京都の闇に魅せられて(新館)

葛城トオルと東山・豊臣秀吉ワールド @ 京都妖怪探訪(685)

(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 シリーズ前々回前回に引き続いて。
 今年(2020年、令和2年)の3月3日、ひな祭りの日。
 京都の妖怪絵師・伝道師である葛城トオル氏主催の、京都・東山の霊場魔所をめぐるツアーのレポート記事、第3回目です。
 今回は、あの豊臣秀吉が、京都に築いた世界、秀吉ワールドを。
 さらに死後もなお、パワースポットに見立てた京都の霊的・呪術的パワーを得続けようとしていたという痕跡を巡ります。

 

 シリーズ前回の後白河ワールド、法住寺や‘三十三間堂’蓮華王院から七条通りを挟んで、大和大路通りへ。

 

 

 「左:豊国神社」「右:豊国廟参道」と書いた石製の道標があります。
 豊国神社(とよくにじんじゃ)とは、豊臣秀吉を神様として祀った神社。
 「豊国廟(ほうこくびょう)」とは、京都を見下ろす阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂に建てられた、豊臣秀吉の墓所です。

 まずは七条通りから、大和大路通りを北へ。
 これもコロナの影響なのか、閉館中の京都国立博物館の西門前を通り過ぎて。

 

 

 

 

 豊国神社の大鳥居が見えてきます。

 

 

 本殿にも参拝。

 

 

 伏見城の城門を移築したという、豪勢な唐門。

 

 

 

 この時ちょうど桜も咲きかけていました。

 

 

 夏に訪れた時には、豊臣秀吉が合戦時の馬印に使ったという千成瓢?(せんなりひょうたん)も。

 

 

 

 豊国神社のすぐ前には、あの有名な「耳塚」も。

 

 

 あの秀吉の朝鮮出兵の際、武勲や戦功を誇示する為か、明・朝鮮側の戦死者(兵士、民間人問わず)の首を持ち帰る代わりに、鼻や耳をそぎ落として持って帰り、葬ったとされる塚です。
 そんな歴史もあるので、心霊スポットとしての噂もあるようです。
 それにしても武勲を誇示するつもりで建てたものが、後世には大量虐殺の証ともなってしまうとは・・・。
 なお葛城氏はこの耳塚について、通説とは異なる見方もされているようですが・・・それは、ここでは言わず、葛城氏主催のイベントに参加する等して、直接ご本人に聴かれるとよろしいかと思います。


 そしてそのすぐ隣には、「方広寺(ほうこうじ)」が

 

 

 現在ではわりとこじんまりした、静かな感じの寺院ですが、かつてここには豊臣秀吉の発願で建てられたという、奈良の大仏よりさらに巨大な、6丈3尺(約19メートル)という大仏(毘盧遮那仏、大日如来)が建てられた、と伝えられています。
 当時、松永久秀による焼き討ちで失われていたという奈良・東大寺の大仏に代わる大仏の造立を発願したという話ですが、秀吉自身の権勢誇示のモニュメントという側面もあったでしょうね。
 ただ度重なる天災や地震で、残念ながら現在では見ることが出来ませんが。


 しかし、方広寺と言えば。
 やはり、大坂冬・夏の陣の・・・豊臣家滅亡の原因ともなったとされるあの鐘が有名でしょう。

 

 

 およそ80~90トンもあるという巨大な鐘で、こんなものを当時の技術でよくぞ釣り上げたものだな、と感心しますが。
 この鐘に刻まれた「国」「君臣豊楽」の句が、豊臣家を君主とし、「家康」の名を分断して呪うものであると、徳川家康側から抗議を受け、それが後の大坂の陣、豊臣家滅亡を招いたとされています。
 この問題の部分も以下、写真に撮りました。

 

 

 こんなん、どう考えても豊臣家潰す口実探しの為の、ただの言いがかりだよな、と思いますが。
 この鐘をつくと、鐘の中に淀君の亡霊が現れるという都市伝説もあるようです。
 一度、それを試してみたい誘惑にも駆られましたが(笑)。


 この付近には現在も、方広寺の巨大な石垣の一部も遺されています。
 その石垣前で解説される葛城氏です。

 

 この石は「泣き石」とも言われるそうです。
 京都によくある都市伝説に「泣き石」というのがあります。
 豊臣秀吉が、ある名石をほしがり、それを無理矢理自宅の庭に持ち帰ると、夜毎に「元の場所に帰りたい」と泣いたので、秀吉はすっかり参ってしまって、元の場所に戻してしまった。
 というパターンのものですが。
 石ではありませんが、シリーズ第391回記事の報恩寺の「鳴虎図」伝説もこのパターンに。
 あっと、話を方広寺の「泣き石」に戻しますね。
 ただこの「泣き石」の場合は、以上のパターンではありません。
 何故なら泣いたのは、石ではなく・・・石垣建設の際に、この巨大な石を調達・運搬させられた豊臣配下の大名たちだったからです。
 こんな巨大な石を幾つも調達し、運搬するには膨大な労力や財力を必要とします。
 豊臣秀吉も、支配下の大名たちの力を削ぎ、疲弊させ、さらなる服従を求める為に、わざとこういう工事をやらせた。そういう意図もあったそうです。
 なお秀吉の時代、当時は豊臣支配下の大名の一人にすぎなかった徳川家康も、こうした工事を担わされた、つまり「泣かされる」側だったそうです。そして秀吉の死後、天下人となった徳川家康は、今度は支配下の諸大名にこうした工事を強いて「泣かせる」側になったそうです。
 なんともはや・・・。
 なお、写真には切断や運搬などの為か、切り目を入れた跡も見られます。
 何でも石には「目」というものがあって、石工職人はその「目」に従って、石を切ったりする、などというお話も聴きました。


 さらにこの石垣の石の隙間には・・・。

 

 

 

 小さな石仏が幾つも。
 これは・・・明治の廃仏毀釈により、ここに追いやられたか、避難させられたかしたそうです。
 しかし石垣の隙間に追いやられた石仏の中には、随分と酷い扱いではないか、と思われるものも・・・。

 

 

 

 この他にも、粟田口刑場跡(シリーズ第18回)や、清水寺・成就院付近の千体仏(シリーズ第25回など、京都には廃仏毀釈の暴挙を今に伝える遺稿が、幾つもあります。


 さて、この京都・東山七条付近に現在も遺る豊臣秀吉ワールドを巡りましたが。
 実はこれらは、京都に築かれた豊臣秀吉ワールドのごく一部に過ぎなかったのです。
 しかも葛城氏によれば豊臣秀吉は、「パワースポットと化した京都のエネルギーを死後も自分のものにし続ける」という巨大な霊脈(レイ・ライン)を築いたというのです。
 さらに、京都を霊的・呪術的にも支配したかった秀吉は、あの陰陽師・安倍晴明を弾圧し、その影響力を排除しようとしたとか。
 そしてさらに秀吉の死後、秀吉が受けてきた京都のパワーは、宿敵・徳川家康によって奪われてしまった、という話も。
 この後、驚くべき話が幾つも葛城氏の口から語られたのですが・・・。

 




 今回はここまで。
 この続きと詳細はまたシリーズ次回に。





*豊国神社のTwitter
https://twitter.com/toyokunishrine/



*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido




*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/

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