((旅程))
1.高取城址
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八幡神社に参った後、一度山道を下り、次は高取山城の本丸や天守閣があったとされる方面へと進む。もう、山道に入れば、ところどころに石垣の跡が見え隠れする。相当壮大な山城であったことは想像に難くない。
今は建物がすべて破却されており全様は想像しかねるが興味深い。
こちらは壺坂口中門跡。どのような門であったのだろ。
ここは、城壁があったのだろうか・・・
さらにしばらく進めば大手門跡に到る。
建物が無いのは、しかし悲しいものだな。
さらに奥の門跡が続く・・・
大手門跡を過ぎると石垣がはっきりと見えてきて、建物があったであろう部分が明らかに見えてくる。まずは、十五間多門および櫓跡。
こちらは、櫓跡に上って撮った写真のように思う。写真ではわかるぬが、石垣に雪がかぶさり美しい。
櫓を過ぎると高取城の石碑があるところへ到着する。たぶん、ここは二の丸だろう。
せっかくなので石碑前で写真を撮る。
おお、二重顎・・・ 太ったものだ。ううう・・・
痩せるべし。
そして鬼軍曹M子師匠。
さらに横には歌碑もある。
土佐は高取町の地名。この歌は白亜の城高取を歌ってるものであるのだ。さぞかし美しかったんであろ。
本丸跡を目指す。
ここを越えると本丸跡(のはず)。
今は建物が無いので見晴らしが悪いが昔は建物があったのでなかなかの景色だったのかもしれない。
本丸はこのような感じ。夕方であったのと、あえて撮影モードでホワイトバランスを変えているために寂しげだが・・・
つぎに、天守閣跡。あまり大きくない天守閣であったようだ。天守閣跡で石垣を見ていると、当時の通路の形などが想像できるのでなんとなく少しは城を想像できるような気がする。
ここで、再び、M子師匠。
さらに、天守閣跡にのぼり、飛び降り自殺を企てようとしているM子師匠。
無事、命は救った。
そして、それがし。
下山。
★高取城跡★
奈良県高市郡高取町大字高取
・名は高取山城もしくは高取城。通称芙蓉城、鷹取城。
・日本三大山城のひとつといわれる、が日本一の山城といっても過言ではない。
・南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘二年/正慶元年、(1332)に築城したのが始まり。鎌倉幕府滅亡前年ゆえに、南朝方というよりは後醍醐天皇方といえる。
・元々、越智氏の本城である貝吹山城の支城であったが、越智氏の支配が長く続き、戦国時代になると越智氏の本城となったという。
・織田信長により大和国内の城は郡山城一城と定められ、天正八年(1580)、一旦は廃城となる。
・筒井順慶は信長が本能寺の変で横死の後、天正十二年(1584)、支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。
・豊臣秀長が大和郡山城に入部した後、家臣の脇坂安治、本多利久が城主となり、本多利久が新しい縄張りをもって築造を施した。
・文禄四年(1595)、豊臣秀保が十七歳で没した後、本多利久の子俊政は秀吉の直臣となり一万五千石を与えられた。秀吉没後の混乱期に俊政は徳川家康側につき慶長五年(1600)、家康の上杉景勝討伐軍に加わり不在であったため、この隙に乗じ石田三成は松倉右近を大将に城を攻めたが、俊政の従弟正広はこの要害のおかげで松倉軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ一万石の加増を受け高取藩二万五千石初代藩主となった。俊政の子の政武は寛永十四年(1637)、嗣子無く没し本多氏の支配は終焉。
・本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波國園部藩主)が城番となったが寛永十七年(1640)、旗本の植村家政が二万五千石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新まで植村氏が城主であった。
・明治二年(1869)六月、版籍奉還により兵部省の管轄となった。明治六年(1873)、廃城。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。
・子嶋寺山門は二の門が移築されたもの。
・日本一の皮膚科といわれる石川医院の門も下屋敷表門を移築といわれている。
・明治二十年(1887)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていた が人里離れた山頂であるため管理するものもなく自然崩壊した。