歩きにくいけど、面白いなあ、と思いながら歩き続けます。

 

 

 

 

 

 

 JR奈良線の踏切を越えて。

 

 

 


 奈良街道と交わる交差点の付近に。

 

 


 向かって左手に池が。

 

 

 

 

 後述しますが、この池が「玉池」という、伝説の「夜叉婆さん」が身投げしたとも伝えられている池です。

 現在ではフェンスとコンクリートで囲まれた小さな池ですが。

 

 

 

 向かって右側に鳥居が見えます。

 

 

 何と、水渡神社からここまでの道は、水渡神社への参道だったのですね。
 それでここの鳥居は、その参道の一の鳥居だったのですね。
 シリーズ前回に訪れた水渡神社は、古くからこの辺りで勢力を持ち、広く信仰されていた、結構凄い神社だったのだな、と驚かされます。


 確か、鳥居から東へ3本目のムクの木でしたか。

 

 

 

 

 その幹に大きな特徴的な瘤が。

 

 

 

 

 「この瘤が老婆の顔のように見える」と言われ、この地に古くからあった「夜叉婆さん」の伝承とも関連付けられ、いつしか「夜叉婆さんの椋の木」と呼ばれるようになったそうです。

 私には、大きなタラコ唇のように見えるのですが。

 

 

 さて、その名の元ともなった、「夜叉婆さん」の伝説とは。

 手持ちのスマホで検索して調べたら、それはだいたい以下の通り。 

 

 昔、寺田村の庄屋に娘が居ました。

 その娘も年頃になったので嫁に行きましたが、離縁されて戻ってきました。それでもいいところのお嬢さんなので、また別の家へともらわれますが、同じく離縁されてしまいます。そうして結婚しては離縁されるということが7度も(一説には十数回以上度とも)続きます。

 よほど酷い悪縁なのではないかと、周囲の人々はいつしか娘のことを“夜叉”と呼ぶようになります。娘は結局、観音堂の堂守となって一生を終えたとも、あるいは街道の四つ辻にある玉池に身投げして死んだとも言われていますが。

 それ以来、この玉池の四つ辻辺りを嫁入り行列が通ると縁付かないとされ、避けて通ることが習慣となったと伝えられます。

 

 

 ・・・・・。

 

 

 んー。

 何と言いますか。

 これ今で言えば、女性差別かセクハラとかにあたるんじゃないの、という気が。

 その時代の、その社会の制度、価値観、社会常識、通俗道徳などから、差別されてきた人々とか、世間からのけ者にされた人々とかが、鬼や妖怪などとされる場合もありますが、この夜叉婆さん伝説もそうした例のひとつかもしれないですね。

 おそらくこの伝説の元となった庄屋の娘さんは、今で言えば、結婚や家庭生活などというものに向いていないタイプだったのかもしれません。

 現代ならば、生涯独身でキャリアウーマンを目指すとか、結婚する以外に人生の選択肢は示されていたかもしれませんが、「女は結婚し、子を産んで、男と家に尽くすのが当然」という価値観が支配的だった古いムラ社会では、ものすごく異端視されたものと思われます。

 しかも死後もなお、異端視され続けていたようで、今の価値観からすれば、これは酷いいじめや差別みたいなものではないかな、と。

 

 

 ところで、元々はこの辺りに「夜叉婆さん」が葬られた墓があったそうですが、現在では寺田の共同墓地内に移転されたそうです。

 次に、その「夜叉婆さん」の墓を探します。

 四つ辻、玉池から、奈良街道を南へと歩きます。

 

 

 

 普通の閑静な住宅地が続きますが、少し歩くと寺田の共同墓地が見えてきます。

 

 

 


 中へお邪魔します。

 

 

 


 大きな忠魂碑の前を通り過ぎて。

 

 

 


 共同墓地のほぼ中央にある休憩所のそばに、ぽつんと立っている墓石。

 

 

 これこそが、伝説の「夜叉婆さん」の・・・というか、「夜叉婆さん」とされた女性の墓石のようです。

 余談ですが、近代以前の日本にも、「夜叉婆さん」のように、結婚生活に向いていない、その当時の「女は結婚して家と男に尽くして当然」という価値観からは外れた生き方をして女性は居ました。
 有名な例では、歴史に名高い絵師・葛飾北斎の三女・‘葛飾応為’ことお栄です。幼少時より絵の才能に恵まれ、父・北斎の助手みたいな働きをした他、『吉原格子先図(よしわら こうしさきのず)』などの作品も遺しています。しかし、結婚や家庭生活には不向きな人物でもあったようです。南沢等明(堤等明)という絵師と結婚はしましたが、家事をほとんどせず(出来ず)、夫を立てるということをしないどころか、絵師として超一流の腕と目があっただけに、夫の仕事や作品に批判やダメ出しばかりをしていた為に、離縁されてしまったという、嫁さんとしては最悪なタイプの女性だったようです。
 ただ葛飾応為には、絵の才能があり、絵師として、父・北斎の制作助手として生きるという選択肢がありましたが。
 城陽・寺田の「夜叉婆さん」の場合は、古いムラ社会であった為に、またいいとこのお嬢さんだった故に、当時の価値観や通俗道徳から外れてしまえば、堂守として世間の偏見に晒されながら生きるしか選択肢がなかったのかもしれません。
 おそらくこうした女性は、他にもたくさん居ただろうな、と思います。
 もしかしたら、各地の「鬼婆」「山女」「山姥(やまんば)」などと言われた存在の中には、こうした女性も居たかもしれない。
 そんなことを想像しながら、夜叉伝説の地を後にしました。

 

 


 「特別編・2022年の目標」で、「今年中に、本シリーズで新規スポットの記事を最低でも15以上、出来れば20以上書く」ことを目指していましたが。
 今回12本目。目標達成まであと3本です。


 なお最後に。
 城陽の夜叉婆さん伝説に関してこういう動画が、しかも城陽市のPR動画の中にありました。
 面白いので、以下に貼っておきます。


 

 今回はここまで。
 また次回。

 

 

*夜叉婆さんのむくの木の周辺地図はこちら

 


*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/

 

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