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京都の闇に魅せられて(新館)

「信長忌」に織田信長・魔王伝説を振り返る @ 京都妖怪探訪(787)

 

 

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 どうも、こんにちは。

 今回は、今年(2022年)6月2日も行われた「信長忌」で、京都・寺町の古刹・阿弥陀寺など織田信長に関するスポットの幾つかを訪れました。

 「信長忌」とは。

 日本人ならほぼ誰でも知っている有名な戦国武将の一人・織田信長が、天正10年6月2日(1582年6月21日)に、あの「本能寺の変」で部下・明智光秀の謀反により死んだ日と伝えられています。

 毎年6月2日には、その信長の死を悼み、供養をする「信長忌」が行われる寺院もあります。

 さて、何故本シリーズで、「信長忌」と織田信長をとりあげるのかと言いますと。

 これも有名な話ですが、織田信長は自らを「第六天魔王」を名乗り、比叡山焼き討ちをはじめ、高野山、石山本願寺、紀州根来寺など大寺院を次々と攻撃・破壊し、その際に僧侶や僧兵だけでなく、女性や子供を含む民間人をも多数犠牲にしたことや。義弟であるはずの浅井長政の頭蓋骨に金箔を塗った杯を作らせて酒を飲んだとかいう猟奇的な奇行もやったという逸話もあり。

 「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」という言葉にも象徴されるように、苛烈で情け容赦ないイメージに加え、そのような数々の逸話も遺されていることから、現在に至るまで「信長=魔王」というイメージが伝わってしまいました。

 その後、小説、漫画、アニメ、ゲームなどで「魔王」や「悪の大ボス」的なキャラとして描かれることも多くなりました。

 そんな「魔王」としての信長を悼み、供養する為に「信長忌」に参加し、また信長及び、信長の不思議エピソードが遺るスポットを巡ってみようと思い立ったのです。

 その第一回目として、織田信長や小姓・森蘭丸の墓が遺されているという、京都・寺町の阿弥陀寺で行われた「信長忌」を訪れた記事を・・・書く前に、「第六天魔王」として描かれた織田信長の登場する作品をいくつか紹介し、何故織田信長が自ら「第六天魔王」を称し、後世まで「魔王」のイメージが伝わってしまったのかを振り返っていきたいと思います。

 

 

 

 織田信長。

 小説、漫画、映画、ドラマ、アニメ、ゲームなど、多くの創作物で、最も数多く題材として取り上げられてきた歴史上の人物の一人と言えるでしょう。

 それほど個性的で、強烈なインパクトのあるキャラクターですから。

 そんな様々な創作物でキャラとして使われてきた信長像を、585作品の703例も集めて紹介した姫川榴弾『信長名鑑』という本があります。その中には、実に多種多様な信長像が描かれてきたことがわかります。

 正統派(?)の戦国武将として描かれた作品も多いのですが、ある時は冷酷非情な暴君として描かれたり、またある時は間抜けなギャグキャラとして描かれたり。

 少年、青年キャラとして描かれることもあれば、何と女性キャラやラノベやエロゲーの美少女キャラとして描かれることもあったりします。

 このような実に多種多様に表現されてきた信長像をざっと眺めてみただけで、織田信長というキャラに対する日本人の愛着というか思い入れが如何に強い者であるかに、改めて驚かされます。

 

 

 そして勿論、邪悪な性格と超常的な力を持ち、多くの魔物をも支配して悪逆非道の限りを尽くす「魔王」として描かれた作品もあります。

 (完全に独断と偏見にすぎないのですが)私が実際に視た中で現在まで特に印象に残っているのが、荻野真の漫画『孔雀王』と、OAV作品シリーズ『戦国奇譚・妖刀伝』です。

 『孔雀王』では、西洋からの宣教師を通じて大魔王サタンと契約して、文字通りの魔王と化した人物として描かれています。

 

 

 

 

 孔雀王の単行本第10巻に収録されているエピソードですが。

 密教の孔雀明王の生まれ変わりの退魔師である主人公・孔雀は、自らの呪われた出生に関わる秘密を探るため、退魔師の総本山「裏高野」を訪れます。

 しかしその時、裏高野は何百年も前に死んだ筈の魔人・織田信長の襲撃を受け続けていて、主人公も裏高野の退魔師たちと共に信長と戦うことになります。

 

 

 

 しかしその時、宿敵である裏切り者の退魔師・鳳凰(ほうおう)の罠にはめられ、冥府の底へと追いやられ、そこで魔王と化した織田信長の霊と直接対峙することになります。

 魔王・信長も最後はあらゆる悪や不浄を焼き尽くす不動明王の火によって、消滅させられます。そして、主人公は冥府から現世へと戻り、鳳凰をも撃退します。

 なお、『孔雀王』シリーズには、神秘主義にも傾倒していた独裁者アドルフ・ヒトラー、末期ロシア帝国の怪僧グレゴリー・ラスプーチン、そして有名な怪談【リョウメンスクナ】などで有名な邪教の徒・物部天獄(もののべてんごく)をモデルにしたと思われる「浦上天獄」など。織田信長以外にも、様々な創作物で悪役として登場することも多い歴史上の有名人も登場しているのも面白いですね。

 

 

 

 もうひとつ、80年代くらいに創られた古い作品ですが、『戦国奇譚・妖刀伝』というOAV作品シリーズです。

 

 

 

 この作品でも、織田信長は残忍な性格と強大な魔の力を持ち、「朧衆(おぼろしゅう)」という強力な魔人たちをはじめ、多くの魔物を操る魔神か魔王キャラとして描かれています。

 

 

 

 主人公は、信長の放った魔物たちに故郷も家族も滅ぼされた、「香澄の綾之介(その正体は男装した綾女という女性)」、「疾風の左近」、「不動の龍馬」という3人の忍者。

 魔神・信長を倒すために、3人はそれぞれの里に伝わる神刀を持って、信長や信長の軍や魔物たちと戦っていくというストーリー。

 ひとつネタバレの話をしますと。

  多くの魔物が跋扈する文字通り魔の城と化した安土城で、主人公たちと信長や配下の魔物との最後の戦いが繰り広げられます。

 しかし実は、本当の黒幕は、織田信長の小姓・森蘭丸で、信長も蘭丸によってうまく操られ、利用されていた魔物の一人にすぎなかったという真相が、最後に明らかになります。

 

 

 

 3人のうち、左近と龍馬が犠牲になりながらも、蘭丸を倒し、「冥府魔道の入り口を開き魔物たちをこの世に呼び寄せる」という蘭丸の野望を阻止。

 ただ一人生き残った綾之介(綾女)が、自分を女として愛してくれた左近の死を看取り泣き崩れるという、哀しいシーンで終わります。

 

 このアニメは主人公が戸田恵子、左近が井上和彦、龍馬が渡部猛、織田信長が矢尾一樹、森蘭丸が塩沢兼人など、声優陣もなかなかに豪華な事も特徴です。

 また、主題歌である「愛は神話の果てに」もなかなかの名曲であると思いますので、以下の動画もあげておきます。

 

 

 

 

 

 作品紹介はこれくらいにしておきまして。

 そもそも織田信長が「第六天魔王」と呼ばれるようになった理由とは一体何でしょうか。

 冒頭にも言いましたように、そのようなイメージを抱かれるにふさわしい行為を繰り返してきたからというのもありますが、一番のきっかけは「自分でそう名乗ったから」だと考えられています。

 あの比叡山焼き討ちの後信長は、武田信玄からその行為に対しての抗議や皮肉とも受け取れる内容の書状を受け取っていたそうです。その書状で武田信玄は、差出人名に「天台座主沙門信玄」と書いたそうです。

 「天台座主」とは、比叡山天台密教の最高位にある高僧。当時信玄は、仏教の信仰が厚かったこと、出家して「武田晴信から信玄と名乗っていたこともあって、「自分こそは天台密教の、仏教の守護者である」という自負もあったのか。或いは「天台密教に仇なすということは、自分を敵に回すこと」と言いたかったのかもしれませんが。

 で、これに対して信長は、「第六天魔王・信長」と名乗った書状を送り返した、とされています。

 もっともこの話は、当時のイエズス会宣教師ルイス・フロイスが、上司である日本布教長フランシス・ガブリエルに送った報告書にその記述があるだけで、信玄と信長がやりとりしたというその書状は現存しないので、今のところその根拠はルイス・フロイスの報告書だけしかありませんが。

 これだけ見れば、「売り言葉に買い言葉」という感じがしないでもありません。

 子供のケンカなどで、一方が「俺は正義のヒーローだぞ」と名乗ったら、もう一方が「なにをー。それなら俺は悪の総統だぞー」と名乗る・・・そんな感じのノリなのだろうか、信玄も信長もいわゆる厨二病の傾向でもあったのか、という気もしましたが。

 

 先述の荻野真『孔雀王』の例でもありましたが、よく「第六天魔王」は、キリスト教や西洋悪魔学の「サタン」と同一視されることも多いようですが、元々はすこし違うようです。

 仏教の世界観「六道」のうち、「天道」、「六欲天」の最高位「第六天」天主大魔王と呼ばれる存在が、「第六天魔王・波旬(はじゅん)」です。

 「天道」とか「天界」というと、神や仏、天使が住まう世界というイメージを抱く方も多いと思いますが、仏教ではこの「天道」も六道の一部で、「人道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」と同じく、人間などあらゆる衆生が輪廻転生を繰り返す苦しみの世界の一部です。「天界」もまた、欲や煩悩に支配され、死から逃れられない苦しみの世界の一部でしかないのです。この輪廻転生の苦しみから逃れ、真に救われるには、悟りを得て仏になるしかない、というのが仏教の教えです。

 「第六天魔王・波旬」とは、この「天道」の「第六天」に住んで、「仏教の修行を邪魔する」存在だとされています。

 

 もっとも当時の時代背景を、当時の比叡山延暦寺などの大宗教勢力の現状も考えれば、また違った見方も出来るかも知れません。

 当時の宗教勢力はただ宗教活動だけをやっていたわけではありませんでした。

 荘園などと呼ばれる領地とそこからあがる収入をも持っていました。

 延暦寺など大寺院の場合は、その収入を元手に今で言う金融業、金貸しみたいなこともしていた、更には琵琶湖の交易などの利権も押さえていたようです。

 その領地収入や信者数を元に、強大な軍事力をも持っていました。

 特に、僧兵と呼ばれる人たち。比叡山の僧侶は山岳などで日々厳しい修行にあけくれ、心身共に精強に鍛えられます。そんな人たちが武装したら、凄い戦力になります。中には僧侶というよりも、今で言うプロの傭兵みたいな人も居たそうです。

 そして、今のような近代的な政教分離の原則などもないどころか、まさに祭政一致、大宗教勢力は政治にも関与や介入しまくりだったようです。

 特に比叡山延暦寺は、その成り立ちからして、最初から天皇や朝廷などの権力と一体化し、長い歴史ゆえにその権威も半端なかったでしょう。

 平安末期の大権力者・白河上皇ですら、自分の意のままにならない存在のひとつとして「山法師(比叡山延暦寺)」をあげていたくらいですから。

 つまり、昔の比叡山延暦寺などの宗教勢力は、ただの宗教団体ではなく、巨大な事業者でもあり、そして権力機関でもあり、武装勢力でもあったわけです。

 その勢力は、並みの権力者や戦国大名などよりも遙かに強大で恐ろしいものだったに違いありません。

 さて大体、そういう祭政一致の強大な権力や財力に付き物なのが、腐敗や堕落であると相場は決まっています。その政治的権力や宗教的権威をカサに、当時の比叡山は政治に介入するだけなく、私腹を肥やしてやりたい放題だったとも見られています。

 そして、宿敵ともいうべき浅井長政と朝倉義景に味方したことを契機に、信長との対立を深め、ついには元亀2年9月12日(1571年9月30日)の焼き討ち事件に至ったとされています。

 この焼き討ち事件に関しては、人道的・道徳的観点などからの多くの批判がある一方で、古来よりの宗教的権威から自由、祭政一致の否定、現在の合理主義にも通じるとして、肯定的評価もあるようです。

 

 

 話を戻しますと、「天台座主沙門信玄」と名乗った武田信玄に対して、織田信長が「第六天魔王信長」と名乗ったのは、「何と言われようとも、俺は自分の信念とやりたいことを貫く。後世に悪名を遺すことになろうとも後悔はしないぞ」とかいう、強い信念というか、開き直りのような気持ちもあったのかもしれない。

 その時の「悪の魔王」としてのイメージが本当に後世にまで遺り、あらゆる創作物にまで悪役としてとりあげられるようになるとは、果たして信長本人は予想していたのか。

 否、むしろ信長本人は今頃、自分がエンタメ作品の魔王役にされている様子を観て、地獄でほくそ笑んでいるかもしれない。

 私にはそんな気さえしてきますが。

 

 

 さて、「信長忌」の記事を書こうとして、信長魔王説について述べていたら、結構長い記事になってしまいましたので。

 今回は一旦ここで切ります。

 次回は京都寺町・阿弥陀寺で行われた「信長忌」の様子をお届けします。

 

 

 

 今回はここまで。

 また次回。

 

 

 

 

 

*『京都妖怪探訪』シリーズ

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