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熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

フォトはクリックすると大きくなります。

2008年4月30日 心斎橋

2008-04-30 23:00:01 | 近畿(大阪)
 この日はM子師匠とブレスレット様の石を買いに心斎橋駅に行き南船場周辺を彷徨った。そのときにある碑を発見。以下のものだ。

 
 

 『橋本宗吉絲漢堂跡』というもの。
 大阪蘭学の祖といわれる橋本宗吉によっておこされたという。

 その後、石屋に到着し、いくつかの石を自分用にも買った。

 そして、帰宅後、M子師匠に作ってあげた第一号がこれ。

 デザインがイマイチに思うがどう?



 
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2007年3月17日 大阪の旅 13 大阪の名所?

2007-07-28 02:42:49 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 閉まっていた事もあり本当に通りすがっただけのところ。

 赤穂浪士に関係があるそうです。




 そしてこの日は終わった・・・・
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2007年3月17日 大阪の旅 12 大江神社

2007-07-28 02:41:11 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 愛染坂の横にあるのが大江神社。
 虎マニアは知っているだろう。






 そして、狛寅がある。これゆえに、ここは阪神ファンの聖地ともいわれているのだ。

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2007年3月17日 大阪の旅 11 愛染坂

2007-07-28 02:34:44 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 愛染坂からの美しき夕陽です。
 カメラを構えている人がおり、夕陽のシャッターチャンスを待っていたようですな。

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2007年3月17日 大阪の旅 10 愛染堂

2007-07-28 02:32:34 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 こちらは、星光学院の近くにある愛染堂。もう遅くてしまっていたので門の写真のみ!


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2007年3月17日 大阪の旅 9 清水坂

2007-07-28 02:30:09 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 ミッシーさんの話によればこの付近は夕陽が美しくて有名らしい。

 それゆえに夕陽丘と言う名がついたのだそうだ。


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2007年3月17日 大阪の旅 8 堀越神社

2007-07-05 02:10:54 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他



 そして、堀越神社・・・・
 多分、前も記事を書いたので写真だけにしまふ。







 ということでふ。
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2007年3月17日 大阪の旅 7 淋しき寺

2007-07-05 01:57:16 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


通りすがりの淋しい寺

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2007年3月17日 大阪の旅 6 松虫塚

2007-07-05 01:54:32 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


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2007年3月17日 大阪の旅 5 北畠~天王寺

2007-06-17 23:35:20 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 さて、次は安倍晴明神社。
漫画「陰陽師」のヒットで、京都だけでなくこちらにもたくさん客が来られたことだろう・・・・






 正面は、ミッシー師匠です。結構健脚なので、京都なんかは歩きまわってよく教えてもらってます。




 社務所に老女がいただけで人もいない寂しい感じでした。



 これは、安倍晴明誕生地の碑です。
 そのすぐ横は、「産湯井」のあったとこだそうですねえ。



 さらにその横には、母君の白狐さまの像かな・・・



 そして最後は、本人の銅像。



 まあ、似てないんだろうけどね・・・・
 顔わかんないしねえ。
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2007年3月17日 大阪の旅 4 北畠~天王寺

2007-06-17 22:14:34 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他


 阿倍王子神社の本殿の右脇にはなんと・・・・ 八咫烏・・・・
 熊野詣などの関係ですかな。




 そして、参道の木々。



 多分こちらが表参道なんだろうな・・・・ 裏から入った形になる。

 そして、鳥居。



 ここを出て少し北に行くと、安倍晴明神社だ。
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2007年3月17日 大阪の旅 3 北畠~天王寺

2007-06-17 22:03:53 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社
 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他

 北畠公園のあとは、阿倍王子神社神社。みっしーさんの祖父母がこの近くに住んでられたそうで、何度かきたことがあるとのことでした。





 一眼レフのカメラ使用二度目のために、かなり厳しかった・・・


(引用 http://abeouji.tonosama.jp/)

「御由緒」
 
当神社の縁起絵巻「摂州東成郡阿倍権現縁記」によれば、当社は
仁徳天皇によって創建され、平安時代の初期天長3年(826)
弘法大師が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷を修
して功なり、痾免寺(通阿倍)の勅額を賜ったといわれます。仁
徳天皇創建はともかくとして、平安時代初期には当社は存在した
と思われます。
阿倍野は古代の豪族阿部氏の居住した土地で、奈良時代には氏寺
として阿部寺があり、口碑に「阿部寺千軒坊」と伝える程の大寺
でした。(旧跡は松崎町2丁目松崎町モータープール及び近くに
鎮座の松長神社辺りです)氏寺が有った以上氏神も当然有った訳
で、それが当社の元宮であったと考えられます。
ところが平安時代になると、阿部氏が他所へ移住してしまい、阿
部寺も四天王寺に併合される中、熊野信仰が盛んとなり、当社が
熊野街道(当社の西門筋)の途中に位置していたので、熊野王子
社と成った訳です。
また当社は四天王寺と住吉大社との丁度中間に有り、王子社の立
地には相応しいお宮でした。熊野詣は平安時代から盛んと成り、
「蟻の熊野詣」といわれて室町時代頃まで続きました。途中の街
道には熊野九十九王子と呼ばれた沢山の王子社が出来ました。
「王子」とは熊野三山(本宮、新宮、那智大社)の末社という意
味で、京都から摂津、和泉を経て、熊野に至る街道の途中に、休
憩と遥拝の為に設けられたお宮で、土地の名前を付けて「○○王
子」と呼ばれ、当社は阿倍野王子と呼ばれました。
鎌倉時代の歌人藤原定家の日記「名月記」建仁元年(1201)
の「後鳥羽院熊野御幸記」にはクホ津王子、坂口王子、コウト王
子の次に阿倍野王子と見えています。王子社は元からの古いお宮
に熊野神を合祀したり、また新しく創建された場合もありますが、
(例、大鳥居新王子)当社は前者に当ります。また当社は第4番
目で有ったのに、後世第二王子と呼ばれるのは、南北朝時代の戦
乱で途中の王子社が焼失してしまい、安土桃山時代には第2番目
の王子社と成っていた訳で、江戸時代の「蘆分船」(あしわけぶ
ね)等の書物には、当社が熊野第二王子社として見えています。
王子社の中には、熊野信仰の衰退と共に退転してしまったお宮も
有りますが、幸い当社は中世以降阿倍野村の氏神として信仰され、
現在に至っており、大阪府下では唯一の旧地現存の王子社として
栄えています。

「御祭神」

本殿祭神(主祭神)


 ☆ 伊邪那岐命(イザナギノミコト)

☆ 伊邪那美命(イザナミノミコト)

    ☆ 速素盞鳴命(ハヤスサノオノミコト)  

  ☆  品陀別命 (ホンダワケノミコト) 
「八幡大神・応神天皇」

(品陀別命以外の3柱は元来の熊野王子神。
品陀別命は明治40年に元東区安土町3丁目鎮座の男山八幡宮より合祀した祭神です)
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2007年3月17日 大阪の旅 2 北畠~天王寺

2007-06-16 11:02:15 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他

 元々、北畠公園に北畠顕家さんの墓があるのは知らなかったのです。



 偶然この写真の石碑を見つけたのでいってみたら、なんと・・・・ もちろん行くことにしました・・・・ なるほど、地名の由来か????




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ、文保2年(1318年) - 延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日))は、南北朝時代の公家である。北畠親房の長男。弟に北畠顕信、北畠顕能。子に北畠顕成(後に村上師清と名乗り、村上水軍の祖となる)。北畠家は村上源氏の庶流。

 ⇒ 南朝や後南朝の戦力は水軍だったと聞きますが、北畠が村上水軍
  の祖だったとはものすごく驚きですね。知りませんでしたが、勉強
  になりましたわ。村上は「村上天皇」から取ったものですかね?

父の親房は、後の「三房」の1人として後醍醐天皇に近侍し、1333年(元弘3年/正慶2年)から開始された建武の新政を補佐していた。

顕家はこの年に従三位陸奥守となる。翌1334年(建武元年)、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に下向し、東北地方経営を始める。同年、従二位に叙任し、1335年(建武2年)鎮守府将軍に任ぜられる。

同年、足利尊氏軍が鎌倉にて建武政権に反旗を翻し、京都へ迫ったため、顕家は12月、奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京し、これを新田義貞、楠木正成とともに破り、京より追い出す。翌1336年(建武3年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる。

3月、権中納言に任官、蜂起した足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。1337年(延元2年/建武4年)には足利方に多賀城を攻略されるが、この時は顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移していたため難を逃れる。

1338年(延元3年/建武5年)5月、再び西上して足利方と戦い、義良親王を奉じて鎌倉を攻略する。美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で足利方に勝利したものの、兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め伊勢に後退、伊勢から伊賀に進出したものの奥州から従軍していた歴戦の将兵は疲労や怪我によって力を出せずに敗退。再起を期して和泉国堺浦石津で兵を挙げるが予定していたよりも援軍の到着が遅かった為に高師直軍との戦いでは劣勢に置かれ奮戦するものの戦死した。享年21。死の前に後醍醐に対して新政の失敗を諌める奏上文(顕家諫奏)を残した。

顕家が戦死したとされる堺市西区の石津川沿いには供養塔が建てられている。

墓は、大阪市阿倍野区の北畠公園内にある。また阿倍野区にある阿部野神社は北畠顕家を祀っている。 更に、顕家が陸奥国府を築いた霊山には霊山神社が建てられ、顕家親子らを祀っている。

ちなみに、武田信玄よりも先に風林火山の旗印を用いたことでも有名である。

 ⇒ 若いのにしっかりされた方だったことが伺えるな。 いま
  の二十歳のやつは本当ガキだ。素晴らしいな。同時代に生ま
  れていたら、ものすごく気があったかもしれないや。多分、
  わしも熊野水軍の一手の将くらいにはなっていたろうし。し
  かし、風林火山、あんたもか!!

 最後に、彼の墓です。

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2007年3月17日 大阪の旅 1 北畠~天王寺 

2007-06-16 10:42:05 | 近畿(大阪)
(基本ルート)

 玅琳坊 ⇒ 雪草庵 ⇒ 北畠公園(北畠顕家墓) ⇒ 阿倍王子神社 
⇒ 安倍晴明神社 ⇒ 松虫塚 ⇒ 堀越神社 ⇒ 大江神社 その他



 この日は久しぶりに歴史散策フレンドのミッシーさんと出かけた。
 ぎっくり腰らしく、あのたくましい彼女も少し緩めでお願いします、と言うことであったので、軽く北畠から天王寺周辺に散策コースを設定したのだった。

まずは東天下茶屋の駅だったっけ???? 



 まずは、玅琳坊と言うところの門です。

 そして・・・・



 雪草庵の門・・・・

 入れないのか。

 まあ、その後、安倍王子神社を探し歩くと北畠公園に何かを発見・・・・
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2006年7月28日 津守神社

2007-06-11 23:33:48 | 近畿(大阪)
 当時働いていたところから帰りしなに遠回りして寄って行った神社である。







 西成区観光ガイドによると・・・・

「津守新田開発の時に勧請された。初めは五所神社、五社大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治4年津守神社と改称し、同5年村社に列した。」

(所在地:西成区津守3-4)
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