熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

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2008年4月30日 心斎橋

2008-04-30 23:00:01 | 近畿(大阪)
 この日はM子師匠とブレスレット様の石を買いに心斎橋駅に行き南船場周辺を彷徨った。そのときにある碑を発見。以下のものだ。

 
 

 『橋本宗吉絲漢堂跡』というもの。
 大阪蘭学の祖といわれる橋本宗吉によっておこされたという。

 その後、石屋に到着し、いくつかの石を自分用にも買った。

 そして、帰宅後、M子師匠に作ってあげた第一号がこれ。

 デザインがイマイチに思うがどう?



 

2007年11月18日 2 片埜神社

2008-04-20 22:55:57 | 近畿(大阪)
((行き先))

 1.阿弖流爲・母禮首塚 → 2.片埜神社

☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆

 いわゆる大墓公阿弖流爲の伝・首塚といわれる地を参った後に、勝手に
河内一之宮を名乗る片埜神社へ行った。現実には、交野郷一宮である。

1.東門




★片埜神社東門★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15

 大阪府指定文化財

・通称黒門。
・室町時代のもの。
・鎌倉時代に武家や僧侶の屋敷に使用された棟門の貴重な遺構。
・本柱が板蟇股を挟み、唐居敷を備えるところに特徴がある。
・安定させる為に前後に控柱を設けて、今は四脚門となっている。
・片埜神社で最も古い建造物。

2.拝殿




 七五三の祈祷のようだ。



 我が雄姿!



3.本殿




★片埜神社本殿★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15

 国重要文化財

・三間社流造、桧皮葺、朱漆塗。
・慶長七年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を総奉行として再建(片桐且元自筆の
 棟札を蔵す)。
・桃山様式を残す重要文化財。

4.南門




★片埜神社南門★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15

 大阪府指定文化財

・神社の正門。
・通称、赤門。
・切妻造本瓦葺の四脚門で総丹塗り。
・慶長の本殿再建と同じ時期のもの。

5.塀



6.石造灯籠 大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15



★片埜神社石造灯籠★ 

 大阪府指定文化財

・無銘であるが鎌倉時代の作といわれる。
・かつて当社に附属していた神宮寺にあったものと推定される。

7.依姫社



8.不明



9.すさまじき雲






★片埜神社★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目21-15

・延喜式内社。
・河内國一之宮を自称するが、一の宮会のメンバーでもなく、実際は交野一宮。
・建速須佐之男大神と菅原道真を主祭神とし、櫛稻田姫命・八嶋士奴美神を配祀。
 他に、近隣神社の合祀などを行ったために、天照皇大神、品陀和氣命、
 天児屋根命、八幡大神、久那戸神、久須須美大神、事代主命が祭神となる。
・社家である岡田家の家譜には「土師家の鎮守」と書かれているそうだ。
・祭神について『神名帳考証』には「饒速日命」、『特選神名牒』には「
 交野忌寸の祖神」と書かれているが、片埜神社側ではこれらを否定。でも
 実際はこれが本当のところだろう。
・社伝によると、垂仁天皇時代に、出雲国の豪族である野見宿禰が、当麻蹴速
 との相撲に勝った恩賞として当地を拝領、出雲の祖神である素盞嗚尊を祀って
 一族の鎮守としたのに始まる、とされている。
・戦国時代の戦乱で荒廃したが、豊臣秀吉によって復興され、大坂城の鬼門の
 方角にあることから鬼門鎮護の社とされた。
・江戸時代までは「一宮牛頭天王」を正式名称としていたが、明治時代にかつて
 の片埜神社に復したらしいが、一貫性の無い嫌な神社だ。

2008年3月10日 どうとんぼり神座

2008-03-14 01:24:16 | 近畿(大阪)
 この日はM子師匠が関東から帰ってくる日であったので、待ち合わせして
 難波に夕食を食べに行き、その後、1時間ジャンカラでカラオケをしてきた。

☆道頓堀 神座☆




 本店になるのかな? 今までは奈良県下の三店舗しか行ってなかったんですが
金龍ラーメンの裏手にあるといわれ、初挑戦しました。

 個人的には、彩華よりはあっさりしていて好きなのですが、M子師匠には
普通という評価をもらいました。

 ちなみに作り方を学べばそれよりおいしいラーメンを自分でも作ることは可能
だとは思います。 つまり、秀でた味ではなく、多分、作り方を学べば誰でも
簡単に作れる味。


 味評価

 ★★★★★★★☆☆☆  7/10 点

 ちなみに、M子師匠の評価は 6 です。


 

 部屋が乾燥していて喉のコンディションが保てなく、声がふらふらになって
しまいましたが・・・ こんなもんです。












2008年3月13日 森之宮

2008-03-14 01:12:00 | 近畿(大阪)
 M子師匠とパピコが、鵲森宮、通称森之宮神社で主催の第2回
『やまとことばの会』に参加したいとのことで森之宮に行くから、夕食を一緒に
とれるように森之宮まで来てくれ、というので、JR環状線にかなり久しぶりに
大阪駅から乗り行ってきた。

『鵲森宮の宮司石崎正明氏を囲み「やまとことば」を学ぶ会を開催いたします。』

 という主旨で行われた会であったらしいが、学ぶ、というような会ではなく、
皆さんはどう思われますか、という程度のちょっと主旨からそれた感じの会で
あったらしく、詰らなかったとのことだ。

 まあ、私15分くらい早めについたので、終わるのを待っている間、写真を
撮影。

★鵲森宮★ 大阪府大阪市中央区森之宮中央1丁目14-4

・式内社で、旧社格は県社。
・通称森之宮神社。周辺の地名である森之宮の由来。
・聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、および聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る。
・人皇三十一代用明天皇並びに穴穂部間人皇后を祭る日本唯一の神社。

 もちろん菊の御紋。産田系の自分は特に興味ない、というか嫌いな系統の
神社だ。





 その後、この近辺のラーメン屋でネット検索した九州ラーメン亀王
(道はさんで斜交い)に行ってきた。

★九州ラーメン亀王 森之宮店★
 JR環状線森ノ宮駅下車すぐ



 チャーシュがとろとろしておいしいという前評判をきき行ってきた。
 メンバーはあっしと、日本嵐先生と、パピコ大明神。
 あっしは厚厚ちゃーしゅーらーめん980円にとろ玉トッピング(130円プラス)と 豚味噌ご飯(330円)を注文した。味はまあまあおいしいと思うが、値段が多少割高だ。値段と味の関係をかんがえると、岸里の小川屋の塩ラーメンや揚子江ラーメンのほうが良心的且つおいしいのでいいように思える。

 ご飯ものはあと120円ほど下げて欲しいものだ。

 ちなみに、チャーシューをとろとろと言いたいならば、もっと煮込んでくれ。



 味評価

 ★★★★★★★★☆☆  8/10点

 下は、M子師匠の頼んだ醤油ラーメン。スープを飲んだ限り・・・

 6/10 点?



2008年2月20日 難波

2008-02-20 22:07:01 | 近畿(大阪)
 夕食に金龍ラーメンにM子師匠と出かけた。

 地下鉄御堂筋線で行くと大阪難波の道頓堀のひっかけ橋に行く途中にある。

 有名ということで行ってみた。



 チャーシュー麺食べました。

 個人的な評価は

 ★★★★★★☆☆☆☆  6/10くらいかな。

 ついでに近辺の写真も!






2007年11月18日 1 阿弖流爲・母禮首塚

2008-01-21 20:54:09 | 近畿(大阪)
((行き先))

 1.阿弖流爲・母禮首塚 → 2.片埜神社

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 実はこの前日17日に京都へ紅葉を見に行っていた。その記事は多分昨年
に書いたが・・・ そのときに実は清水寺のライトアップにも行ったのだ
が、そこには阿弖流爲と母禮の碑がある。
 その関係かどうかは知らないが、家に帰ったあと、疲れて眠っていると
きに使者がやってきたのだ。古代の装束を着ている男が大魔神のような形相
でうちのドアを叩くのである。何か不穏なものを感じ、開けたら負けだ、
と思い、ドアの前で対峙していたら彼はいなくなった。そしてこの18日の
朝にM子師匠にふと話すとそのあと彼は彼女のところに行ったのだとか・・・

 まあ、よくはわからないが、阿弖流爲というのがキーワードになったよ
うで、Wikipediaで検索し首塚を見つけ行くこととなった・・・京阪牧野駅
の近くにある河内國一之宮を自称する(本来は、おそらく交野一之宮)
片埜神社にあるということであったので行った。

 首塚は、神社の横の公園の中にさびしくあった・・・ 少年野球をして
いる子供たちがいたが、阿弖流爲や母禮のことなど知る由もなかろう。

 まずは、阿弖流爲と母禮の塚の碑。




 そして、その木の根元に首塚があった・・・



 コンクリートも割れ寂しいものだが、それでも花を活けてくださる人もいる。

 M子師匠はここで写真を撮ってくれというので、撮った・・・



 以後このジーンズを穿いている姿を見たことはない。


 ちなみに、阿弖流爲と母禮。

 桓武天皇の御世、大和朝廷は今の東北地方を侵略途中にあった。
 有名な征夷大将軍坂上田村麻呂が東北侵略の任務についていたときの蝦夷
といわれた本当のこの日本の先住民のであった民の棟梁の一人が阿弖流爲で
あった。そして、母禮はその副将であったといわれる。10年近く戦うも田村麻呂
たちも確実な勝利を収めることができず、じりじりと寄せながらも勝負のつか
ない年月が続いていた。あるとき、戦の為に傷んでいく土地を見、そこに住む
民を見て、決して敗北していたわけではないのにもかかわらず、東北の地を
これ以上傷つけないために、と田村麻呂の下に投降する覚悟をしたのである。
そして、母禮もそれに従った。田村麻呂も立派な人で有名で、彼も決して勝利
を収めた上での捕虜ではないのを知っていたが為に、阿弖流爲と母禮の命をど
うしても助けたかったのだ。ゆえに、懸命の助命嘆願を行ったと聞く。しかし、
恥ずかしいことに我が先祖桓武天皇とその周りの公卿たちはよほど度量が狭い
のか、心にゆとりがないものの集まりであったのか、人の心を解せぬゆえに
この二人の北の大地の勇者を斬罪に処すことを決めたのである。田村麻呂公
はさぞかし無念であったであろうと思う。その彼が、二人を河内の国へ連れ
て行き、斬ることになったとき、彼はどのように伝えたのであろうか。三人の
無念が伝わってくるようである。

2007年5月15日 大阪8

2008-01-05 03:15:33 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.適塾跡 ⇒ 2.御霊神社 ⇒ 3.坐摩神社 

⇒ 4.難波神社

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 この日最後の目的地、難波神社。会社員たちが影で休憩している。興味
ぶかいな。




 おっちゃん面白い・・・



 難波神社も坐摩神社や湊川神社のような社殿でいまいちだ。
 やはりわしは木造が好きだ。なぜこのような社殿にしたのだ?


 祭神 ご祭神 仁徳天皇
    配 祀 素盞嗚尊

 反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮(しばがきのみや)を開かれたとき、
父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正
年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)第二次世界大
戦大阪空襲により全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年7
月(1974年)再建され現在に至る。



 末社 十四柱相殿神社

 以前は、数社に分れてお祭りしてあったようですが、火災、模様替え
等により、末社の移転、併合が行なわれたようで、1888年(明治21
年)に鉾蔭(ほこかげ)神社、安邦(やすくに)神社の祭神を六柱相殿
神社へ合祀、十四柱相殿神社と改称しました。



 末社  金刀比羅神社

 もとは堀江のお旅所の東南隅にお祭りしてありました。由緒は不詳で
すが、江戸時代の創建当初に祭られたものと思われます。



 摂社  博労稲荷神社

 浪速の町が栄えるに従って、船場の商家の中心となり、いなりへの信
仰があつく、古い記録にも、当神社のことを「稲荷社」「稲荷宮」とし
てあるものもあります。

   引用 http://www.nanba-jinja.or.jp/

 そして、面白いネタのような絵馬の願い事!



 そして、この日のたびは終わった。

2007年5月15日 大阪7

2008-01-05 02:37:10 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.適塾跡 ⇒ 2.御霊神社 ⇒ 3.坐摩神社 

⇒ 4.難波神社

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 坐摩神社境内に火防陶器神社というものがある。少しユニーク
である。個人的には神社とは思わないが。




 祭神は大陶祇神、迦具突智神。
 

2007年5月15日 大阪6

2008-01-05 02:19:47 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.適塾跡 ⇒ 2.御霊神社 ⇒ 3.坐摩神社 

⇒ 4.難波神社

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 御堂筋を南下して目的地攝津國一之宮坐摩神社到着。名前は
「いかすり」神社と読むらしい。

 まずは、大小3つの鳥居が合わさって珍しい三鳥居。



 ほかにもあるタイプの鳥居なのか?全国でここだけなのか?
 まあ、変わっている事に違いはない。





 拝殿は湊川神社と同様で木造ではないので色気がない。とい
うか、好きではないな。神社でないようだ。



 なんか本殿も今いち・・・


★★坐摩神社★★

・式内社、旧社格は官幣中社。近世以降に摂津国一宮を称している。
・住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰
・社紋は白鷺。最終の神階は従五位下(結構低い)。
・祭神:五柱を総称して「坐摩神」

   生井神…井水の神(生命力のある井戸水の神)
   福井神…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
   綱長井神…井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、
     深く清らかな井戸水の神)
   波比祇神…竃神(屋敷神。庭の神)
   阿須波神…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)

・宮司の渡辺氏は都下国造の末裔でもあり、滝口武者の嵯峨源氏
 の流れを汲むともいわれる。
・神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神
 を祀ったことに始まるという。



2007年5月15日 大阪5

2007-12-24 06:43:51 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.適塾跡 ⇒ 2.御霊神社 ⇒ 3.坐摩神社 

⇒ 4.難波神社

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 御堂筋の語源となった北御堂こと本願寺津村別院。




2007年5月15日 大阪4

2007-12-15 12:39:47 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.適塾跡 ⇒ 2.御霊神社 ⇒ 3.坐摩神社 

⇒ 4.難波神社

+++++++++++++++++++++++++++++

 適塾跡を去ったあと、基本的に南方へ歩いていく予定にしてい
たので、まずは近くの御霊神社へといった。ちょうど昼飯時だっ
たので境内では弁当を食べてる若い男女が多かった。



 この鳥居の脇には・・・



 文楽座か・・・・ 大阪やなあ、と思ってしまう。

 そして中に入る。




 こんな感じかな。

 一応由緒などは下の通り。

・祭神  天照大神荒魂(瀬織津比売神)
     津布良彦命(旧摂津国津村郷産土神)
     津布良媛命(   同  上   )
     応神天皇(広幡八幡大神)
     源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)
・圓江(つぶらえ:現在の靱)にあった圓神祠が創起 
・文禄三年(1594年)に、石州津和野藩主亀井茲矩が邸宅を
 割いて寄進し、圓江から現在地の北船場に移され、寛文年中に
 御霊神社と改称された
・商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬はもとより、山片蟠
 桃、緒方洪庵、福沢諭吉を始め、懐徳堂や適塾の塾生もよく参
 拝したらしい
・1926年に境内の浄瑠璃文楽座が出火し、本殿に類焼
・1930年に再建されたが、1945年の空襲により、全て炎上した
・現在の社殿は1957年の再興。

 さて、ということで、また移動すると・・・・
 面白いものがあった。



 今は普通の街中の川も無いところですが、水の都といわれただけあり
橋の跡ですな。

 では、次は摂津国一ノ宮の一つ坐摩神社を目指して移動。


2007年12月2日 10 夜の王子と晴明

2007-12-05 22:40:34 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.紹鴎の森天満宮 → 2.安倍晴明神社 → 3.阿倍王子神社

→ 4.股ヶ池明神 → 5.融通念仏宗総本山 大念仏寺 → 6.杭全神社

→ 7.阿倍王子神社 → 8.安倍晴明神社

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 最後は夜の阿倍王子神社と安倍晴明神社。




2007年12月2日 9 杭全神社②

2007-12-05 22:28:18 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.紹鴎の森天満宮 → 2.安倍晴明神社 → 3.阿倍王子神社

→ 4.股ヶ池明神 → 5.融通念仏宗総本山 大念仏寺 → 6.杭全神社

→ 7.阿倍王子神社 → 8.安倍晴明神社

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 大門を越えると正面に拝殿あります。



 もう、社務所の方々も帰りの用意をされていたのでそそくさと写真を撮るだけ
になってしまった。



 イチョウはきれいでしたね。暗かったけど。



 これは本殿前の門です。この日はこれだけしか撮れませんでした。



 こちらは、祖霊社、田村神社。坂上田村麻呂に縁があるみたいなのでその田村
かな?



 これは、恵比寿神社です。暗かったので全てぶれていて申し訳ない。



 そして、もう一度正面から拝殿を見て、ここを去ることに・・・・

 最後は参道入り口の払い戸?


2007年12月2日 8 杭全神社①

2007-12-05 22:21:09 | 近畿(大阪)
((ルート))

 1.紹鴎の森天満宮 → 2.安倍晴明神社 → 3.阿倍王子神社

→ 4.股ヶ池明神 → 5.融通念仏宗総本山 大念仏寺 → 6.杭全神社

→ 7.阿倍王子神社 → 8.安倍晴明神社

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 旧大阪府社の杭全神社。JR平野駅の近くに鎮座。
 時々、25号線を車で走るとき気になっていた鳥居のあったところだ。古き
神社だそうだ。大阪に来て2年9ヶ月で初めて行った。



 後ろに見えるのは平野小学校。古河藩陣屋跡があったところ。

 ここにある説明によると、神殿は3つあり、第三殿は十二世紀、第二殿は十四
世紀に後醍醐天皇の勅命で勧請されたらしく、さらに第一殿は、正徳元年
(1711)に奈良春日大社本殿を移建したものだそうだ。明治三年に杭全神社
という名になったらしい。



 これは、末社になるのか宇賀神社だ。弁財天ですな。

 そして、鎌倉時代に作られた大門。



 そんな古いとは思いませんでした。