熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

フォトはクリックすると大きくなります。

2007年4月10日 9 鎌足神社

2008-09-09 14:42:19 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 この常陸の国でも大職冠鎌足公が生まれたという説があるそうだ。
 まあ信じられぬ話だが・・・・
 そして、生まれた地にあるとされているのがこの鎌足神社だ。

 奈良県のものとしては複雑だな・・・
 でも実際は五條のほうだと思うけどね・・・






 さあ、ここから30分かけて鹿島神宮駅だった・・・・
 まあ疲れましたが、この後、成田から伊丹に飛び、無事、2週間の長旅が終わった・・・・

2007年4月10日 8 下生稲荷神社

2008-09-09 14:42:08 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 とりあえず、地図にあった神社の一つ稲荷様を発見!
 しかし、階段が・・・・

 ほぼ徹夜状態でのポーランドからのフライトのすぐであったのでヘロヘロな体・・・ しかし登ってきました・・・





2007年4月10日 7 なんやろか・・・

2008-09-09 14:41:59 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 鎌足神社を探して遭難していた・・・・
 鹿島高校だっけ?? 高校の構内にあった・・・
 って、構内に入ったことさえ気づかなかったが・・・・




 へ? 守護神?

2007年4月10日 6 伊勢神社

2008-09-09 14:41:39 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 詳しくはわからない。鹿島神宮の南隣の鹿島氏宅の門の横にひっそりと立っている神社が伊勢神社。末社とかではないようだ。


2007年4月10日 5 鹿島神宮③

2008-09-09 14:41:30 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 さらに奥の要石を目指します。
 ところでこんなものが・・・・



 塚原卜伝???

 まあ、それはいいとして、しばらくいくと・・・・ 要石。





 さらに北側?にある 御手洗へ!




 さて、メインの予定はここで終了し、後は電車の時刻まで散策だ・・・・

2007年4月10日 4 鹿島神宮②

2008-09-09 14:41:20 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 さては鹿島神宮ですが・・・・
 まずは本殿を横から。



 そして、拝殿を正面から人がいないバージョンで。



 いかがですか??? 
 M子師匠お勧めの神社ですわ。
 私は何も強く感じることはなかったんですけれどもね。




 これは拝殿の前にぽつんとある摂社。
 さらに横には仮殿もあります。




 そして、さらに奥にある奥宮を目指します!



 5分ほど行くとありました。




 こちらの方がこじんまりして好きですな。

2007年4月10日 3 鹿島神宮①

2008-09-09 14:41:10 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 さてさて、鹿島神宮到着???



 だが、まずは、鳥居横のみやげ物屋さんにいき、オバチャンとお話。
 「奈良からなんですよ~」
 「昨日、奈良の方が参拝に来られていましたよ。毎年、鹿島さんに来てられるそうでした」

 など、話しており、そして境内に!



 こちらは祓戸かな?



 とりあえず、進んで行きますと・・・・

 鹿島神宮の楼門です。




 白い服着て修行中の団体さんも居られました。

 そして、ついに本殿とご対面ですわ。




(Information from Wikipedia)

鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社である。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。

武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。

また、地震の守り神としても有名である。境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。

創建は神武天皇1年、紀元前660年と伝えられているが、本当のところはよくわかっていない。もっとも、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、鹿島神宮の創建が紀元前7世紀であるとは考え難い。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。

鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。


2007年4月10日 2 鹿島神宮駅到着

2008-09-09 14:41:01 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 さて、早速駅を出て進むと・・・・

 塚原卜伝????? ああ、そうや、忘れておりましたがな~~~~~

 いきなりご対面してきました。




 さらに進むと・・・・・




 こじんまりとした・・・・りゅう(雨かんむりに龍)神社。
 簡単に言うと、水の神様ですわ~~~~

 そして・・・そば屋さん!
 いかねばならぬと言うことで鹿島神宮を目前に昼食に行きました。



2007年4月10日 1 成田空港から鹿島神宮へ!

2008-09-09 14:40:52 | 関東
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 成田空港 ⇒ 鹿島神宮 ⇒ 伊勢神社 ⇒ 下生稲荷神社
   
 ⇒ 鎌足神社 ⇒ 成田空港 ⇒ 伊丹空港


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 ポーランドからほぼ不眠で帰国して疲労がたまっていたのだが、関東はあまり行く機会がないので、7時間の空き時間を利用して、short tripをすることにした。香取神宮と鹿島神宮で悩んだが、駅から近い鹿島神宮を選択。

 とりあえずは、成田駅から鹿島神宮行きの電車に乗って旅していた途中の窓からの風景・・・・

 田舎だった・・・・



2007年7月1日 千葉 5 諏訪社

2007-07-01 23:00:05 | 関東
 最後は、佐原の諏訪社。入り口の鳥居ではなく、横のところまでタクシーが入ってくれたので、いきなり本殿にいけることに。まあ、ざっと見た感じ境内は廣そうなところだった。社殿はなかなか新しい感じがする。ただ、全て見てまわれず殘念であった。

 そして、急ぎだったので、すぐタクシーでJR佐原駅まで送ってもらい、羽田空港まで歸った。

1.拜殿




2.M子師匠



3.末社三峯社

 

★諏訪社★ 千葉県香取市佐原イ1020

・舊社格は社。
・祭は建御名方。
・小野川より西側の地域である新宿の鎭守、氏。
・天慶の亂(939)に大惟季が、伊豫國にて藤原純友を伐った功績により、下總國大須賀莊領主に命ぜられた。その時に、領内鎭御のとして信濃國諏訪大社より勸請。
・社殿は嘉永六年(1853)、造營とのこと。
・佐原の大祭秋祭りで知られる。

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(足跡)
 
 香取宮 ⇒ 八坂社 ⇒ 伊能忠敬舊邸蹟 ⇒ 諏訪社

2007年7月1日 千葉 4 伊能忠敬舊邸蹟

2007-07-01 23:00:04 | 関東
 次は、地圖で有名な伊能忠敬の舊邸蹟に行った。周りは明治時代の建物が竝んでいるところで景觀がよい。まず目に付いたのは奇妙な橋である。ジャージャー橋、他のところでは目にすることもない面白い橋である。橋の周りの風景は風情がありよろしいことだ。もう行くことはないだろう、と思うがよきところであったと思う。

1.ジャージャー橋 

 

・正式名稱は、樋橋。「とよはし」と讀む。
・通稱名は「ジャージャー橋」。
・昭和に入りコンクリート製になり、そして平成四年(1992)に今のものに架け替えられたらしい。歷史的には江戸時代初期に佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋(たぶん桶のこと)をつくり小野川に架けたものという。時があまりなく周りきれなかったので寫眞が少なく殘念だが、いい風景寫眞だと思う。

2.周邊の眺め

  

 

3.伊能忠敬舊邸宅(店舗) 


 

4.小野川の舟



★伊能忠敬舊邸★ 千葉県香取市佐原イ

 國史跡

・商家造、瓦葺き、平屋建。
・表の店舗と奧の母屋からなり、店舗は釀造業の倉庫を改造したもので、土、帳場、居室、臺所等がある。さらに母屋は政五年(1793)、伊能忠敬が四十八歳の時に、自身の設計により作ったという。

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(足跡)
 
 香取宮 ⇒ 八坂社 ⇒ 伊能忠敬舊邸蹟 ⇒ 諏訪社

2007年7月1日 千葉 3 八坂社

2007-07-01 23:00:03 | 関東
 香取宮からタクシーを呼ぶと香取駅から香取宮まで運んでくれた運転手の方が來て下さり、八坂社→伊能忠敬舊邸→諏訪社という觀光地を急ぎで周れる樣にんだ。

 まずは八坂神社。ちょうど、境内でバザーをしていたので人はそこそこたくさん人が來られていた。殘念なことに急ぎだったので写眞を撮ってすぐ走るというくらいで、あまり見れなかった。

1.拜殿


 

2.本殿


 
3.末社水天宮




★八坂社★ 千葉県香取市佐原イ3360

・舊社格は村社。
・祭は素盞嗚尊。
・佐原の大祭(祇園祭)で知られる。
・古く佐原諏訪山近傍の天王臺に創建。
・江戸時代前期の天和年(天正以前の説あり)に現在地へ遷座し、佐原本宿地區の總鎭守となった。

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(足跡)
 
 香取宮 ⇒ 八坂社 ⇒ 伊能忠敬舊邸蹟 ⇒ 諏訪社

2007年7月1日 千葉 2 下總國一之宮香取宮

2007-07-01 23:00:02 | 関東
 參道を少し進むと赤い鳥居が見える。これが、下總國一之宮である香取宮の鳥居。しばらく參道を行く。すこし行くと左手には池が見え、前方に隨門が見えてくる。向かって右手には莊嚴な門が見える。隨門をくぐると手水舎がある。小さな息子さんを連れた父親がお參りに來ていた。意外と社にこういう風景は多いものだ。ちなみに、本殿へは向かって右側に行くのだが、反對側には末社があるので、まずは行ってみた。その後、本殿に向かうが、途中、由緒書きがあったのであるが、日本一古いといわれている大社より古いとでもいいたいのかね。そういう由緒書きを出してる社が多いものだが、信憑性がないところも多いからね。どうでもいいが。

 拜殿前にこじんまりとしていい感じの楼門がある。常陸の鹿島宮よりもはるかに好きである。そして、拜殿。檜皮葺で美しい建物である。

 M子師匠が勝手に先に行ったので、私は香取宮の奧宮を目指し一人で横道に入っていった。重要な要石、奧宮まで散策できたのでなかなかよかったと思われる。

1.一之鳥居

 

2.參道

 

3.莊嚴な門

 

4.隨門

 

5.手水舎

 

6.樓門 

 
 
7.拜殿



 

  

8.M子師匠

 

9.本殿



10.(向かって左)末社市社天孫社合殿、末社馬場殿社

 

・祭は市社に事代主、天降社に伊伎志通保、馬場殿社に建速須佐之男命。

11.饌殿

 

12.攝社匝瑳社

 

・祭は磐筒男、磐筒女。香取大の親。
・古くは社殿の立替は匝瑳郡の使役であった。

13.木

 

14.攝社鹿島新宮



15.參拜の美女



16.境内社護國社




17.要石



・社頭説明板によると、「古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。」とのことである。

18.劔聖飯篠長威齋墓所

 
 

 千葉縣指定文化財

・室町時代にできた日本最古の流派である天眞正傳道流の祖という。

19.攝社香取宮奧宮




・祭は經津主大神荒御魂。
・舊參道に鎭座。
・社殿は昭和四十八年(1973)の伊勢神宮遷宮の折の古材を用いられている。
 
★下總國一之宮香取宮★ 千葉県香取市香取1697

・延喜式内社、下總國香取郡、香取宮、名大、月次新嘗。
・舊社格は官幣大社。
・祭は經津主大。武甕槌命、比賣命、天兒屋根命を配祀。主祭經津主大に關して、正史においては伊波比主命と書かれているが、藤原氏がその權力で他氏の祭祀權簒奪の結果であり、物部、齋部(忌部)両氏が一切認めず、經津主とするところに眞實が見える。
・日本全國に約四百社ある香取社の總本社。
・創建は武天皇十八年(紀元前643)と傳えられる。『常陸國風土記』によると、代に肥後國造一族だった多氏が上總國に上陸し、開拓を行いながら常陸國に勢力を伸ばし、この際に出雲國の拓殖氏族によって農耕として祀られたのが、香取宮の起源とされる。但し、創建年が古すぎるとの異論もある。
・霞ヶ浦は古代、奧深い入海であり、鹿島と香取の兩宮はその出口を両側から扼えるように建っていた。
・『延喜式』名帳では伊勢の「大宮」を除き、鹿島、香取の二社が唯一「宮」と記され、特別視されていたことがわかる。
・『續日本後紀』承和二年(835)三月の條に「下總國の人、陸奧鎭守府將軍外從五位下勲六等物部匝瑳連熊猪、連を改めて宿禰を賜う。又本居を改めて左京ニ條に貫付す。昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌歸報。この勲功に籍りて下總國に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ即ち熊猪等の祖なり」とあり、香取郡の東南に鄰接していた。『先代舊事本紀』は物部氏の家配であるが、その「天孫本紀」に宇麻志麻治命の十二世の孫の物部木蓮子連の弟、物部小事連について、「志陀連、紫垣連、田井連らの祖」とあり、太田亮刃は。この「志陀連」を「信太連」とみ、『和名抄』にある陸奧國志太郡を『續日本紀』では信太郡、志太郡と書くことからもそのように考えられる。香取郡の西北に、かつての榎浦渡海を隔て常陸國信太郡があるが、『常陸國風土記』によれば、白雉四年(653)、物部河内と物部會津が請願し、筑波國造と茨城國造の土地を裂いて建てたものという。このように物部小事連を祖とする物部匝瑳連の匝瑳郡と物部信太(志太、志陀)連の信太郡に挾まれて香取郡があることからも香取宮と物部氏の關係は否定しがたいと思われる。また、摂社の匝瑳神社の建て直しの役を匝瑳郡が受け持っていたこともその証と思われる。
・大禰宜を世襲した香取連は大宮司の大中臣氏と結びついていたために、平安末期には大中臣氏を稱し、物部氏とは一線を畫し、物部氏祖の饒速日命ではなく物部氏の氏の經津主命の後裔を稱しているが、物部小事連を祭とする匝瑳郡の式内社老尾社の祠官であったこと、および、香取連五百島が匝瑳郡に住したということから、物部香取連と考えるのが妥當とされる。
・職首座は大宮司、大禰宜といい經津主の兄(子とも傳えられる)の天苗加命の子孫を稱する香取連が首座となったが、後世、大中臣氏(藤原氏)が入り相互に重職を世襲した。
・香取宮の丑寅の方位に鹿島宮、津の宮、蹟宮があり、鹿島宮は『當社例傳記』によると、鬼門降伏のために鎭座するという。この鬼門というのは畿内からの位置であるが、香取、鹿島兩宮が四十五度の正確な位置關係で鎭座するのは、意圖的なものであると考えられる。また、内海を前にして西南に鳥居がむいているが、香取から見ると鬼門の方位になっている。こういった位置關係から、鹿島と香取の關係は竝列ではなく、祀られる神と祀る齋主の關係であったとみられる。これは、位階および勲等からも推測にかたくない。
・かつては、二十年ごとに本殿が造營されたという。

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(足跡)
 
 香取宮 ⇒ 八坂社 ⇒ 伊能忠敬舊邸蹟 ⇒ 諏訪社

2007年7月1日 千葉 1 香取

2007-07-01 23:00:01 | 関東
 今年のわたくしの誕生日は、下總國一之宮香取宮に行くことに。上野に宿泊して朝から香取まで行った。
バスもなく、タクシーもなく、電話でタクシーに來てもらったが、基本的には隣の佐原に待機しているとのこと。

 香取宮の參道前に到着し、M子師匠の荷物を預かってもらうのもまねばならず、土産物屋に入り、有名な團子をいただいた。その後、參道へ。人は少ないがいいところだ。個人的には常陸の鹿島宮よりもはるかに好きだわ。

1.團子


 

2.參道



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(足跡)
 
 香取宮 ⇒ 八坂社 ⇒ 伊能忠敬舊邸蹟 ⇒ 諏訪社

2007年6月30日 武藏 4 國社

2007-06-30 23:00:04 | 関東
 澁谷の後は、ついでに折角東京に來たので、國社へも訪問。一風変わった社だが、ちょうちんの用意がされていた。現職の内閣總理大臣安倍晋三や民主党党首小澤一郎も提燈を供えたようである。

 他國に何をいわれようが、左翼に何をいわれようが、洗腦されていたとはいえ、家族を守るためだとはいえ、「日本の國のために」を合言葉に死んでいかれた方が眠るところであるから、やはり國にはこの社はしっかりと守っていただきたい。ただ、A級戰犯合祀問題があるが、松岡などはあれだが、總てが總て惡ではなく、不平等裁判であったことも忘れていただきたくない。最近のイラクでのフセイン元大統領のことも考えてみればわかるはず。

 さ、それはともかく・・・お守りも買わせていただいた。ちなみに曇ってきており、後には雨が降ってきたが、先人たちの涙であったかは定かではない。

 この後は上野駅に行き、タイ料理レストランで、火が出るくらい辛いもの(おいしくないやんけ!)を涙しながら食べて、JR上野駅の改札前で帰宅ラッシュの人波をさえぎるように、五分から十分くらいの抱擁と激しいキスをしてさよならをした。

 夜は、曲を作ってくれたターニャさんの店に行き、お礼をいい、いっぱい飲んできた。

1.一之鳥居


 

2.二之鳥居



3.拜殿



4.それがし



5.左衞門


 

★國社★ 東京都千代田区九段北3丁目1番1号

・舊社格は別格官幣社。
・祭は護國の英靈二百四十六万万六千五百三十二柱。
・明治二年(1869)に東京招魂社として創建され、明治十二年(1879)に國社と改稱。
・幕末から明治維新にかけて功のあった志士達から、戊辰戰爭以降の日本の國内外の事変、戰爭等、國事に殉死した日本の軍人、軍属等を主な祭とす。
・本殿での祭の座は、當初、一座であったが、戰後に臺灣宮および臺南社に祀っていた北白川宮能久親王と蒙彊社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀、一座を新たに設けた。ゆえに現在の座は、皇族以外の祭の一座と北白川宮能久親王と北白川宮永久王を祀った一座の二座となっている。
・對象となる人物の國籍については、日本國民及び死亡時に日本國民であった(日本領であった臺灣、朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られる。
・戰前においては社行政を總括した内務省が職員の人事權を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、國家道の象徴として捉えられていた。
・昭和二十年(1945)、日本を占領したGHQは、國社を燒き払いドッグレース場を建設する計畫を立てたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなった。そこで、ローマ教皇庁代表であり上智大學學長でもあったBruno Bitter父に意見を求めることとなった。彼は、「いかなる國家も、その國家のために死んだ戰士に對して、敬意を払う權利と義務があると言える。それは、戰勝國か、敗戰國かを問わず、平等の眞理でなければならない」とし、「國社を燒却する事は、連合國軍の侵畧政策と相容れない犯罪行爲である」とまで言い、さらに「國社が國家道の中枢で、誤った國家主義の根源であるというなら、排すべきは國家道という制度であり、 國社ではない。我我は、信仰の自由が完全に認められ、道、佛、キリスト、ユダヤなど、いかなる宗教を信仰するものであろうと、國家のために死んだものは、すべて國社にその靈をまつられるようにすることを、進言するものである」とまで述べたという。その結果、國社は存續をすることができたという。

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(足跡)
 武藏國一之宮氷川社 ⇒ 金王八幡宮 ⇒ 國社