熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

フォトはクリックすると大きくなります。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 17 尼子興久墓、そして、帰途

2008-04-07 23:46:23 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 月山富田城の麓に道の駅があるのだが、トイレがてらによるとなんやら
説明板らしき立て札を発見した。

 尼子興久の墓であった。彼は、名将尼子経久の三男、長兄政久が若くして
戦死し、その嫡男晴久(尼子を滅亡に追い込む凡庸な当主と後になる)に叔父
義勝が後見になっている状態。次兄国久は武勇の誉れ高き『新宮党』を率いて
いた。三男の興久は父より三千貫の領地を与えられたのだが不服だったらしく、
反乱を起こすにいたる。ちなみに興久も武勇に優れていたそうだ。老臣の
亀井秀綱を介して父経久へ七百貫の所領増加を申し出るが断られ、秀綱及び
経久に対して謀叛、岳父である備後甲山城主山内直通を頼るも1534年遂に自害。



 この墓に行った瞬間にM子師匠は霊が来たといい、急に体中に痛みを感じ始め
数日苦しんでいたようだ。なぜか私が責められることになったが、そういう
問題ではないであろう。私は何も感じていないのだから。

 ま、いずれにせよ、旅はここで終わり、17時過ぎから帰り始めるも雪で山陰道
一部通行止め、国道9号線は積雪。母の車は、ノーマルタイヤで溝もない状態・・・(買い換えろよ) ということで、ガソリンスタンドで4輪とも
スタッドレスに変えて頂いた。鳥取の若桜から兵庫に入るところなど、結構
大変だったが、午前二時ごろ無事奈良に到着し、休むことに。 

 そして、出雲の旅は終わった・・・

2007年12月30日 石見・出雲の旅 16 月山富田城 ぱーと2

2008-04-07 21:59:43 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 さて、靴を履きなおして再び月山富田城に突撃。

 まずは、花ノ壇にいく。




★月山富田城花ノ壇★

・花がたくさん植えられていたことから名づけられた。
・花ノ壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(殿様の居住地)との連絡が
 容易なことから指導力ある武将がいたと思われる。
・発掘調査で、花ノ壇には多くの建物跡が発見された部分(南側)とほとんど
 見つからなかった部分(北側)があり、南は武将の生活の場、北は兵士の待機場
 であったと思われる。
・現在ある二棟の建物は発掘された柱穴を元に復元されたもの。

 まあ、当時は花ノ壇とは呼ばれていなかったのでしょうな。

 では、月山頂上部を目指し登山開始。

 登り始めすぐに親子観音がある。



 これは、慶長十二年富田城内で起こった堀尾家お家騒動の張本人堀尾河内守
とその一子掃部の霊を祀った宝篋印塔。塔身の右側に慶長十三年十二月五日と
彫られているので堀尾河内守父子の墓と思われる。
 松江開府の祖堀尾吉晴の娘の息子(つまり孫)で筆頭家老であった河内守の
 家督横領の陰謀によるもの。

 この辺りは木々でさらに暗く写真ぶれまくり。
 こういうところを登りました。



 しばらく行くと山吹井戸。



 そして、木々を抜け切ると正面には三の丸跡が見えてくる。



 ここを登ると二の丸へとつづく道がある。





 そして、二の丸から降りて本丸へと向かう。

 人気もなくさびしい。霊などもうねっているようなところだが、私は
気にしない。そして、道は本丸へと私を誘う。




 あと十分、二十分遅かったら日没で不気味もいいところだったであろう。



 これはおそらく本丸跡に建てられた尼子家忠臣の山中鹿之助幸盛の供養塔
であろう。さらにおくに行くと、城の鎮護でもある大国主命を祀る勝日高守神社
が鎮座する。築城以前からの鎮座と伝わる。




 100円、少ないですが、おいてきました。
 そして、暗くなりきる前に下りねばいけず来た道を戻る。

 下は本丸から見る二の丸の写真だ。



 すごい雪だねえ、しかし・・・


 最後は、山中御殿でセルフショット。



 ちなみにお祓いなど言うことは好きではないのであるが、死んでいった兵士や
武将たちの魂を天に導くために少しこの地で祈らせていただいた。

 我が産田の神、軻遇突智命、彷徨える魂たち、天に帰ることを望むものたち
を導きたまえ
 
 そして、尼子経久公には、また話をいたしましょう、と。


★月山富田城★ 島根県安来市広瀬町富田

 国史跡

・保元・平治の頃、平家の武将悪七兵衛平景清(正しくは藤原姓)が富田荘に
 来た時、八幡社を移して、築城したとの伝承あり、これが案内板にある
 平家方によって築城云々のくだりの理由であると思われる。
・歴代の出雲国守護職の居城。
・戦国期の大名尼子氏、特に十一州を治めた経久が有名。
・天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも
 呼ばれた。
・慶長5年(1600年)以降、堀尾氏が城主となるが、慶長16年(1611年)、
 堀尾忠晴が松江城に移り廃城。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 15 月山富田城 ぱーと1

2008-04-06 11:44:31 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 憧れの戦国大名の一人十一カ国にまでその勢力を広め、かの毛利元就も臣従
し、尊敬していたというらしい尼子経久公の居城、月山富田城址にいくことを
島根旅行に行く前から決めていた。そしてついに到着だ。

 この石垣が目印で、ここから入城させていただいた。M子師匠は興味なしで
車待機。



 少し登ると山中御殿跡になる。



 12月30日で午後四時すぎをまわり日は沈み行く時間帯。暗くなる一方。
しかも雪が強くなってきている。登ることをあきらめて山のほうを見る。



 そんなに高くないのに。大和三山の耳成山か天香具山レベルだろうと思い
つつも万が一のことを考えると・・・

 仕方なくこのレベルでまわることに・・・



 花之御殿に行く道だったっけ・・・



 ここは左から、雑用井戸、櫓跡、菅谷口と書かれている。
 棒の横に井戸の跡があり、櫓が石垣の上に組まれていて、ここが出入り口
の一つだったんであろう。

 再び山中御殿跡を見渡す。



 これは山に続く道だ・・・
 悩んだ、悩んだ・・・ 結局登る道を選択・・・
 ヒールを履いていたのでスニーカーを取りに戻る。



 M子師匠にいう。

 「やっぱり登るから3,40分ほど寝といて。」


2007年12月30日 石見・出雲の旅 14 城安寺

2008-04-04 01:23:27 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 尼子の月山冨田城に向かい、近くまで行きながら行き過ぎてしまい、城安寺
に行ってしまった・・・閉まってたが、ついでに門の写真だけ撮ってきた。




★城安寺★ 島根県安来市広瀬町富田439

・開基は正和年間の古愚和尚で後、京都南禅寺の創建南院国師の第一弟子
 源翁和尚を招いて開山とした。
・明治19年廃仏毀釈により全焼。
・明治30年南禅寺様式の本堂、庫裏が再建。
・山門は松平直諒の寄進。
・庭園は南禅寺別院法皇寺住職虎山桂州の築庭。
・広瀬藩菩提寺らしい。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 13 神魂神社(かもすじんじゃ)

2008-04-04 00:01:46 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 熊野大社のあと、月山冨田城に行く道中に近くだということで、遅いながら
も神魂神社にも立ち寄ってきた。前情報ゼロで行ったが古い神社らしく、本殿
は国宝、さらに摂社の一殿は国の重要文化財というところである。
 12月30日であり雪も降り太陽は覗かない。時間は15時15分から15
分間程度の滞在。暗く、うねる様な気の流れを肌で感じる。あまり好きではな
い雰囲気だ。あまり名前も好きではない。
 とりあえず、文化遺産ということで突入。



 天気が雪ということもあり、薄暗くなんとなく心地よくない気が渦巻く。

 そして進むと手水舎。



 階段ルートと女坂ルートに別れる。もちろん階段ルートだ、近道だし。

 上ると拝殿がある。鏡には榊か何か写っているようだ。



 そして、国宝と対面。




 建物自体は古きよき香りがするが、どうも雰囲気が悪い。
 好きではない、というか、はっきり言って嫌いである。

 そして、本殿の脇には末社貴布祢稲荷両神社本殿(国・重要文化財)がある。



 さらに横には穴があったが・・・何かわからない。



 そして、後の摂社・末社。



 ちなみにこの神魂神社は、巫女も最低で神に仕えているということを言う
資格はないようなやつらであった。

「お正月の用意をしていてお守りなどは置き換えたので出せません」

 参詣者に言う言葉ではない。失礼極まりなく、また自分たちの仕事が増える
のが嫌で面倒くさいといった感じなのでカスといっても良いだろう。宮司は
どう思うだろうか? だいたい、遠隔地から来ている参詣者になんと失礼な
ことであり、奢っていることであろうか?


★神魂神社(かもすじんじゃ)★ 島根県松江市大庭町563

・祭神は伊弉冊大神を主祭神とし、伊弉諾大神を配祀。寛文年間ごろの新嘗会
 祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見え、一定していない。
・旧社格は県社。
・出雲國造の大祖天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来
 天穂日命の子孫が出雲國造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も
 「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向しているとか。
 →『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、
 文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は
 平安時代中期以降と考えられる。
 →つまり、社伝の信憑性は低い。

★神魂神社本殿★ 島根県松江市大庭町563

 国宝

 本殿は室町時代初期、正平元年(一三四六年)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、特に宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和二十七年三月国宝に指定されている。
 本殿内は狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。

 → と神社側は言っているが、現在の社殿は重要文化財となっている
 貴布祢稲荷両神社本殿と同じ天正11年(1583年)の再建と考えられている。

 →ここははったりの神社かよ・・・

★神魂神社末社貴布祢稲荷両神社本殿★ 島根県松江市大庭町563

 国・重要文化財

・天正11年(1583)の建立。
・社殿は珍しい二間社流造である。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 12 出雲國一之宮 熊野大社②

2008-04-01 22:08:58 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 では、ふたたび出雲國一之宮 熊野大社である。

 まずは、朱の橋の正面に立っての姿。



 天候の影響もあり、なかなか神々しく良い感じの姿となっている。
 そして階段を上ると神門がそびえる。



 門をくぐると拝殿が見えるが、雪の激しさが写真から伝わるだろうか・・・
 車はノーマルタイヤで溝がないくらいのもんだぜ・・・
 今から思うけど、危険な戦いだったよ・・・



 M子師匠の祈祷の後、記念写真を。




 では、拝殿横に周って本殿写真だ。



 手前は伊邪那美神社か?忘れてしまった・・・
 とりあえず、もう一度アップで。



 本殿に向かって右側にも小さな社がある。稲田神社と思われる。
 素盞鳴の奥方に当たる。



 こちらは境内にある能舞台。



 反対側には、鑽火殿がある。なかなか屋根の綺麗な建物だ。



 説明を書いた立て札・・・
「御祭神スサノオノ大神は「檜の臼・卯木の杵」で火を鑽り出す法を教えられた。
 熊野大社は「日本火出初社」とも讃えます。
 出雲國造(出雲大社宮司)は、大神の霊幸い給う神器の燧臼・燧杵を拝戴し、
 鑽火して「火継=霊継」の式を仕えなければ、その職を襲職することが
 出来ません。大神の霊威を戴き神性國造となります。
 この鑽火殿はその古伝由緒を伝える建物であり、神器が奉安してあります。
 毎年十月十五日の鑽火祭は古来からのしきたりの重儀であり、出雲國造が
 神器を拝戴するために参向して神人の神歌・琴板によって榊舞百番を納めて
 神慮一体の祝寿をします。これに先立って特殊な『亀太夫神事』が奉仕
 されます。」

 そして再び記念写真。




 そして、橋の横の風景にて、熊野大社は終わり。



 大体午後二時半から三時だった。


★熊野大社★  島根県松江市八雲町熊野2451番

・出雲國一之宮
・祭神 伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命。素盞鳴尊の別名
 というが、最近祭神に疑問を持ち続けているので信じられぬ。
・熊野坐神社と呼ばれた。
・名神大社、国幣大社、別表神社。
・由緒より熊野三山の元津宮と考える向きもあるが、紀伊国にイズモ族がおり
 いわゆるイズモは、紀伊のイズモであったと思われるため、その説には同意
 しかねる。
・創建は神代というので、弥生時代であろうか?日本書紀に出雲国造をして
 厳神の宮を作らしむとの記載がある。島根県安来市伯太町に熊野権現社跡
 という遺跡がある。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 11 出雲國一之宮 熊野大社①

2008-04-01 01:54:42 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 私の好みで、この旅には城跡をいくつか含めていたのだが、基本は諸国
一之宮巡礼ツアーであったので、もちろん熊野大社もコースに入れていた。
雪が降り続き、コンディション悪く、帰ることも危ぶまれる中、強行。昨年か
その前の年にM子師匠は、Megや卑弥呼師匠と出雲はきていたはずだったが、
熊野大社は行った事がないというので探しながら車を走らせた。
 そして、ついに熊野大社に来たときにM子師匠・・・「Megたちと来た」
行った所くらい覚えておいて欲しいものだ。

 では、まずは、一の鳥居と参道からだ。




 そして、二の鳥居、三の鳥居へと続く。



 朱の橋を渡ると三の鳥居そして手水舎が見える。個人的にはこの角度からの
姿が非常に好きである。




 そして、神門。随身門とでも言うべきか?
 島根は縄が太い・・・



 ここを通り抜けると社殿が見えてくる。

 まずは巫女さんだ。


2007年12月30日 石見・出雲の旅 9 松江城

2008-03-26 19:12:35 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 美保神社をルートに入れたために激しく遠道となった旅、出雲から美保に
移動中に横を通り過ぎた松江城址についに中盤戦で到着。まずは駐車場に車
を停めて、M子師匠のトイレ中に周りの撮影に入った。



 まずは駐車場横の堀。お金を払うと、舟で周遊できるという興味深い
スポットだが時間なく、するーした。

 さらに城の天守閣から反対の方向へ行き、櫓の撮影。



 橋もあり、なかなかなのだが・・・残念なことに、対岸のビルが風情を
損なわせる。まあ、仕方なきことなのであるけれど。

 さびしげに空を飛んでいく鳥を見送る。



 そして、M子師匠から、もう天守閣という電話が入り移動開始。松江城に
突入。



 久々に黒い城だ。木造だからなのか?広島城以来のように思う。

 階段を上ると左前方に神社を発見し、そちらに先に行く。島根県神社庁
指定特別神社である松江神社。崩れて頭が落ちた狛犬が切なく感じるところだ。
とりあえず、ここで、M子師匠と落ち合う。





 下の松江神社の手水舎はかなり貴重なものらしい。元は、元西尾村(現松江市
西尾町)に鎮座の東照宮の手水舎で寛永十六年(1639)に藩祖松平直政の命により
建てられたもので、大工棟梁渡辺加兵衛尉藤原好眞作という。有名なのだろう
か?昭和十年京都御所離宮写真および実測図、謹製所勤務古建築庭園研究科
川上邦基氏らが松江城視察時に参拝され、その時にこの屋舎に注目し、かなり
の名作で相当古い稀な築造である貴重な建物だと写真および実測図を持ち帰ら
れたということだ。



 そして、神社の隣の興雲閣である。こちらは島根県指定文化財となっており、
現在は、松江郷土館として使用されている。



 M子師匠は中に入るというので、私は天守閣方面へ一人で行った。



 この門を越えると天守閣がある。松江城の天守閣は、山陰地方唯一の現存
する天守閣で貴重である。国の重要文化財であるが、国宝天守閣を持つ
四名城に劣ってはいない。





 どうでしょう???



★松江神社★ 島根県松江市殿町1-5

・松江城二の丸に位置する。
・祭神 松平直政(初代松江藩主)
    堀尾吉晴(松江開府の祖)
    松平治郷(不昧)(第7代藩主)
    徳川家康
・島根県神社庁指定特別神社
・元は明治十年に旧松江藩の人々によって建てられた初代藩主松平直政を祀る
 楽山神社。そこに、堀尾忠晴が創建した東照宮を明治三十二年に合祀、松江城
 二の丸跡に遷座し松江神社と改称された。この時点で、祭神に徳川家康が
 加わる。
・昭和六年に松江開府の祖堀尾吉晴および松江松平藩中興の祖松平不昧が配祀。
・本殿は寛永五年(1628)、拝殿は寛文元年(1661)建造の権現造りである。
・個人的には祭神はイマイチ。

★興雲閣★ 島根県松江市殿町

 島根県文化財

・山陰に明治天皇を迎えたいという地元の強い要望により、その宿所とする
 ために松江市が13,489円かけて明治三十六年に建設(1903)。
・日露戦争のために明治天皇行幸はならなかったが、明治四十年五月、とき
 の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓のときにその宿所として
 使用された。
・ロシア宮殿風といわれ広く近隣にとどろいた。
・現在は松江郷土館として展示等をしている。

★史跡 松江城★ 島根県松江市殿町1-5

 国指定史跡

・別名千鳥城。
・日本に12箇所しか現存しない江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つ。
・1600年関が原合戦の戦功により堀尾吉晴が月山富田城に入ったが、中世山城
 であり、当地に向かないために末次城址に新たに松江城を建設。吉晴は落成
 直前にこの世を去る。寛文15年(1638)信濃松本より松平直政入封、明治維新
 まで続く。
・昭和十年、旧・国宝保存法により天守閣が国宝指定されるも戦後の
 文化財保護法施行により重要文化財となる。

★松江城天守閣★ 島根県松江市殿町

 国重要文化財

・親藩18万6千石の複合式天守。
・内部に井戸がある唯一の現存天守。
・木造銅板張の鯱を有し5重6階望楼型構造。
・内廻縁と高欄を有し外装は黒い下見板張りで、二階に付けられた石落し
 などの装備の点でも極めて実戦的な造り。
・漆黒の武骨荘重な意匠である。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 8 男女岩

2008-03-20 04:20:27 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 美保神社の近くには、男女岩と呼ばれるところがある。
 年末のこの日は荒波に揉まれ、非常に寒そうだった・・・



 右側が男根に見えるが、左側は女性器を模した形なのだろうか???

2007年12月30日 石見・出雲の旅 7 美保神社

2008-02-22 23:07:30 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 出雲大社のあと、松江城の横を通り抜け、先に美保関の方針にあるはずせ
ない目的地の一つ美保神社を急いで目指した。事代主系の恵比寿総本宮に当
たる神社だ。恵比寿には興味がないが社殿が美しいので行ってきた。


1.鳥居



2.廻船御用水

 一つ目の鳥居と二つ目の鳥居の間にある。文久元年夏に大干ばつに逢い町民
が困窮したところ、美保大明神に願をかけこの地を掘ったところ真清水が湧き
出、あまりの有難さに影向の水と名付けたそうだ。以来この井戸は夏枯れを
知らず今もおかげの水として大切にされているとのこと。



3.廻廊付随身門

 なかなか立派だ。



4.社殿

 本殿は「美保造」と呼ばれる独特の様式で、大社造の社殿を2棟を横に並べた
もの。本殿2棟の間に末社・大后社があり、三社五神を祀る。国の重要文化財。





5.社務所



6.記念写真




7.青畳通り

 古き風情のある通り。





★美保神社★ 島根県松江市美保関町美保関608

・祭神 : 事代主神 三穗津姫命
・ところで、出雲風土記には事代主命と三穂津姫命という神名が記されて
 いないという。
・御穂須須美命が三穂津姫命なのか?
・事代主神系列「えびす様」三千余社の総本宮。(蛭子神系のえびす社の
 総本社は西宮神社)
・式内社、旧社格は国幣中社。
・第二次大戦後は神社本庁の別表神社となっている。
・創建の由緒は不詳だが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神社台帳
 に記載されている。
・中世より横山氏が神職を世襲。
・近世ごろから「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、
 出雲大社とともに参拝者が増えた。出雲大社とあわせ
「出雲のえびすだいこく」と総称される。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 6 出雲そば 八雲

2008-02-22 22:21:07 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 まあまあかな?



2007年12月30日 石見・出雲の旅 5 出雲大社教本部

2008-02-08 01:55:50 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 出雲大社を出てすぐにある。まあ、出雲大社の子分というか、彼らの宗教
だね。ここも覚えている。あの注連縄に5円を投げ込んだ記憶があるのだ。




 ちなみに、建物自体はこのように興味をまったくそそらせない・・・
 天理教教会本部のほうがはるかに良い。

 そして、うわさの五円玉投げ込み地。って・・・みんな五円ちゃうやんけ!
ご縁がないですぞ!



 まあ、どうでもいいので、とりあえず記念写真!



2007年12月30日 石見・出雲の旅 4 出雲國一之宮 出雲大社②

2008-02-07 04:20:49 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 さて、そして見えてくるは三の鳥居。出雲大社の神域の荒垣正門に立つ
銅鳥居で、寛文六年(1666)に毛利輝元の孫綱広の寄進により立てられたらし
い。国の重要文化財である。



 門の手前の大黒さんの像の反対側には手水舎がある。



 では、神域に入る。いきなり正面は拝殿となる。



 カップルが自分たちの写真撮っているけど・・・それじゃあ顔アップで終
わるか、と・・・

 古い拝殿が火事でなくなったために昭和34年5月に竣功となっている。設計は
社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となる。

 そして、拝殿の奥に行くと本殿方面だが、正月しか本殿まではいけないらしく、
というか、お庭ふみというのでも入れるはずだが・・・
 まあ時間がないので外からなんとなく写真を。





 写真は、本殿前の八足門だ。その奥には、楼門があり、本殿は見えない。
 ちなみにこの門も国の重要文化財である。

 そして、下は、いつも携帯を触っているM子師匠。携帯がないと生きていれ
ないそうだ。



 かろうじて、ソニーのサイバーショットを駆使して撮った写真は門神社。
 お庭の番の神様らしい・・・もちろん国の重要文化財。



 時間的にばっちりと見る時間がなく、次は出雲大社教の本部へと行くために
通り道の西十九社のみ見た。これも国の重要文化財である。




★出雲大社★ 島根県出雲市大社町杵築東195

・出雲國一之宮。
・祭神 大国主大神
・延喜式内社(明神大社)で旧社格は官幣大社。
・縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の
 神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。
・正式には「いずもおおやしろ」というらしい。
・日本神話では、大国主神が天津神に国譲りを行う時、その代償に天孫が
 住むのと同等の宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の
 始まりという。
・古代より杵築大社と呼ばれていた。
・現在は神社本庁の別表神社。
・創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担って
 きた。 現在の宮司は84代国造千家尊祐で國學院大學を卒業後太宰府天満宮
 を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し平成14年宮司に就任し翌年神社本庁
 より神職身分特級を拝受している。
・宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾
 にご神紋である二重亀甲剣花菱の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。



2007年12月30日 石見・出雲の旅 3 出雲國一之宮 出雲大社①

2008-02-07 03:53:38 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 さて、物部神社を去った後は再び東に大きく移動となった。出雲大社。
懐かしいところだ。一枚も写真を撮ってはいなかったが、自動車免許は合宿
で、出雲に来ていたし、そのときに一日観光で出雲大社などに連れて行って
もらったのだ。そして、年末、もう14年半ぶりくらいに行ったのだ。

 駐車場からM子師匠は本殿の方へ直行したが、私は基本的に正面の鳥居か
ら入りたい人なので別行動となった。

 さすがに一の鳥居まで行くと少し時間がかかるので二の鳥居からにさせて
もらった。一の鳥居は遠景で勘弁。



 そして、二の鳥居だ。正月の用意で的屋の方々も用意に余念がない。



 では、出陣だ。

 こちらは、祓社。祭神は、祓戸四柱神、つまり、瀬津比神、速開都比神、
 気吹戸主神、速佐須良比神。



 そして長い参道。




 昔は砂浜だったんだろうね・・・

 しばらく行くと右側には大黒さんの像がありまする。




 われながらいい写真が撮れたと自負しておりまする・・・

2007年12月30日 石見・出雲の旅 2  石見國一之宮物部神社

2008-01-27 01:39:20 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

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 龍御前神社のあと、メインの訪問先の一つ石見國一之宮物部神社へと行っ
た。大雑把な道路地図しかなく少し迷ったのだが・・・ 世界遺産になった
石見銀山も行きたかったが、今回はそこまで時間を割くことができず・・・
もし機会があれば、今一度石見国に行きたいと思う。

 では、物部神社。

①鳥居



②狛犬と拝殿



③拝殿内部



④本殿




⑤折井田の腰掛岩

 むかし物部神社の祭神宇麻志摩遅命が白い鶴に乗ってこの川合に天から降
りてきた。そこを鶴降山という。そこから国見をしたところ大和の天香具山
によく似ているので八百山麓に住むことにしたという。そのとき鶴降山から
白い鶴に乗って降りたところを折井田という。そこには宇麻志摩遅命が腰を
掛けたという大きな岩があった。それを道路拡張のときに神社境内へと移し
たというのがこの岩。



⑥富金石の手水鉢

 流れているのは御神水。



⑦これが榎本花乃丞だ!



⑧こっちは鬼軍曹M子師匠さ。




★物部神社★ 島根県大田市川合町川合1545

・主祭神 : 宇麻志摩遅命(物部氏初代)
・相殿神右座 : 饒速日命 布都霊神  左座 : 天御中主大神、天照大神
・客座 別天神 : 天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神
         宇麻志阿斯訶備比古遅神 天之常立神
    鎮魂八神 : 高皇産霊神 神皇産霊神 魂留産霊神 生産霊神
         足産霊神 大宮売神 事代主神 御食津神
・継体天皇八年(513)勅命により神殿創建という。
・神武天皇が大和国侵略のとき(いわゆる東征)に大功を表し橿原の朝廷を
 守護する。その功により霊神剣(石上神宮奉斎)を腸う。
・物部神社は物部氏初代を主祭神として祀る物部氏の神社で、物部氏の氏神
 である大和国布留大明神石上神宮とは表裏一体をなす神社。
・蘇我馬子にに物部守屋が破れ、一族は各地に離散し歴史の表舞台から消えた。
 出雲国に逃れた一族はそれ以前に入植していた石見の国造家(現・金子氏)を
 中心として物部神社の護持・祭典を奉仕してきた。その奉仕してきた社家は
 江戸中期に六十数軒に減ぜられ、明治の制で世襲を解かれるまで続いた。
・ちなみに、石見国造金子家は明治初年に出雲大社の千家、北島家と共に
 男爵を与えられた。