【写真:ペトロパブロフスク要塞にて。(28/06)】
ミハイロフスキー城側から夏の庭園に入り、メインストリートを歩いていくとネヴァ川に出る。最寄りの橋であるトロイツキー橋を渡ると、大ネヴァ川と小ネヴァ川に囲まれたアプチェカルスキー島という島に入る。
ここでは、Bの案内で「ピョートル大帝の小さな家」の前とトロイツカヤ広場を散策。ペテルブルク発祥の地でもあるペトロパブロフスク要塞にも、この島から行くことが出来る。
ペトロパブロフスク要塞に着いたのは20時過ぎ。博物館などは既に閉まっていたが、要塞の中を散歩することは可能。
私は初めて見つけたのだが、要塞の一角にはピョートル大帝のマスクをもとに作ったというブロンズ製の銅像がある。Bによると、このピョートルの指を握ると願い事がかなうそうである。
私達が要塞に入った頃にはだんだん雲行きが怪しくなり、雨もぱらつき始めた。この時期は急な雨に備えて傘は必携。幸いBと私は折り畳み傘を持ってきていたが、強く降り出してきたので門の下でしばし雨宿り。
この要塞が起工されたのは1703年5月16日。ここからペテルブルクの建設が始まった。新暦で5月27日にあたるこの日には、ペテルブルクの誕生日として盛大なお祭りが催される(この様子は後日掲載予定)。この要塞は、いうまでもなくスウェーデンとの戦いに備えたものだったが、結局一度も軍事的用途に用いられることはなく、後に政治犯の収容所として使われることになった。謀反の疑いをかけられたピョートル大帝の息子が殺害されたのも、デカブリストの乱の首謀者らが処刑されたのもこの場所。
今日は既に閉館していて見ることが出来なかったが、この要塞の中心にある大聖堂には、ピョートル大帝はじめ、18世紀以降の皇帝の棺が収められている。
この時期の雨は降ったり止んだり。雨の上がった頃を見はからって要塞を出た。
【写真:芸術広場にあるプーシキン像と記念撮影。バックは国立ロシア博物館(28/06)】
ブリーニーを食べて「テレモーク」を出た直後、Hが、デジカメがないことに気づいた。もしや店に忘れてきたのではと急いで引き返すが、見あたらない。そもそもここではデジカメを出していないから、アレクサンドルネフスキー修道院からネフスキー大通りを歩いてくる間、気づかないうちにすられてしまったようである。
これまでデジカメ、デジタルビデオカメラを盗まれている私にはそのショックはよく分かるが、まずは警察に届け出なければならない。偶然にも、近くには私が昨年お世話になった地下鉄警察の本部があり、3人でそこへ行く。
Bでさえも初めてだという警察署に入るのは、私はこれで3,4回目。入り口でBが話をしたところ、明日出直すように言われた。
気を取り直して観光を再開。次の目的地はテレモークでBと作った散歩コース。モスクワ駅前から乗ったトロリーバスをガスティニードヴォル付近で降りたところから散策を始める。
グランドホテル「ヨーロッパ」の前を通り、芸術広場へ。国立ロシア博物館の前にあるこの広場には、有名な詩人アレクサンドル・セルゲイビッチ・プーシキンの像がある(写真)。今回は入場しなかったが、ニコライ2世の勅令によりミハイロフスキー宮殿を買収して創設されたこのロシア博物館には、古代ロシア美術のコレクションを含む絵画、彫刻、民芸品などが収蔵されており、中には「ポンペイ最後の日」などエルミタージュから譲渡された作品もあって大変興味深い。エルミタージュがあまりに有名なために、最初にペテルブルクを訪れる観光客はコースから外してしまいがちで、Hも今回は行けなかったが、2度目以降には是非とも立ち寄ってみることをおすすめしたい。
サドーヴァヤ(庭園)通りを夏の庭園方面に向かって歩いていくと、右手にオレンジ色の建物が見えてきた。私も初めて知ったが、Bによるとこれがミハイロフスキー城。陸軍中央工兵学校があったことから、別名インジェネルニー城とも呼ばれるらしい。皇帝パヴェル1世が殺害された場所でもある。
このミハイロフスキー城のすぐ側から夏の庭園が始まる。1704年から造園が始まったこの庭園の手本は、ルイ14世が建設を命じたヴェルサイユ宮殿の庭。広大な庭園に配置された彫刻はイタリア人彫刻家の手によるものらしい。
その彫刻群を眺めながら、夏の庭園のメインストリートを歩く。この時期、高い木々の緑が彫刻の白さを際立たせている。暑い日にはここで涼むのも良さそうだ。
【写真:アレクサンドルネフスキー修道院の前にて。Hと私。(28/06)】
プーシキン観光の後は帰りもマルシュに乗り、15時頃ペテルブルクへ。白夜のこの時期、15時といってもまだ真昼で、15時くらいから午後が始まるという感覚。
午後は私の彼女Bが街を案内してくれる。はじめはガスティニードヴォルで待ち合わせることにしていたが、アレクサンドルネフスキー修道院などを見てはどうかという彼女の提案により、メトロのアレクサンドルネフスキー広場駅でBと合流。
アレクサンドルネフスキー修道院は、メトロの駅を出てすぐのところにある。まずはチフヴィン墓地を見学。ここにはロシアの作曲家や劇作家など、多くの芸術家が埋葬されている。中にはチャイコフスキーやドストエフスキーなど、世界的に有名な人のお墓もあった。
修道院の名前となっているアレクサンドルネフスキーは13世紀の人。1240年にネヴァ川沿岸でスウェーデン軍を撃破した際のロシア軍の指導者で、後に聖人とされた。修道院の建設は1710年から始まり、1797年に大修道院の称号を与えられたという。
Bによると、ここはただ単なる観光地ではなく、現在も人々のお祈りの場となっている(”действующий”な)修道院なのだという。アレクサンドルネフスキーの遺骸もここに葬られている。
この修道院や墓地は当初観光ルートに予定していなかったが、私も初めて訪れる場所であり、来て良かったなと思った。
観光を続ける前に軽く何か食べようということになり、ネフスキー大通りを歩いてモスクワ駅近くのブリーニーの店「テレモーク」へ。ブリーニーも、ロシアを訪れる人には紹介したいと思っていただけにちょうどよかった。
ブリーニーを食べながら、Bとこの後の観光ルートづくりをする。地図を見ながら作戦を立て、芸術広場→夏の庭園→トロイツキー橋→ピョートル大帝の家→ペトロパブロフスク要塞→ヴァシリー島→大学河岸通り→宮殿橋→デカブリスト広場の順に歩くという、要所を網羅した素敵なルートが出来上がった。
さあ出かけようと店を出た直後、ちょっとしたハプニングが起こった。
【写真:「琥珀の間」があるエカチェリーナ宮殿前。多くの観光客でごった返していた。(28/06)】
マルシュはバスと異なり、乗客の希望の場所で止まってくれるが、止める客がいなければノンストップで走る。そのため30分弱という比較的短い所要時間でプーシキン、エカチェリーナ宮殿前に到着。
早速エカチェリーナ宮殿に入る列に並ぼうと思ったところ、列に並ぶまでにまずは公園の入場券を買わなければならないと入口で言われた。1月に来たときには公園の入場は無料だったのだが、今はシーズンなので入場料をとるらしい。ロシア学生料金は30ルーブル、Hは最初140ルーブルと言われたが、「間違いなく学生なんだ。」と言うと半額の70ルーブルにしてくれた。
個人客の受付時間は始まったばかりだったが、既に宮殿には数十名の列が出来ていた。天気が良く、気温は適度ながらも黒いTシャツを着ていた私は、日差しで背中が焼けるようだった。冬の氷点下の気温の中外で待たされるのも大変だったが、夏は夏でかなり暑そう。
前に並んでいた老人男性と、その客だという女性と話をした。男性の方はペテルブルク大学で生物学を学んだという。日本のどこから来たのか、「ナゴヤ」という場所は東京から近いのか、などいろいろ聞かれたが、中でも面白かったのは新幹線は1本の線路で走るのか?という質問。モノレールと勘違いしているらしく、「もちろん新幹線は2本のレールで走る。1本のレールで走るのは空港に行くようなやつ。」と教えた。日本をよく知っているロシア人だなと思っていたら、友人が日本で研究していたことがあるらしい。連れのウクライナ人女性は、なんと生物学者の夫がつくばで研究していたこともあるそうで、世の中狭いものだなと思った。彼女は日本語を2つ、「こんにちは」と「さようなら」を知っていた。私はそれを聞いてはじめ何とも思わなかったが、Hに、「これだけでも日本語知ってるってすごいよね。ロシア語で同じ言葉を言える日本人は少ないと思う。」と言われて初めて、確かにHの言うとおりだと思った。
宮殿待ちの列はゆっくりゆっくり進む。20名ほどが5分おきに入場するのだが、これは中で即席の団体を編成するため。したがって個人個人が自由に見るというのではなく、ガイド付きツアーのような形で中を見学することになる。
そのうち自分の書いた詩の本を売る老人がやって来た。これもまた変わった人で、なんとドイツ語が話せるというので試しにHと話してもらったところ、本当にドイツ語を話していた。そういえば、ロシアでは英語が出来なくてもドイツ語、フランス語は出来るという人が少なくない。それを考えれば、Hは案外ロシアでもドイツ語でやっていけるかもしれない。
人々と話をしながら待つ時間はあっという間に過ぎ、並び始めて約1時間を経過した頃、ようやく私達の番になった。
エカチェリーナ宮殿の入場料金はロシア学生料金100ルーブル、外国人料金は学生が270ルーブル、大人は520ルーブルと半端じゃなく高い。Hの料金がちょっと心配だったが、「今日は学生証ないけど学生だから。」と言ってみると、窓口氏は「じゃあ220ルーブルにしよう。」と言ってくれた。外国人学生料金よりも安い220ルーブルって何だ?と一瞬不思議に思ったが、それはロシア人大人料金。一体なぜこの料金が適用されたのか疑問だったが、とにかく安くなったので良いことにする。
即席団体のガイドはもちろんロシア語。歴史用語が入るとどうしても分かりづらいが、時々ほぼ100パーセント分かる説明でも今度は速すぎて頭の中に記憶できない。同時通訳というのはかなり難しそうだ。
私が「琥珀の間」を見るのは初めてではないが、今回初めて琥珀がパズルのようにぎっしり敷き詰められているのに気づいた。琥珀の間の、他には例えようがない美しさ、きっとHも気に入ってくれたことと思う。
宮殿を出た後は庭園を少し散策。4月にIが来たときは池はまだ凍っており、周囲ももの寂しかったが、今は花々と、木々の緑が鮮やかな時期。入場料を払ってでも見る価値はある。
【写真:戦勝広場の記念碑。”ПОДВИГУ ТВОЕМУ”「君の偉業(を称えて)」と書いてある。(28/06)】
2日目のメインの一つはプーシキン、エカチェリーナ宮殿の中にある「琥珀の間」だが、個人客の入場時間は12時から14時までなので、余裕を持って早めに行くにしても午前中、ちょっと時間がある。
そんな時におすすめなのがモスクワ広場や戦勝広場の散策。プーシキンやパブロフスクへ向かうバス、マルシュルートカはメトロのマスコフスカヤ駅(Московская)から出るが、モスクワ広場、戦勝広場はいずれもマスコフスカヤ駅のすぐ側なので、これらを見学した後プーシキンへ向かうことが出来る。
9時45分頃出かけたHと私は、メトロを乗り継ぎ10時半前にマスコフスカヤに到着。駅からすぐのモスクワ広場には、見事な噴水が上がっていた。そこの中心にあるレーニン像と記念撮影し、モスクワ通りを少し下って戦勝広場へ。
1月の記事でも紹介したが、第二次世界大戦中の1941年9月から1944年1月にかけて、ペテルブルク(当時レニングラード)はドイツ軍による900日間包囲を経験した。悲惨な包囲戦に耐えながらレニングラードを守り、ドイツ軍を撃退した人達を称えるのが戦勝広場にあるモニュメント。
私が、ドイツは昔こんな蛮行を働いたんだと説明すると、H、「いろいろとお騒がせしました。」と一言。第二次大戦はロシアにとってドイツとの戦いという側面が大きく、ロシアの戦争物の映画にはよくドイツ軍やドイツ語が登場するが、Hによると、同様にドイツの映画にもロシア軍やロシア語が登場するという。
ロシアにとっては勝った戦争、ドイツにとっては負けた戦争。ロシア側から見た「戦勝」のモニュメントを、ドイツのHはどんな思いで見たのだろうか。
さて、戦勝広場の前からマルシュルートカをつかまえられれば良かったが、プーシキンへ向かうマルシュは全て満席。仕方なくマスコフスカヤ駅まで引き返し、始発から乗ることに。
モスクワ広場の前で、運転席に座りながらたばこを吸っていたマルシュの運転手にエカチェリーナ宮殿へはどのマルシュで行ったら良いか尋ねると、わざわざ車から降りて来てすぐ近くの車を指さし、「286番というのがプーシキンに行く」と教えてくれた。
そのマルシュでモスクワ広場を出発したのは11時半過ぎ。エカチェリーナ宮殿の個人客受付時間は12時からだから、ちょうど良い時間だ。
【写真:アブサン(27/06)】
カザン聖堂見学を終え、ネフスキー大通りを歩いて家に帰る途中、ペテルブルク一の大規模ショッピングセンター「ガスィニードヴォル」(Гостиный Двор)や本屋(Дом Книги)などに立ち寄る。
1日目の観光は終了したが、名所をまわるだけが楽しみではない。今日はもう一つ「必修メニュー」が残っている。その必修メニューをクリアすべく、家での夕食の後すぐ近くのバーに出かける。
私が用意している必修メニューとは、アルコール度数70のアブサンを飲むこと。諸外国では禁止されているところもあるというが、4月にパリから来たIもこれを体験しており、今回はHの番。
70度といっても大量に飲むわけでないから大丈夫なのだが、不気味な緑色のアブサンが登場し、砂糖を入れて火がつけられるとコップから青紫色の炎が出て激しく燃える。酒には大変強いHだが、これを見てさすがにちょっと緊張気味。アブサンは一気に飲むものだが、恐れて喉に直接入れようとすると喉が焼けるので注意しなければならない。まずは私が手本と称して飲み干してみる。アブサンを飲むのはこれで4回目くらいだが、独特の後味は何とも言葉に表現しがたい。
私に続いてHも一気に飲んでみたが、全く平気な様子。あと5杯くらいは飲めそうだった。
アブサンを飲み続けて2日目ダウンでは情けないので、あとはウォッカを飲みながら二人で語る。お互い大詰めを迎えた留学のこと、共通の友達のこと、恋愛事情などなど、話題は尽きない。日本にいた頃は、同じ学類にいながらHと私は特に親しいわけではなかったが、4月のIとの旅行ですっかり身近な友達になった気がする。話をしながら、彼女は大変しっかりした考えの持ち主だということがあらためて感じられた。良い友達を持ったものだと思った。そんな友達がはるばるベルリンからペテルブルクにやって来てくれたのだから、これはとても素敵なことである。
0時近くになってもまだ薄明るいジュコフスキー通りを歩いて家に帰る。この明るさも、この時期、ここペテルブルクでしか体験できないもの。Hにとっても、きっと印象に残ることだろう。