

中之島公園の中央にひときは目立つ中之島公会堂は大正7年にネオルネッサンス様式で建てられた。赤レンガ造りとアーチ状の屋根が目を引きます。今でも現役でいろいろなイベントが開催されている。平成14年11月にバリアフリー設計になリニューアルされた 国の重要文化財として指定を受ける施設
<o:p> 1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が当時の100万円を寄付して建設計画が始まった。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。と記録にある。</o:p>
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<o:p>大阪市中央公会堂は、日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定されている。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。ライトアップもされるようになった。
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周辺情報:大阪市役所、日本銀行大阪支店、大阪府立中之島図書館、大阪市立東洋陶磁美術館、中之島公園</o:p>
</o:p>場所的に恵まれた中之島図書館は、最近図書館としての機能を中央図書館(東大阪市の荒本)にまとめ、蔵書の一部を移転して、ビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始し、神戸大学大学院経営学研究科(MBA)や、関西大学大学院法学研究科が社会人向けにサテライト大学院を開講し、ビジネス学校化している。
ネオ・バロック様式で建てられた外観は、大正ロマンただよう建築であり、人気が高い。明治37年に住友本家第15代家長吉左衛門氏の寄付によってつくられたもので、 設計は住友家の建築技師であった野口孫市氏と日高胖氏で、コリント式円柱に支えられる正面はギリシア神殿を、ドーム状の中央ホールは教会を思わせる造りとなっている。1922年(大正11年)に左右の両翼を建て増しし、現在の形となった。本館は大阪空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫の増築を経て、今も残っている。1974年(昭和49年)、本館と左右の両翼がともに国の重要文化財に指定された。
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大阪松竹座は、大正12年(1923年)日本初の洋式劇場として誕生。大林組の木村得三郎によって設計された正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれました。開館は同年5月17日でドイツ映画『ファラオの恋』、松竹蒲田作品『母』、そして松竹楽劇部による実演『アルルの女』であった。
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昭和40年代に洋画封切館としてお世話になった記憶があるが、平成6年にはその役割も終わり、平成9年に新築開場した。
何度も近くを歩いた記憶があるが入った事もなく今日まで過ぎてしまった。
6月からは新装開場10周年記念として藤山直美・沢田研二の「桂春団次」が公演される。
南海泉大津駅から浜の方向に紀州街道の海側に平行して走る「浜街道」(正式は内町筋)がある。各時代の町屋建築が多数残され泉大津市の貴重な文化資産になっている。
工場を象徴するのこぎり屋根や虫籠窓(むしこまど)、鍾馗(しょうき)様などの屋根飾りがあちらこちに見られ、歴伝統的建造物群と毛布発祥の地として住工が混在する歴史的景観を感ずる街なみとなっている。
泉大津市市役所のHPによると 江戸時代から漁業のかたわら真田紐を生産し、その後期から明治にかけては家内制手工業を確立し、大正・昭和にかけては織屋、酒屋、煙草屋、風呂屋、散髪屋、畳屋、魚屋、八百屋等の商店が軒をつらね中心街として発展、中でも、毛布産業による街の発展は様々な文化的要素を生活や人々の精神に培い、現在は地場産業の衰退でしたが面影が残っている。
南北の中央に浜街道が通じ、これに直交して9本の道筋が、整然と造られている。この町割の北東端に大津城跡(真鍋城)と伝えられる「南溟寺」があり、寺内町として発展したものとみられる。
市指定有形文化財として残っている、延宝七(1679)年の村絵図によると道筋の他、川筋・寺社・高札場・家屋が描かれ、特に、家屋は一軒ごとに町家・加子家(漁家)・百姓家の別が、記号と色で書き分けられている。これらを詳しく見ると、紀州街道沿いには家屋がほとんど無い。一方、浜街道の両側に町家、その西側に加子家、東側に百姓家と町家が広がり、大津村のメインストリートであったことがうかがえる。
この家は街道の最も南側で昭和初期に建て替えられているそうであった。
大阪ミナミの高島屋は南海難波駅、地下鉄御堂筋線、中央線、四つ橋線のなんば駅、近くの近鉄難波駅、JR難波駅をかかえる大きなターミナルである。
日本最大の百貨店で高島屋本店で1898年(明治31年)、心斎橋に進出。1922年(大正11年)、長堀橋に移転。南海が難波駅にターミナルデパートを開設するに当たり、現在地に大阪店を移転した、開業時は「南海タカシマヤ」と呼称。建物は南海電鉄が所有、昭和7年(1932)の完成。近くの別館には資料館がある。
南海電気鉄道は高島屋大阪店が入るビル北側の「南海ビル」も開業時の外壁や柱など再現しながら耐震性を高めるほか、ロケット広場は吹き抜けのロビーなどに環境整備を今年の夏ごろから着工するそうである。
地下鉄堺筋線北浜駅、堺筋を南に100mm程度歩くと道修町1丁目、交差点を西に入ると「こんなところに」と思う所に神社がある。その横には金色に輝く虎の像が迎えてくれる。
鳥居をくぐると大きな樟の木が茂っていてヒンヤリとした空気に包まれ荘厳な雰囲気が漂っている。
安永9(1780)年10月、薬種中買仲間で組織する伊勢講が、京都五條天神宮より分霊を道修町の仲間会所に勧請し、以前より祀っていた神農氏とともに合わせ祀ったのが、少彦名神社の始まりで、<o:p>薬の町として知られる道修町にり、古代中国最初の統治者で特に医薬を司った神農氏(しんのうし)と日本の薬祖神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っており、薬業界の守護神として、また健康祈願の神として「神農さん」として親しまれている。
</o:p>京阪淀屋橋駅出口の前にある緒方洪庵の住居と塾(「適塾」)がある。蘭学者、医師であり教育者としても知られる緒方洪庵が、幕府の奥医師として江戸に迎えられるまで、1845年(弘化2)から約20年間にわたり住まいし、塾を興したところ、塾生の起居した二階の大広間には、激論の末であろうか、柱に無数の刀痕が残されている。
大広間からの今の眺め
当時は蘭学が連日講義され、若き学徒が切瑳琢磨して自己の向上に努め、その後の維新の改革を担った多くの俊秀を生み出した場所であり、丁度連休中で若人が多く展示してある当時の資料を読んでいた。
最寄り駅は京阪淀屋橋、地下鉄堺筋線北浜<WBR>、御堂筋線淀屋橋という、ビジネス街のド真ん中にある幼稚園。敷地のまわりに高塀を巡らせ、南正面に塀重門を開い<WBR>ている。その内側に入母屋大屋根、 大阪市有形文化財第1号の木造<WBR>園舎で、現存する園舎では日本最古。
大阪愛珠幼稚園幼稚園のHPによると、創立は、明治13年<WBR>(1880)に遡り、府下でもっとも歴史の古い幼稚園の1つであ<WBR>る。創設者は船場北部(現中央区平野町以北)の連合町会である<WBR>。園舎は最初、北浜5丁目の北浜小学校(現在の中央区北浜4丁目<WBR>、大阪クラブ北裏)内に建てられ、同16年には鴻池家の持家を借<WBR>りて今橋3丁目(現今橋2丁目、日商岩井ビルの南西<WBR>)に移っている。さらに22年には連合町会から大阪市に移管され<WBR>、以後、市立幼稚園となった。
現在の敷地に移転したのは明治34年(1901<WBR>)で、当時の主席保母であった伏見柳らの原案をもとに、文部技師<WBR>・久留正道の指導により、大阪府技手・中村竹松が設計した<WBR>。同33年4月に着工し、翌年3月に竣工した。
通常の学校にみられない御殿風といわれる建築は極めて質の高い<WBR>ものであり、その堂々たる姿は、創設者である船場の人々の心意気<WBR>を伝えるものとして、高い価値を有している。