熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

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2007年10月10日 御所・吉野の旅 16 吉野神宮

2008-11-23 15:17:01 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 もう、何度行っていることか・・・
 奈良に住んでいたときは、海外旅行の前は必ず行っていたものだ。
 もちろん、祭神は大好きな南朝の後醍醐天皇。






 正直、自分の中では、この吉野神宮は、他の皇族を祭る神宮とは重みが違う。背負っているものが違うからね。

 ところで、ロック・バンドのゴダイゴ(GODIEGO)・・・ まさか、この天皇の名前は関係ないよね?




 とりあえず、この日はこれにて旅は終了。
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2007年10月10日 御所・吉野の旅 15 村上彦四郎義光

2008-11-23 15:16:49 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 金峯山寺の階段を上ったところに村上義光の忠死の地の碑が建っているが、彼の墓が吉野神宮から少し離れたところにある。
何故、その地が選ばれたのか、までは知らないが・・・

 村上彦四郎義光(よしてる)は、信濃源氏村上氏の中でも最も歴史的に大きな働きをした武将であることは間違いない。
子孫の村上水軍も優秀であったし、弟の子孫である村上義清は、戦国時代に結局は武田信玄に追われ、上杉謙信を頼っている。

 彦四郎義光は、鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇の皇子であった護良親王を守るために死んだ勇将で知られる。
元弘の変の後、南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に従い、道中、敵方に奪われた錦の御旗を取り返すという
活躍をしている。そして、もっとも彼の名を知らしめているのは、その最期の姿である。

 吉野城が、幕府軍二階堂貞藤の大軍に攻められ陥落する際、護良親王を逃がすために、親王の身代わりとなり、
敵の大軍の前で立ち腹を切り、絶命しているのである。
「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、
恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」の台詞は有名である。

 この地でともに死のうとした嫡子義隆は義光に親王の行く末を見届けるように命じられ、また、満身創痍、一人で500騎ばかり
を相手に半刻持ちこたえ、最期に自害しているのは有名な話である。

 南朝に尽くした楠木正成・正季兄弟や村上親子、新田一族、ただただ、彼らの生き様に感動するのみである。
最近の、性根も座らず、命の重みも知らぬおろかな若者どもにも彼らの生き様を学んでもらいたいものだ。


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2007年10月10日 御所・吉野の旅 14 柿ソフト

2008-11-23 15:16:36 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 勝手神社の前で昼食を頂いた後、その近くの酒屋兼喫茶店のようなところでマスターと話をしながら、柿ソフトをゲット。




 柿の実が入っており、自家製のソフトらしいがなかなかのものでしたな。

 M子師匠は酒を買ったようだが、美味しかったそうだ。
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2007年10月10日 御所・吉野の旅 13 喜蔵院

2008-11-23 15:16:28 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 今はユースホステルになっている宿坊だ。でも高野山と違ってあまり外人を見かけないな。


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2007年10月10日 御所・吉野の旅 12 櫻本坊

2008-11-23 15:16:20 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 そして、次は、大海人皇子や役行者所縁の櫻本坊。「さくらもとぼう」と読む。

 特に、興味ないので調べていない。












 とりあえず、写真だけ。



★櫻本坊★ 奈良県吉野郡吉野町中千本

・金峯山修験本宗別格本山大峯山護持院。
・役行者霊蹟札所。
・天智天皇から逃れていた大海人皇子がとどまっていた日雄離宮跡に建立。
・ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟日雄角乗に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせです」と答えといい、その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所に寺を建立したと伝わる。
・文禄三年(1594)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白豊臣秀次の宿舎となった。
・もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称された。
・現在、宿坊も営んでいる。
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2007年10月10日 御所・吉野の旅 11 竹林院群芳園

2008-11-23 15:16:12 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 竹林院に到着。現在は、老人施設も経営されているようだ。また、多分値段は高いと思うが、宿もされている。中には、
狩野一門の絵画や豊臣秀吉の吉野花見の際の弁当箱などが残されている。



 もともとは、聖徳太子が黒駒に乗って来て椿谷に一宇を建て、椿山寺と称したのが始めという。その後、吉野にいたので
天武天皇ともご縁があり、また、弘仁九年(818)空海が大峯入峰の際、滞在して寺を建立され、常楽寺椿山と号したらしい。
その後、南北朝時代、第百代後小松天皇の勅命で「竹林院」と改めたという。

 ここの庭は、大和三庭園の一つといわれている。あとの二つは、当麻寺「中の坊」、大和小泉の小堀遠州の「慈光院」の庭。
手入れが行き届いていないので、明らかに、ここの庭はこの二つに劣る。

 庭に入る前に、まず、護摩堂が建つ。



 そして、庭。観光シーズンではないとはいえ、あまりにもひどい有様ではないであろうか?ちょっと、この写真では
「訪れたい」という人もでてこないであろう。個人的には、最低のレッテルを貼りたいくらいなのだ。






 以上。
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2007年10月10日 御所・吉野の旅 10 道中

2008-11-23 15:16:04 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 蔵王堂や東南印の前の道から、今度は竹林院の方へと歩いた。静御前が捕らえられたという勝手神社の裏手から登る。
M子師匠を待っている間、石碑のあるところに行くと名前があった。袖振山と勝手桜。ああ、境内だったのか・・・



 由来は書かれていないが、袖振山とは、源義経を見送る静御前がずっと腕を振っていた地だからではなかろうか?

 その道を少し登ると、今までは気付いてなかったのだが井光神社八幡宮というものがあった。井光神社と権現さん
を勧請して合祀したものかね?



 そして、もうしばらく竹林院を目指して上っていく。

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2007年10月10日 御所・吉野の旅 9 金峯山寺蔵王堂

2008-11-23 15:15:54 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 こちらも何度も行っているし、記事にもしているので詳しく書く必要はないかな。世界遺産に登録され、蔵王堂や仁王門は
国宝でもあるところ。中世には吉野城もあった。



 こちらから来る客も多いが、仁王門が反対側にあることから裏であろう。

 この階段を上ると、先述の村上義光公の死した地である。



 ここを通るたびに彼の死ぬときの姿を想像せざるをえない。

 そして、正面を向くと蔵王堂が控える。



 国宝だ。拝観できる日であれば、ぜひ中の仏像も見てみる価値があり申す。


★金峯山寺★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山

 世界遺産

・金峯山修験本宗の総本山。
・山号は国軸山。
・本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。
・吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳の山頂近くにある大峯山寺と吉野山の金峯山寺は、近代以降は分離し、別の寺院になっているが、近世までは前者を「山上の蔵王堂」、後者を山下の蔵王堂と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の二つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
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2007年10月10日 御所・吉野の旅 8 東南院

2008-11-23 15:15:46 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 東南院は何度も行っているし、記事にもしているので何度も書く必要はないかな・・・

 金峯山修験本宗の別格本山である。

 ここの塔が非常に美しいので一見の価値あり。

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13 Jan 2005 龍王宮

2008-11-23 14:51:25 | 近畿(奈良)



もう1年と数ヶ月前に久しぶりに母親の友達がしている寿司屋に行ってきまして、そこの娘さんに和歌山のキティちゃん携帯ストラップを頂いたのでお礼をしてきました。実は、キティちゃん携帯ストラップ仲間であるのです。その近くに、実は第三代安寧天皇のお宮であった片塩浮孔の宮だろうといわれているお宮さんがあります。龍王宮とわれわれは呼んでいますが、たしか、「石園坐多久虫玉神社(いわそのにいますたくずたまじんじゃ)」という長い立派な名前がついているはずです。1990年に今上天皇が奈良の神武天皇陵にいらっしゃったときに、左翼の方に火炎瓶を投げ込まれ全焼しましたが、その後再建されて現在の形になってます。昨日、寿司屋に行った帰りに写真撮りに行ってきました。
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2008年4月20日 2 万歳城址

2008-04-20 23:00:02 | 近畿(奈良)
((プラン))

 1.墓参り → 2.万歳城址

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 祖母の墓に参った後、実家の近くにある万歳城址に行って来た。

 現在は、大和高田市立西中学校になっている。






★万歳城址★ 奈良県大和高田市池田


万歳氏は、古代葛城の氏族で、武内宿称の後裔といわれています。中世平田荘の 八荘官の一人として万歳郷を預かり、この城を本拠とし、二上山系に山城を構え、後に大和武士として活躍しました。 城址は、二重の廓と二重の環濠を持つ平城でありましたが、天正6(1578)年織田信長の命で、破却されました。(案内板より)
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2008年3月8日 葛城の旅

2008-03-14 04:20:05 | 近畿(奈良)
((順序))

 1.長尾神社 → 2.鴨都波神社 → 3.葛木坐御歳神社

→ 4.高鴨神社 → 5.高天彦神社

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 この日は、もう3年ぶりくらいになるかな、サワと会う約束をして
出かけた。昔少し付き合っていた子だ。まあ2004年に私が北半球を
浮浪していたときに絵葉書を送ってあげたり、ポーランドやハンガリー
の土産を買って行ってあげたこともあり、しっかり覚えていてくれたら
しく、また話をすることになったのだ。聞けば、この3年間、彼女の身
には想像していなかった不幸などが積み重なっており、愕然としたもの
だ。3年前というと、私が奈良を出て大阪に行った頃で、それがなかっ
たら、連絡は途絶えていなかっただろうし、そうであれば、その苦難は
最悪の事態を迎えることはなかっただろう、と思うと世のむなしさを感
じるものだ。まあ、少し力づけてあげたいと思い、「神社に行くか?」
と、声を掛けてあげたのだった。

 近鉄尺土駅待ち合わせだったのだが、メールが来た・・・
「ごめんなさい。本読んでいたら乗り過ごしちゃった・・・」
 ということで、古市から折り返してきたので少しスタートが遅くなっ
た・・・

 ま、それはいいとして、せっかく尺土まで来たので、近くの式内社で
ある長尾神社に連れて行った。何度か行って、記事も書いているはずで
あるので、詳しくは書かないが・・・ 大神神社を蛇の頭と見立てたと
きの尻尾、高田市駅前にある龍王宮を龍の頭と見立てたときの尻尾にな
るといわれている神社だ。




 そして、昼ごはんだ・・・

 国道24号線を葛城市に入ったところかな?まだ高田? ジョイフル朝日
を少し南にいったところにある「こがね」にいった。最近味が落ちたとか聞
くがまだまだおいしいところだ。

 うどん定食をいただいた。



 個人的には10段階で8点というべきか?

 そして、鴨都波神社へと向かう!

 ここは初めてだ。しかし、あまり神様がいるようには感じない空の
ような神社だ。

 手水は井戸のようだ。



 そして、払戸神社。



 社殿である。





 ま、よくある社殿で真新しいことはない。

 そして、境内社の神農社。神農薬祖神の碑があった。



★鴨都波神社★ 奈良県御所市宮前町514

・式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
・積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀。
・葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社
(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。
・社伝では、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建
 とのこと。


 さてさて、では、次は中鴨社こと葛木坐御歳神社・・・
 もう三回目だ。ということで写真だけ。




 そして、次は高鴨社こと高鴨神社。

 もうここは4回目だね。







 古い神社である。ここで、反骨の地、葛城に坐す高鴨神社の病気平癒守を
摩耶さんに買い、送らせていただいた。よくなればいいのだが・・・

 最後は、高天だ。まずは高天彦神社。ここも3回目。正月に両親も連れて
きているところだ。




 このあと、高天原にある橋本院のほうへと行き、そこで、サワと1、2時
間ぺちゃくちゃと愚痴を言ったり、聞いたり、ま、ほとんど聞き役でしたが、
彼女の気がすむようにと会話をして、送り出すことにした。
 元々、ブラコンで、兄貴がほしい子だったので、そういう位置づけなんだ
よね。自分にとっても妹みたいなものだしね。

 また、どこかに連れて行って気晴らしさせてあげたいものだ。
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2008年1月2日 薬師寺および田原本6

2008-01-27 00:45:48 | 近畿(奈良)
((ルート))

 1.薬師寺 → 2.津島神社 → 3.浄照寺

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 淨照寺に隣接して、本誓寺という寺がある。
 ここは、田原本領主平野氏の菩提寺であったそうだ。二代目領主長勝が
教行寺跡地を二分して、淨照寺と本誓寺をこの地に置いたらしい。そして、
本寺は、平野家菩提寺になった。

①表門



②名札

 すごく由緒正しいのがわかる・・・



③広徳院廟




・九代目領主平野兵庫助権平長発墓所。
・文政十二年(1829)家督相続。
・駿府城加番を勤める傍ら書にも通じ大和三筆と賞賛される。
・嘉永六年(1853)十二月二十六日、四十歳で没。
・霊廟は三回忌にあわせ、十代領主平野遠江守内蔵助長裕が安政二年(1855)
 四月に建立。
・長裕は田原本藩が実高一万石であったために明治維新後、初代田原本藩主
 となった。


④本覚院廟




・二代目領主平野権平長勝の墓所。
・長泰の長男で、寛永五年(1628)家督を相続し、田原本陣屋を築き、町を整備
 菩提寺本誓寺建立など領内充実を計った名君といわれる。
・霊廟は五十回忌にあわせ、四代領主平野右衛門長英が享保二年(1717)十一月
 に建立。

 ただ・・・他の領主の墓はどこにあるんだろう、と疑問に思う。

 ちなみに、本誓寺と淨照寺は境内が塀ではなく、ただ小さな溝で分けられて
いるだけだ・・・


 最後にこの二寺の前の通りの写真。




★慈航山本覚院本誓寺★ 奈良県磯城郡田原本町茶町

・浄土宗の寺。
・開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。
・江戸時代の田原本領主であった平野氏の菩提寺。
・正和五年(1316)花園天皇の勅願所として本覚院を号し、八幡町にあった
 という。
・弘化二年(1845)知恩院宮尊超法親王、有栖川宮有縁のため本覚院の御染筆
 の額を賜り、その由緒を持ち慶応3年(1867)門跡格の五本筋壁を許され
 十カ寺の末寺を支配するに至った。

 これにてこの日の旅は終了。
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2008年1月2日 薬師寺および田原本5

2008-01-27 00:05:27 | 近畿(奈良)
((ルート))

 1.薬師寺 → 2.津島神社 → 3.浄照寺

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 さて、田原本の津島神社のあとは、昔よく通った元カノのアパートの近くに
ある有名な浄照寺。先代住職は父や伯父、叔母の恩師だという。ここは、
西本願寺別院、田原本御坊として知られたところで、また、この地は、賤ヶ岳
七本槍の一人として名高い平野長泰が田原本の領主となったことで、彼は終生
江戸詰めであったが、その男長勝が陣屋を築き、以来、平野家とも縁がある。

①浄照寺楼門



②浄照寺表門

 文化財指定は受けていないが、豊臣秀吉の伏見城高麗門の移築門である。
Wikipediaの伏見城の移築関連で抜けていたので、付け加えさせていただいた。



③浄照寺本堂

 奈良県指定文化財

・慶安四年(1651)創建。
・古風な面取り角柱、小屋組など当初材を多く残し、内外陣境の組物・蛙股、
 向拝の木鼻・虹梁等美術的に優れる。
・浄土真宗大規模寺院の典型として文化財指定を受けた。



④境内でどんよりM子師匠



★松慶山淨照寺★  奈良県磯城郡田原本町茶町584

・浄土真宗本願寺派
・賤ヶ岳七本槍として有名な平野権平長泰は、田原本他六カ村の地頭となっ
 たが、終生江戸詰めであり、富田の真宗寺院教行寺に寺内町経営を委嘱。
 しかし、後に田原本陣屋を構築した二代目長勝と教行寺の間に軋轢を生じ
 教行寺は箸尾に去り、長勝はその跡地を二分し一宇を建立、西本願寺の第
 十三世良如門主に寄進。西本願寺別院田原本御坊とし県下に72カ寺の末寺
 や配下を持つに至った。
・門跡寺院として五本筋壁の土塀を許された位の高い寺院。
・名は当初「円成寺」といい、寛延二年(1749)淨照寺と改称。
・慶安四年(1651)創建の本堂は、奈良県指定文化財。
・本堂の前にある表門は、伏見城高麗門の移築である。
・明治十年の明治天皇陛下の行幸、明治二十三年の昭憲皇后の行啓を仰ぎ、
 当時ご使用の書院が現存する。
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2007年10月9日 熊野の旅第四日目 18

2008-01-24 01:43:46 | 近畿(奈良)
((道程))

 1.矢倉神社 → 2.瀞渓谷 → 3.入鹿八幡宮 → 4.丸山千枚田

→ 5.赤木城 → 6.竹原八郎屋敷跡 → 7.上北山・八坂神社

→ 8.瀧川寺 → 9.水分神社 → 10.北山宮 

→ 11.金剛寺

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

 次は、北山宮(自天王)の弟宮河野王の墓所のある金剛寺を目指した。私も
初めてで、なかなかわかりにくいところにあったのでたどり着かないのでは、
と思うくらいであった。
 しかし、ついに到着・・・

①自天親王神社(牛頭天王神社) 

 川上村指定文化財

・金剛寺境内にある。
・元々、自天親王神社として祀られていたそうだが、昭和55年修理の時に、元
 の姿、牛頭天王神社に戻った。
・祭神は「牛頭天王」
・社殿は江戸時代17世紀後半に建てられたものと言う。
・一間社流れ造り。
・調査された専門家の松本氏は、「改築が惜しまれる」と改築の仕方に注文を
 つけたそうだ。




 記念写真ももちろんしてます。

 M子師匠。



 榎本の朝臣。




②金剛寺堂宇(本堂)

 川上村指定文化財

・江戸時代(17世紀後半)の建築。
・修験道から始まったお寺との言い伝えあり、山号を「妹背山」と呼ぶ。
・後醍醐天皇が寺名を命名したという言い伝えもある古刹。
・江戸時代の享保3(1718)年、大工棟梁田中覚右衛門以下11名により建立。
・調査に当たった松本技師によると「近隣に類の少ない本格的な寺院建造物」
 とのこと。
・寺伝では、奈良時代「役行者」の創建となっている。






③河野宮墓

 自天王の弟宮河野宮忠義王墓。





 忠義王は自ら王と名乗ったのかどうかも疑問。いくつかの手紙には忠義と
記されているそうだ。後南朝の主戦力は熊野水軍であったが、何度か忠義王は
熊野水軍を総動員して北朝室町幕府と戦おうとしたという話ではあるが、結局
熊野水軍が動く前に、不遇の最期を遂げたという。

 切ない話だ。

 以上、熊野・新宮の旅は終了。
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