熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

フォトはクリックすると大きくなります。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 16 吉野神宮

2008-11-23 15:17:01 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 もう、何度行っていることか・・・
 奈良に住んでいたときは、海外旅行の前は必ず行っていたものだ。
 もちろん、祭神は大好きな南朝の後醍醐天皇。






 正直、自分の中では、この吉野神宮は、他の皇族を祭る神宮とは重みが違う。背負っているものが違うからね。

 ところで、ロック・バンドのゴダイゴ(GODIEGO)・・・ まさか、この天皇の名前は関係ないよね?




 とりあえず、この日はこれにて旅は終了。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 15 村上彦四郎義光

2008-11-23 15:16:49 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 金峯山寺の階段を上ったところに村上義光の忠死の地の碑が建っているが、彼の墓が吉野神宮から少し離れたところにある。
何故、その地が選ばれたのか、までは知らないが・・・

 村上彦四郎義光(よしてる)は、信濃源氏村上氏の中でも最も歴史的に大きな働きをした武将であることは間違いない。
子孫の村上水軍も優秀であったし、弟の子孫である村上義清は、戦国時代に結局は武田信玄に追われ、上杉謙信を頼っている。

 彦四郎義光は、鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇の皇子であった護良親王を守るために死んだ勇将で知られる。
元弘の変の後、南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に従い、道中、敵方に奪われた錦の御旗を取り返すという
活躍をしている。そして、もっとも彼の名を知らしめているのは、その最期の姿である。

 吉野城が、幕府軍二階堂貞藤の大軍に攻められ陥落する際、護良親王を逃がすために、親王の身代わりとなり、
敵の大軍の前で立ち腹を切り、絶命しているのである。
「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、
恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」の台詞は有名である。

 この地でともに死のうとした嫡子義隆は義光に親王の行く末を見届けるように命じられ、また、満身創痍、一人で500騎ばかり
を相手に半刻持ちこたえ、最期に自害しているのは有名な話である。

 南朝に尽くした楠木正成・正季兄弟や村上親子、新田一族、ただただ、彼らの生き様に感動するのみである。
最近の、性根も座らず、命の重みも知らぬおろかな若者どもにも彼らの生き様を学んでもらいたいものだ。



2007年10月10日 御所・吉野の旅 14 柿ソフト

2008-11-23 15:16:36 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 勝手神社の前で昼食を頂いた後、その近くの酒屋兼喫茶店のようなところでマスターと話をしながら、柿ソフトをゲット。




 柿の実が入っており、自家製のソフトらしいがなかなかのものでしたな。

 M子師匠は酒を買ったようだが、美味しかったそうだ。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 13 喜蔵院

2008-11-23 15:16:28 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 今はユースホステルになっている宿坊だ。でも高野山と違ってあまり外人を見かけないな。



2007年10月10日 御所・吉野の旅 12 櫻本坊

2008-11-23 15:16:20 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 そして、次は、大海人皇子や役行者所縁の櫻本坊。「さくらもとぼう」と読む。

 特に、興味ないので調べていない。












 とりあえず、写真だけ。



★櫻本坊★ 奈良県吉野郡吉野町中千本

・金峯山修験本宗別格本山大峯山護持院。
・役行者霊蹟札所。
・天智天皇から逃れていた大海人皇子がとどまっていた日雄離宮跡に建立。
・ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟日雄角乗に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせです」と答えといい、その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所に寺を建立したと伝わる。
・文禄三年(1594)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白豊臣秀次の宿舎となった。
・もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称された。
・現在、宿坊も営んでいる。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 11 竹林院群芳園

2008-11-23 15:16:12 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 竹林院に到着。現在は、老人施設も経営されているようだ。また、多分値段は高いと思うが、宿もされている。中には、
狩野一門の絵画や豊臣秀吉の吉野花見の際の弁当箱などが残されている。



 もともとは、聖徳太子が黒駒に乗って来て椿谷に一宇を建て、椿山寺と称したのが始めという。その後、吉野にいたので
天武天皇ともご縁があり、また、弘仁九年(818)空海が大峯入峰の際、滞在して寺を建立され、常楽寺椿山と号したらしい。
その後、南北朝時代、第百代後小松天皇の勅命で「竹林院」と改めたという。

 ここの庭は、大和三庭園の一つといわれている。あとの二つは、当麻寺「中の坊」、大和小泉の小堀遠州の「慈光院」の庭。
手入れが行き届いていないので、明らかに、ここの庭はこの二つに劣る。

 庭に入る前に、まず、護摩堂が建つ。



 そして、庭。観光シーズンではないとはいえ、あまりにもひどい有様ではないであろうか?ちょっと、この写真では
「訪れたい」という人もでてこないであろう。個人的には、最低のレッテルを貼りたいくらいなのだ。






 以上。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 10 道中

2008-11-23 15:16:04 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 蔵王堂や東南印の前の道から、今度は竹林院の方へと歩いた。静御前が捕らえられたという勝手神社の裏手から登る。
M子師匠を待っている間、石碑のあるところに行くと名前があった。袖振山と勝手桜。ああ、境内だったのか・・・



 由来は書かれていないが、袖振山とは、源義経を見送る静御前がずっと腕を振っていた地だからではなかろうか?

 その道を少し登ると、今までは気付いてなかったのだが井光神社八幡宮というものがあった。井光神社と権現さん
を勧請して合祀したものかね?



 そして、もうしばらく竹林院を目指して上っていく。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 9 金峯山寺蔵王堂

2008-11-23 15:15:54 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 こちらも何度も行っているし、記事にもしているので詳しく書く必要はないかな。世界遺産に登録され、蔵王堂や仁王門は
国宝でもあるところ。中世には吉野城もあった。



 こちらから来る客も多いが、仁王門が反対側にあることから裏であろう。

 この階段を上ると、先述の村上義光公の死した地である。



 ここを通るたびに彼の死ぬときの姿を想像せざるをえない。

 そして、正面を向くと蔵王堂が控える。



 国宝だ。拝観できる日であれば、ぜひ中の仏像も見てみる価値があり申す。


★金峯山寺★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山

 世界遺産

・金峯山修験本宗の総本山。
・山号は国軸山。
・本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。
・吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳の山頂近くにある大峯山寺と吉野山の金峯山寺は、近代以降は分離し、別の寺院になっているが、近世までは前者を「山上の蔵王堂」、後者を山下の蔵王堂と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の二つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 8 東南院

2008-11-23 15:15:46 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 東南院は何度も行っているし、記事にもしているので何度も書く必要はないかな・・・

 金峯山修験本宗の別格本山である。

 ここの塔が非常に美しいので一見の価値あり。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 7 村上義隆公

2008-11-23 15:15:34 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 吉野山の勝手神社の脇から天川村に続く細い道を下っていくと村上兵衛蔵人義隆公の墓がポツリとある。おそらく、訪れる人も
少ないに違いない場所だ。私も、吉野山には何度も行っているが、彼の墓所に行くのはこのときがはじめてであった。



 村上義隆公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺蔵王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために
親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士信濃源氏村上彦四郎義光公の嫡男に当たる。
 義隆公も共に死することを望むも、親王を守り逃がすように命じられ親王を守り戦い、ただ一人にて殿を務めそこで力尽きている。
曲がりくねった細道を利用したとはいえ、ただ一人にて五百騎あまりを相手に半時間も踏みとどまった姿に涙を流さぬものはいないであろう。
 皇統の正統であるべき南朝に尽くした勇士たちである。されど、残された村上氏に対しての恩賞が薄く、その結果、
のちに村上氏が足利尊氏方に付くのは後醍醐天皇の大失策といってよいだろう。彼らの功をその死に見合う評価していたらば、楠木正成や
新田義貞のように最後まで忠を尽くすことになったであろうから。
 結局、跡を継いだ義光の弟信貞は尊氏方、義光-義隆の系統の義武は南朝につき、後の村上水軍となったという。

2007年10月10日 御所・吉野の旅 6 上千本・吉野水分神社

2008-11-23 15:15:27 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 何度も行ってる吉野水分神社。
 正しくは、吉野「みくまり」神社と読む。
 世界遺産でもある。

 創建年代は不明であるが、延喜式神名帳にも記載される古社。現在の社殿等は豊臣秀頼の寄進によるもので、
国の重要文化財となっている。

1.鳥居



2.楼門



 ここで、M子師匠の登場。



3.手水舎



 手水鉢が桶のため非常に珍しい。

4.本殿




 そこで、我輩の写真!



5.回廊




6.子守大明神



★吉野水分神社社殿★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1612

 国重要文化財

・慶長十年(1605)、豊臣秀頼の創建。
・楼門、拝殿、本殿、回廊二棟、幣殿。


★吉野水分神社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1612

 世界遺産

・祭神は、天之水分大神。産霊神、少名彦神、御子神、天津彦火瓊瓊杵命、玉依姫命、天萬栲幡千幡比命を配祀。
・式内社で、旧社格は村社。
・大和国四所水分神社の一つ(他は、葛城水分神社、都祁水分神社、宇太水分神社)。
・「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めた。
・豊臣秀頼のことも当社にご加護の上と伝わる。
・本居宣長も両親の祈願により授けられたという。
・創建は不詳。
・神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に所属する神社として修験道
の行場の一つとなっていた。
・明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 5 奥千本・西行庵へ

2008-11-23 15:15:17 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 金峯神社の脇を通ると奥千本西行庵へとつづく道がある。
 少し行くと分岐点だ。



 ここで、記念撮影。




 鳳閣寺・・・ 一度行きたいところだ・・・

 そして、道沿いの苔の写真。水滴でなかなか美しい。






 水滴のない物も美しい。自然の美だ。



 そして、五~十分ほど歩くと西行庵へとつく。



 この建物はオリジナルではないとは思うが、その昔、800年ほど前に北面の武士であった佐藤則清が急に出家し、
家族を捨て、隠遁したときに暮らしたところという。彼が西行と称したことから、西行庵として伝えられている。
松尾芭蕉も彼を偲んで二度ほどここへ来たらしい。
 しかし、雪も積もるこのような寒い地へよくも住んだものだ。

 M子師匠だ。



 帰りは違う道から戻る。苔清水という湧き水の前を通る。



 私の写真。



 ここは、なんやらの水百選に選ばれていたはず。

 さらになんか史跡があるのだ・・・




 修験道関係。昔は、ここで修行する人たちのお堂があったと思われる。

 そして、M子師匠の写真で、奥千本終わり。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 4 源義経隠れ塔と金峯神社

2008-11-23 15:15:08 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 車で奥千本に車をまわし、駐車場から金峯神社にはいる・・・

 変わった野草が入っている。




 そして、上ると源義経隠塔がある。




 果たしてこれが平安末期から鎌倉時代にかけて立っていた当時の建物とは思わない。それに、もしそうであったらば、
国宝か国の重要文化財であるはずだからね。まあ、いずれにせよ、鎌倉殿より追討される立場になったときにこの辺りに
来たのは、静御前が中千本でとらわれていることからも確実である。伝承では、義経一行が三日ほどこの近辺に潜んだとの事。

 そして、さらに100メートル弱歩くと金峯山寺蔵王堂奥の院といわれる金峯神社が建つ。ここは、社務所が数年前に放火され
全焼したが今は再建している。反対に同時期に全焼させられたかって神社はいまだに再建の目処が立っていない。義経憎しの
犯行なのか?

 金峯神社である。




★金峯神社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651

・祭神は、金山毘古神と金山姫神。日本書紀に「伊弉冊尊火神軻遇突智を生まむとしたまう時に悶 熱懊悩、咽ぐたりて
吐したまう此れ神と化為りましつ、名を金山彦という」とある。
・創立年代は不明。林道春の神社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇 の三年和州金峯山に明神出現、
安閑天皇の霊と称す」とあるが、詳かでない。吉野八社明神の随一であり、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼると思わ
れる。
・延喜式神名帳には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社・吉野水分神社とともに連ね、三社とも大社に列せられて
いる。
・金峯の神は一名金精明神とも呼ばれ、金峯山一連の峯々の地主神として、金鉱を守 護して黄金を司る神であった。
・式内社で名神大社。旧社格は郷社。
・『栄華物語』によると藤原道長が詣で祈願したとかかれている。


 社殿前で、M子師匠。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 3 如意輪寺

2008-11-23 15:15:00 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 後醍醐天皇陵および世泰親王墓の階段から降りて今度は楠木正行菩提寺の如意輪寺へといった。まずは階段の上からの眺め。



 階段を下りてすぐ前には、弁内侍至情塚というものがある。



 後村上天皇に仕えた女官の弁内侍には楠木正行の奥方になる話があったらしいのだが、正行が戦死したことで、弁内侍は
尼僧となり、その菩提を弔ったというが、尼僧になるときにその髪を埋めたところらしい。

 そして、如意輪寺本堂。中は見たことがない・・・



 本堂の前には、楠木正行お手植えの伝承のあるモッコクの木がある。



 では、宝物館などを見るために受付のほうへといった。入口の前には、楠木正成の記念写真用の台があった・・・
 ということで、M子師匠の勇姿。



 そして中に進む・・・まずあるのは、後醍醐天皇御霊殿。



 そして、すこしいくと、正成と正行の桜井の別れを描く像がある。
 そこで、またもや、M子師匠の勇姿。



 そして、宝物館へと入る・・・

 まずは、天井の絵。新しいものだが、豪快だ。



 中は、文化財の宝庫であった。

 「名刀 村正」




 「後醍醐天皇自らの書」




 「木造阿弥陀如来立像」



 国の重要文化財。奈良時代の行基作と伝えられる。


 「吉野曼荼羅彩絵 厨子」



 国の重要文化財。延元元年(1336)のもの。蔵王権現立像をおさめる厨子。内側には、吉野大峯の神々が描かれ、蔵王権現を
囲んだ吉野曼荼羅となる。


 「木造金剛蔵王権現立像」



 国重要文化財。嘉禄二年(1226)のもので、源慶作という。上の厨子の中におさめられていた。


 「楠木正行公鎧(腹巻)」




 「楠木正行時世の句の扉」




 「楠木正行公兜」




 「楠木正成公使用兜鉢割刀」




 「楠木正行公帯刀」




 「後村上天皇御綸旨」




 「地蔵菩薩画像」



 国重要文化財。平安時代のものと伝えられ、巨勢金岡の作品と伝承される。


 「後醍醐天皇 髻の綸旨」




 そして外に出て多宝塔の方面へ歩く。いい景色だ。



 多宝塔。



 近くには、有名人の桜の木があちこちに植えられていた。

 ここで、記念写真だ!




★如意輪寺★ 奈良県吉野郡吉野町中千本

・楠木正行菩提寺。
・平安時代の延喜年間(901~922)に日蔵上人により開かれたと伝わる。
・南北朝時代には後醍醐天皇の勅願所であった。
・慶安三年(1650)、鉄牛上人という僧によって再興され、浄土宗に改宗。
・正平三年十二月(1651)、楠木正成の長男楠木正行が四条畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに
当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。
正行は当寺本堂の扉に鏃で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。


2007年10月10日 御所・吉野の旅 2 世泰親王墓および後醍醐天皇陵

2008-11-23 15:14:32 | 近畿(奈良)
((行程))

1.巨勢山口神社 → 2.後醍醐天皇陵および長慶天皇皇子世泰親王墓 → 3.如意輪寺 → 4.金峯神社

→ 5.奥千本・西行庵 → 6.吉野水分神社 → 7.村上義隆公墓 → 8.東南院 → 9.吉野神宮

→ 10.蔵王堂 → 11.竹林院 → 12.櫻本坊 → 13.喜蔵院 → 14.村上義光公墓

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 さて、御所を去り、つぎは南朝史跡の吉野山中千本にある如意輪寺を目指した。前日が、後南朝史跡のツアーでもあったので
如意輪寺を選んだのである。この寺の脇に後醍醐天皇塔尾陵などがある。



 まず少し登ると長慶天皇皇子世泰親王の墓がある。
 この親王について詳しくは知らない。南朝の天皇であった長慶天皇のことですら謎であるのだから仕方がない。



 後醍醐天皇の陵はここから少しあがったところにある。M子師匠は疲れているようだ・・・ だが、一応ラストカーブには差し掛
かっている。



 そして、後醍醐天皇陵である。アナクロな人ではあったが、その信念は強く、立派な人であったと聞く。



 日本史上でも数少ない不屈の帝であるからこそ好きである。