先日ご紹介した「二十一世紀の資本主義論」(岩井克人著、ちくま学芸文庫)を、とりあえず読み終わりましたので、いちおう感想文のようなものを書いてみたいと思います。(「とりあえず」「いちおう」「のようなもの」というところに、自信のなさが出てしまっていますが・・・。)
長短いくつかのエッセイがあるのですが、本の題名にもなっている冒頭の一番長いエッセイを取り上げてみます。
ものすごく大雑把に、順々に趣旨を書いていってみると・・・・
(「」の中は引用です。)
1991年、社会主義国の崩壊によって、地球上に「アダムスミスの時代」が到来したように見えた。だから「市場経済においては、すべてのひとが自分の利益だけを合理的に追求するだけで、価格という『見えざる手』のはたらきによって、自動的に生産と消費との均衡が実現していく」・・・・はずだった。
しかし、1997年、東アジアに端を発した金融危機がソ連、ブラジルと広がり、ついにアメリカの大手ヘッジファンドの巨額損失を引き起こしてしまった。人々は「見えざる手」が円滑にはたらかない理由は「投機活動の行き過ぎ」だと考えた。
では、投機とは何なのか。
「投機とは、安く買い、高く売ることである。じぶんで消費するものを買うのでもなく、自分で生産したものを売るのでもない。値上がりの利益のみをもとめて、市場で安く買ったモノをそのまま同じ市場で高く売るのである。」
つまり、必ずしも自分がほしいモノを買うのではなく、いかにも人々が欲しがりそうで値上がりしそうなものを買う。だから「みんなはどれを買うだろうかと予想して買う」「みんなはどれを買うと予想するだろうかと予想して買う」「「みんなはどれを買うと予想するだろうかと予想するだろうかと予想して買う」・・・・の無限の繰り返しが起こって、「実際のモノの過不足の状態から無限級数的に乖離する傾向をしめし、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそれが市場価格として成立するというだけになってしまう。」
「それはまさに『予想の無限の連鎖』のみによって支えられてしまうことになる。そのとき、市場価格は実態的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然乱高下をはじめてしまう可能性をもってしまうのである。」
また、このような市場経済のなかでは、「モノを生産することも、モノを消費することも、必然的に投機の要素をはらんでいる。」・・・・(自分の家の畑で作ったキャベツを市場で売って、隣村のおじさんが池で釣った魚を買うというような場合でも、何らかの駆け引きはありますよね。)・・・つまり、市場経済の中で生きている人間は、「意識するにせよしないにせよ、すべて市場で投機家としてふるまわざるをえないのである。」
そんな市場経済の中には、玄人スジが集まった、これまた一段と投機的な「金融市場」というものが存在している。
金融市場とは何か。
「(生産者や消費者の)時間やリスクやそれらのさまざまな組み合わせを有価証券というかたちで商品化したものを一般に金融商品とよび、その金融商品を売り買いしている市場のことを金融市場とよぶのである。」
この金融市場で玄人のみなさまが時間やリスクを売り買いすることによって、私たち生産者や消費者の経済活動がより効率的になる。
しかし同時にそれは「実体的な経済活動が必然的にふくんでしまう投機的要素を切り離して商品化し、それを実際の生産者や消費者から専門家的な投機家へと転嫁していく」ことなので、前述の「無限の予想の連鎖」の原理によって支配され、さらなるリスクと時間の犠牲が生まれてしまう。
そしてその新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Bが新たなリスクを生み、その金融商品Bによって新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Cがまた新たなリスクを生み、その金融商品Cによって新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Dが・・・・、これがいわゆるデリバティブであり、デリバティブのデリバティブであり、デリバティブのデリバティブのデリバティブ・・・・・・・・である。
このように、必然的に投機的な市場経済において、生産者と消費者と投機家の区別はなく、それぞれがそれぞれの投機をし、グローバル市場経済の中では「実際の生産や消費から二重にも三重にも隔たった抽象的で複雑な商品」が日々取り扱われているのである。
(まさにサブプライム問題の舞台です。)
そしてこういう投機的なグローバル市場経済は、なにしろ「無限の予想の連鎖」の危うさの上に成立しているので、金融危機に襲われるのは当然で必然でまったくフツーの事である。
でもそれが、人々がお金を欲する「恐慌」である限りは、グローバル市場経済というものがなくなってしまうというような事はない。人々が基軸通貨のドルを欲している限りは、ドルを媒介として存在している市場経済そのものは、ますます強固になるだけだから。
ところで、なぜドルは基軸通貨なのか。
それは人々が、今だけでなく将来にわたってもドルが基軸通貨であり続ける、と考えているからである。(貨幣が全く同じ理由で貨幣であり続けているのと同様に。)それはすでに、アメリカの国力の大きさとは何の関係もなくなっている。
なんらかの理由で、たくさんの人々がドルを手放したいと考えて世界中の為替市場でドルが売られ、ドルの価値の下落が始まり、ある時点で「ドルは下落し続ける」と誰もが考えるようになったら、ドルは基軸通貨としての信頼を失う、すなわち基軸通貨でなくなってしまう。(ドル建て貿易が不可能になった世界経済・・・・ちょっと想像がつきませんね。)
そういうドル危機はどんな時に起こり得るか。
基軸通貨の発行国であるアメリカが、お金ほしさにドルを過剰に供給し始める時である。
だから「基軸通貨国アメリカは普通の国としてふるまってはならない。」
このような「グローバル市場経済の真の危機にたいする真の解決がもしあるとすれば、それはグローバル中央銀行の設立以外にはありえない。」しかし、さすがにそれは夢物語なので、「わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そしてこの『宿命』を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。」
・・・・・以上、私が理解した限りでの大まかな内容、でした。
多分1999年ごろに書かれたエッセイだと思いますが、2007年のサブプライム問題を解説しているかのよう・・・・。
書かれている「事柄」は、ビジネスマンの方々にとっては常識なのだろうと思います。でも、それらを貫いている「理論」が、何と言うか「バッチリ抽象的」な感じなので、よく分からないけどホンモノのような気がします。(「何というか」「よく分からない」「ような気がします」のところに自信のなさが・・・・)
そしてふと昨日の新聞を見ると、アメリカの利下げの記事・・・・。
不景気より怖いドル危機・・・?でもドルの下落が一時的なもので、まだまだ将来的に基軸通貨であり続けると思われている限りは大丈夫なんですよね。
1兆ドルを越えた日本の外貨準備高、つまり「貯めこんだドル」。それ以上にあるらしい中国のドル。こういうドルの扱いにも気を使わなければならないんでしょうね。
宿命というもの、けっこうたいへん・・・・。
さて、感想文というより著作権侵害文になってしまった今日の記事ですが、次回はこれの最終章「市場経済と資本主義」をもとに、あーでもないこーでもないをやってみる予定です。
この「二十一世紀の資本主義論」には他にもたくさん短いエッセイが載っていて、ギリシャ神話になぞらえて「価値」「交換」「流通」などについて語っているものとか、アメりカという国や皇室典範について書かれているものもあります。ホント、面白いです。お勧めします。
