京都の闇に魅せられて(新館)

葛城トオルと霊場京都を巡る戦い、豊臣秀吉vs安倍晴明vs徳川家康(前編) @ 京都妖怪 探訪(686)





(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 今年(2020年、令和2年)の3月3日、ひな祭りの日。
 京都の妖怪絵師・伝道師である葛城トオル氏主催の、京都・東山の霊場魔所をめぐるツアーのレポート記事、第4回目です。
 シリーズ前回では、京都・東山の秀吉ワールドを。あの豊臣秀吉が京都・東山に築いた「秀吉ワールド」の一部を巡りました。
 今回はその続きで。

・それら「秀吉ワールド」が、豊臣秀吉が京都を霊的・呪術的にも支配する為に築かれたこと。
・秀吉の死後もなお、パワースポットに見立てた京都のパワーを得続けようとする霊脈(レイライン)が築かれたこと。
・その為に、秀吉は安倍晴明とその痕跡を排除しようとし、あの茶人・千利休が起用されたこと。
・さらに秀吉の死後、秀吉が築いたレイラインが徳川家康によって断ち切られてしまったこと。

 これらの驚くべき説を。
 歴史の表に出てくる戦とはまた違う、歴史の裏側にある霊的・呪術的な支配権を巡る戦いの話を、葛城氏に語って頂きました。
 それらを前編(今回)と後編(シリーズ次回)との2回に渡って紹介します。
 シリーズ前回では、「秀吉ワールド」の一部を。豊国神社、耳塚、方広寺、方広寺の鐘楼と石垣と、豊臣秀吉が京都を支配する為に京都・東山に築いた遺稿の数々を、葛城氏の案内と解説付きで巡りました。
 さて、これらは「秀吉ワールド」の一部でしかないのですが、東山に築かれた秀吉の遺稿の中で、忘れてはいけない場所がもうひとつあります。
 それが、京都の街を見下ろす阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の上に築かれた秀吉の墓所、「豊国廟(ほうこくびょう)」です。
 今回のツアーでは、豊国廟については、実際にその場所を訪れることはなく、葛城氏の解説のみになりました。
 時間的な余裕が無かった為というのもありますが、実際に500を超える石段を上って、現地に行くのは大変なので。もうそれだけで体力を使ってしまいそうですから。
 ただ、だいぶ以前にですが、豊国廟まで上ったことがありますので(記事本筋の葛城氏ツアーの話からは一旦それますが)、今回ここで公表します。


 京都・東大路通りと交わる七条通りの東端「東山七条」よりすぐ近く、少し北上した場所から始まる「豊国廟参道」。






 参道途中には(後白河ワールドの一部である)新日吉神宮の他、京都女子大学や付属中学・高等学校などもあり、多くの女子学生が通っていることから「女坂」とも呼ばれます。









 京都女子大の駐車場敷地と、公園のような場所を横切ったところに、豊国廟へ続く石段の入り口があります。












 そこから延々と続く長い石段をひたすら上っていきます。














 標高196メートル、560段以上の石段を上るのはなかなか大変で、ちょっとした運動にもなります。
 途中で身体を鍛えるためか、ジョギングやウォーキングのコースとして利用されている方も居られたほどです。
 その登り切った上に立つのが、秀吉の墓所・豊国廟です。





 豊臣秀吉の遺言により、京の街を見下ろせるこの場所に建てられたそうです。


 さてここで、葛城氏のツアーに話を戻します。
 葛城氏のお話によれば、豊臣秀吉がこの場所に自分の墓所を建てさせたのにも理由があります。
 平安京時代からの有名な葬送地のひとつ鳥辺野があります(※シリーズ第572回から第574回までを参照)。
 その鳥辺野の北側は庶民が、南側には皇族や貴族が葬られていたそうですが、そのほぼ境目にあるというのが、阿弥陀ヶ峰だそうです。
 さらにこの場所の選定には、「パワースポットとして見立てた京都の霊的パワーを死後も享受し続けたい」という秀吉の意図があったというのです。


 以下の写真は、葛城氏が私を含むツアー参加者に配布した資料中の地図です。





 地図の右端、京都女子大の横に見える赤いピンの位置に豊国廟があります。
 地図を見ますと、当時の本願寺(現・西本願寺)からまっすぐ東に方広寺、そしてそのほぼ東の延長線上の位置に豊国廟があります。
 これは一種の「レイライン(ley line)」ではないか、と。
 「レイライン」とは、英国の巨大遺跡群などのように、古代遺跡群の中には直線上に並ぶかのように建てられたものもあり、それらを結ぶ線を言います。その線・並び方には宗教的、あるいは呪術的な意味があると考えられているそうです。
 京都の支配者でもあった生前の秀吉は、京都の街を大幅に造り変え、聚楽第という大規模な邸宅を築いたりなど、京都の街に対して相当な愛着というか執着を抱いていたようです。
 表の、目に見える世界での支配力や権勢の誇示だけでなく、裏の、目に見えない霊的・呪術的な世界までもを含めた完全なる支配を、豊臣秀吉という人物は望んだものと思われます。
 当時の京都で最大規模だった霊場(宗教施設)だった本願寺と、自らが築き上げた壮大な霊場である方広寺、そして自分の墓所と。それらをほぼまっすぐな「レイライン」で結び、生前だけでなく死後も尚、霊場・京都のパワーを我が物とし続けていたい、支配者として君臨し続けていたい。秀吉のそんな願望が透けて見えるようです。






 さて、「秀吉が霊的・呪術的な意味でも京都を完全支配したい」という願望を実現させたい秀吉にとって、邪魔な存在がありました。
 それが・・・平安時代の大陰陽師・安倍晴明だったのです。
 安倍晴明の説話や伝承の数々。
 安倍晴明が遺し、伝えたとされる陰陽道や、日常生活までに渡るその影響。
 さらに京都の各地には安倍晴明やその親類縁者などを祀った社が幾つもあったそうです。
 つまり、京都の目には見えない裏の世界までをも支配するには、安倍晴明という歴史的・伝説的な巨人の存在はどうしても邪魔だったのです。
 そこで、秀吉はその影響を取り除こうとするのですが・・・。






 今回はここまで。
 当初この話は、今回一回だけで収めるつもりだったのですが、思ったより長くなってしまいましたので。
 この続きはまたシリーズ次回に。





*豊国神社のTwitter
https://twitter.com/toyokunishrine/



*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido




*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/




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