そして、帰りの駅へと向かった・・・・
園城寺に隣接しているウサギの神社、三尾神社。
手水舎ではウサギのお出迎えだ。
(三井寺のHPより)
本地垂迹(ほんじすいじゃく)。平安朝以降のわが国では、明治維新を迎えるまでの永きにわたって、神々は仏菩薩が衆生済度のために姿を変えて現れたものだと考えられてきました。たとえば、熊野権現は阿弥陀如来の、あるいは、伊勢内宮は盧舎那仏(るしゃなぶつ)(救世観音(ぐぜかんのん))の垂迹であると。
この考え方は聖徳太子にもあって、天神地祇(てんじんちぎ)の一々に相当する仏菩薩を崇めることは神意に反することではなく、仏塔の建立は、かえって皇運を高める、といっています。『法華経』の教説に本地垂迹の由来があり、絶対真実である仏が釈迦の姿をとってこの世に出現したことを転じて、諸仏菩薩がそれぞれの社会風土に応じて身を現すと説きました。
神仏同体、神仏習合。寺々は境内に守護神社を祀り、神社には神宮寺が設けられました。社前の祈祷に僧も経を唱えたり、舎利を献ずる神社もありました。あるいは、社(やしろ)で放生会(ほうじょうえ)を催したりも。
これを断ち切ったのが明治政府でした。慶応四年(1868)三月十三日、王政復古を進めようとする維新政府は、神武天皇以来の治世を理念とし、神祇官を復興、「祭政一致」を宣言して、唯一神道の名のもとに神道を国教化し、神仏の分離を謀ります。天皇は神を祀る諸行事の主催者であり、神権を与えられたその天皇が政治を統轄するというものです。
当山三井寺でも、神仏分離令に基づいて、出雲や伊勢に系列する社はすべて分離させられ、新羅明神、鬼子母神といった異国に起源する神々だけが免れました。分離させられたのは、早尾社、三尾社、新日吉社(長等神社)など。
その一つ、三尾(みお)神社は、地元では「みおんさん」と親しまれる古社で、五月二日の例大祭、三日の神輿(みこし)渡御や七月二十二、二十三日の朝瓜(あさうり)祭には大勢の参拝者で賑わいます。
太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。
腰帯は、それぞれ赤尾神、白尾神、黒尾神となり、本神である赤尾神が最初に三井寺山中琴緒谷(ことおだに)に出現。それが、卯年の卯月卯日、卯の刻に、卯の方角から現れたため、当社の使いとして、瑞祥の神獣である兎が選ばれたと伝えられています。御神紋も「真向き(まむき)の兎」。その後、白尾神が現在地に、黒尾神は鹿関(かせぎ)の地に出現しますが、三神は明治になって当地に合祀されます。
現存の本社は、もともと三井寺開祖智証大師が琴緒谷に復興したものを、応永年間に足利将軍が再興したものです。また、慶長年間には豊臣秀吉も社殿を修復し、社領を寄進しています。
全国でも兎にゆかりを持つ宮は珍しく、卯年の今年は大勢のお参りが見られます。とりわけ、初詣でには、連日、何台もの観光バスからあふれる人たちでとても賑わいました。卯年生まれの守護神。縁結び、安産に霊験あらたかな社です。
手水舎ではウサギのお出迎えだ。
(三井寺のHPより)
本地垂迹(ほんじすいじゃく)。平安朝以降のわが国では、明治維新を迎えるまでの永きにわたって、神々は仏菩薩が衆生済度のために姿を変えて現れたものだと考えられてきました。たとえば、熊野権現は阿弥陀如来の、あるいは、伊勢内宮は盧舎那仏(るしゃなぶつ)(救世観音(ぐぜかんのん))の垂迹であると。
この考え方は聖徳太子にもあって、天神地祇(てんじんちぎ)の一々に相当する仏菩薩を崇めることは神意に反することではなく、仏塔の建立は、かえって皇運を高める、といっています。『法華経』の教説に本地垂迹の由来があり、絶対真実である仏が釈迦の姿をとってこの世に出現したことを転じて、諸仏菩薩がそれぞれの社会風土に応じて身を現すと説きました。
神仏同体、神仏習合。寺々は境内に守護神社を祀り、神社には神宮寺が設けられました。社前の祈祷に僧も経を唱えたり、舎利を献ずる神社もありました。あるいは、社(やしろ)で放生会(ほうじょうえ)を催したりも。
これを断ち切ったのが明治政府でした。慶応四年(1868)三月十三日、王政復古を進めようとする維新政府は、神武天皇以来の治世を理念とし、神祇官を復興、「祭政一致」を宣言して、唯一神道の名のもとに神道を国教化し、神仏の分離を謀ります。天皇は神を祀る諸行事の主催者であり、神権を与えられたその天皇が政治を統轄するというものです。
当山三井寺でも、神仏分離令に基づいて、出雲や伊勢に系列する社はすべて分離させられ、新羅明神、鬼子母神といった異国に起源する神々だけが免れました。分離させられたのは、早尾社、三尾社、新日吉社(長等神社)など。
その一つ、三尾(みお)神社は、地元では「みおんさん」と親しまれる古社で、五月二日の例大祭、三日の神輿(みこし)渡御や七月二十二、二十三日の朝瓜(あさうり)祭には大勢の参拝者で賑わいます。
太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。
腰帯は、それぞれ赤尾神、白尾神、黒尾神となり、本神である赤尾神が最初に三井寺山中琴緒谷(ことおだに)に出現。それが、卯年の卯月卯日、卯の刻に、卯の方角から現れたため、当社の使いとして、瑞祥の神獣である兎が選ばれたと伝えられています。御神紋も「真向き(まむき)の兎」。その後、白尾神が現在地に、黒尾神は鹿関(かせぎ)の地に出現しますが、三神は明治になって当地に合祀されます。
現存の本社は、もともと三井寺開祖智証大師が琴緒谷に復興したものを、応永年間に足利将軍が再興したものです。また、慶長年間には豊臣秀吉も社殿を修復し、社領を寄進しています。
全国でも兎にゆかりを持つ宮は珍しく、卯年の今年は大勢のお参りが見られます。とりわけ、初詣でには、連日、何台もの観光バスからあふれる人たちでとても賑わいました。卯年生まれの守護神。縁結び、安産に霊験あらたかな社です。
園城寺最後の見せ場の仁王門です。
でも個人的には、東大寺南大門や当麻寺の仁王門と比べるとイマイチです。
仁王に引けをとらず恐ろしいM子師匠です。
そして最後はそれがしでござる。
先月息を引き取ったブーツを履いていたのですね・・・・
懐かしい・・・・
この後、この近くのレストランで湯葉そばを頂き、そして隣の土産屋で、ポーランドのミミからのリクエストもあった招き猫を買って、園城寺を後にいたした。
でも個人的には、東大寺南大門や当麻寺の仁王門と比べるとイマイチです。
仁王に引けをとらず恐ろしいM子師匠です。
そして最後はそれがしでござる。
先月息を引き取ったブーツを履いていたのですね・・・・
懐かしい・・・・
この後、この近くのレストランで湯葉そばを頂き、そして隣の土産屋で、ポーランドのミミからのリクエストもあった招き猫を買って、園城寺を後にいたした。
水観寺です。 足の病にご利益だったっけ??? 腰だっけ?
兎に角、ここでは師匠に頼み、足形のお守りを買いました・・・・
ここでは撮影に没頭して・・・
パンフレットとかを忘れた記憶がありますな。
日光さんと月光さんですな。
そして、下は薬師十二神将ですわ!
兎に角、ここでは師匠に頼み、足形のお守りを買いました・・・・
ここでは撮影に没頭して・・・
パンフレットとかを忘れた記憶がありますな。
日光さんと月光さんですな。
そして、下は薬師十二神将ですわ!
国の重要文化財らしい園城寺食堂(釈迦堂)ですわ。
室町時代初期のものらしいので、足利尊氏とか義詮はんの時代かね?
境内にある弁天様は天和年間のものだそうだ。
どうでしょうか???
室町時代初期のものらしいので、足利尊氏とか義詮はんの時代かね?
境内にある弁天様は天和年間のものだそうだ。
どうでしょうか???
金堂が修復中であったために写真が撮れず、有名な三井の晩鐘へと行くことになった・・・
環境庁による日本の音風景百選にも選ばれているそうだ。
環境庁による日本の音風景百選にも選ばれているそうだ。
次は霊鐘堂。
中にあるものは・・・・
弁慶の汁鍋
弁慶の引摺鐘
M子師匠曰く、このお堂は非常に気の悪いところだそうだ。
唐院四脚門をくぐると3棟の建物が目に入ります。
まずは長日護摩堂。
そして、灌頂堂。
さらに、三重塔。
奈良県吉野郡大淀町にあった比曾寺のものだったとは驚きです。
まずは長日護摩堂。
そして、灌頂堂。
さらに、三重塔。
奈良県吉野郡大淀町にあった比曾寺のものだったとは驚きです。
次は石仏、石像系です・・・・
そして、天台大師。
おっと、師匠が餅を食べたくて待っているようだ・・・・
そして、天台大師。
おっと、師匠が餅を食べたくて待っているようだ・・・・