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ANOTHER PLANET

与太話とマンガ。ホームページへのリンクはBOOKMARKにあります。

長い長い感想文

2008年03月09日 08時32分43秒 | 本の話

 先日ご紹介した「二十一世紀の資本主義論」(岩井克人著、ちくま学芸文庫)を、とりあえず読み終わりましたので、いちおう感想文のようなものを書いてみたいと思います。(「とりあえず」「いちおう」「のようなもの」というところに、自信のなさが出てしまっていますが・・・。)

 長短いくつかのエッセイがあるのですが、本の題名にもなっている冒頭の一番長いエッセイを取り上げてみます。

 ものすごく大雑把に、順々に趣旨を書いていってみると・・・・

 (「」の中は引用です。)
 1991年、社会主義国の崩壊によって、地球上に「アダムスミスの時代」が到来したように見えた。だから「市場経済においては、すべてのひとが自分の利益だけを合理的に追求するだけで、価格という『見えざる手』のはたらきによって、自動的に生産と消費との均衡が実現していく」・・・・はずだった。
 しかし、1997年、東アジアに端を発した金融危機がソ連、ブラジルと広がり、ついにアメリカの大手ヘッジファンドの巨額損失を引き起こしてしまった。人々は「見えざる手」が円滑にはたらかない理由は「投機活動の行き過ぎ」だと考えた。
 では、投機とは何なのか。
 「投機とは、安く買い、高く売ることである。じぶんで消費するものを買うのでもなく、自分で生産したものを売るのでもない。値上がりの利益のみをもとめて、市場で安く買ったモノをそのまま同じ市場で高く売るのである。」
 つまり、必ずしも自分がほしいモノを買うのではなく、いかにも人々が欲しがりそうで値上がりしそうなものを買う。だから「みんなはどれを買うだろうかと予想して買う」「みんなはどれを買うと予想するだろうかと予想して買う」「「みんなはどれを買うと予想するだろうかと予想するだろうかと予想して買う」・・・・の無限の繰り返しが起こって、「実際のモノの過不足の状態から無限級数的に乖離する傾向をしめし、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそれが市場価格として成立するというだけになってしまう。」
 「それはまさに『予想の無限の連鎖』のみによって支えられてしまうことになる。そのとき、市場価格は実態的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然乱高下をはじめてしまう可能性をもってしまうのである。」
 また、このような市場経済のなかでは、「モノを生産することも、モノを消費することも、必然的に投機の要素をはらんでいる。」・・・・(自分の家の畑で作ったキャベツを市場で売って、隣村のおじさんが池で釣った魚を買うというような場合でも、何らかの駆け引きはありますよね。)・・・つまり、市場経済の中で生きている人間は、「意識するにせよしないにせよ、すべて市場で投機家としてふるまわざるをえないのである。」
 そんな市場経済の中には、玄人スジが集まった、これまた一段と投機的な「金融市場」というものが存在している。
 金融市場とは何か。
 「(生産者や消費者の)時間やリスクやそれらのさまざまな組み合わせを有価証券というかたちで商品化したものを一般に金融商品とよび、その金融商品を売り買いしている市場のことを金融市場とよぶのである。」
 この金融市場で玄人のみなさまが時間やリスクを売り買いすることによって、私たち生産者や消費者の経済活動がより効率的になる。
 しかし同時にそれは「実体的な経済活動が必然的にふくんでしまう投機的要素を切り離して商品化し、それを実際の生産者や消費者から専門家的な投機家へと転嫁していく」ことなので、前述の「無限の予想の連鎖」の原理によって支配され、さらなるリスクと時間の犠牲が生まれてしまう。
 そしてその新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Bが新たなリスクを生み、その金融商品Bによって新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Cがまた新たなリスクを生み、その金融商品Cによって新たに生じたリスクを回避するために開発された金融商品Dが・・・・、これがいわゆるデリバティブであり、デリバティブのデリバティブであり、デリバティブのデリバティブのデリバティブ・・・・・・・・である。
 このように、必然的に投機的な市場経済において、生産者と消費者と投機家の区別はなく、それぞれがそれぞれの投機をし、グローバル市場経済の中では「実際の生産や消費から二重にも三重にも隔たった抽象的で複雑な商品」が日々取り扱われているのである。
 (まさにサブプライム問題の舞台です。)
 そしてこういう投機的なグローバル市場経済は、なにしろ「無限の予想の連鎖」の危うさの上に成立しているので、金融危機に襲われるのは当然で必然でまったくフツーの事である。
 でもそれが、人々がお金を欲する「恐慌」である限りは、グローバル市場経済というものがなくなってしまうというような事はない。人々が基軸通貨のドルを欲している限りは、ドルを媒介として存在している市場経済そのものは、ますます強固になるだけだから。
 ところで、なぜドルは基軸通貨なのか。
 それは人々が、今だけでなく将来にわたってもドルが基軸通貨であり続ける、と考えているからである。(貨幣が全く同じ理由で貨幣であり続けているのと同様に。)それはすでに、アメリカの国力の大きさとは何の関係もなくなっている。
 なんらかの理由で、たくさんの人々がドルを手放したいと考えて世界中の為替市場でドルが売られ、ドルの価値の下落が始まり、ある時点で「ドルは下落し続ける」と誰もが考えるようになったら、ドルは基軸通貨としての信頼を失う、すなわち基軸通貨でなくなってしまう。(ドル建て貿易が不可能になった世界経済・・・・ちょっと想像がつきませんね。)
 そういうドル危機はどんな時に起こり得るか。
 基軸通貨の発行国であるアメリカが、お金ほしさにドルを過剰に供給し始める時である。
 だから「基軸通貨国アメリカは普通の国としてふるまってはならない。」
 このような「グローバル市場経済の真の危機にたいする真の解決がもしあるとすれば、それはグローバル中央銀行の設立以外にはありえない。」しかし、さすがにそれは夢物語なので、「わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そしてこの『宿命』を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。」


・・・・・以上、私が理解した限りでの大まかな内容、でした。

 多分1999年ごろに書かれたエッセイだと思いますが、2007年のサブプライム問題を解説しているかのよう・・・・。
 書かれている「事柄」は、ビジネスマンの方々にとっては常識なのだろうと思います。でも、それらを貫いている「理論」が、何と言うか「バッチリ抽象的」な感じなので、よく分からないけどホンモノのような気がします。(「何というか」「よく分からない」「ような気がします」のところに自信のなさが・・・・)

 そしてふと昨日の新聞を見ると、アメリカの利下げの記事・・・・。
 不景気より怖いドル危機・・・?でもドルの下落が一時的なもので、まだまだ将来的に基軸通貨であり続けると思われている限りは大丈夫なんですよね。
 1兆ドルを越えた日本の外貨準備高、つまり「貯めこんだドル」。それ以上にあるらしい中国のドル。こういうドルの扱いにも気を使わなければならないんでしょうね。
 宿命というもの、けっこうたいへん・・・・。



 さて、感想文というより著作権侵害文になってしまった今日の記事ですが、次回はこれの最終章「市場経済と資本主義」をもとに、あーでもないこーでもないをやってみる予定です。

 この「二十一世紀の資本主義論」には他にもたくさん短いエッセイが載っていて、ギリシャ神話になぞらえて「価値」「交換」「流通」などについて語っているものとか、アメりカという国や皇室典範について書かれているものもあります。ホント、面白いです。お勧めします。


 
 
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十三妹(シイサンメイ)

2008年02月18日 22時37分55秒 | 本の話

 久しぶりの本の話は、武田泰淳の「十三妹(シイサンメイ)」です。
 キャッチコピーは「日本人によって書かれた中国武侠小説の先駆」。表紙の絵は中国の時代劇に出てきそうな着物を着た美少女です。コンピューターゲームによくあるような写実的な劇画調で、鎧らしきものをつけ、刀を携えています。「お約束」の子供っぽい顔立ちは、小説を読んだ時の主人公(十三妹)のイメージとはちょっと違ってますけど、適度にマンガっぽくて悪くないです。
 武田泰淳って、「ひかりごけ」他少々しか読んだことがなかったのですが、こんなにユーモアのセンスのある人だったとは知りませんでした。
 「十三妹」は1960年代に朝日新聞に連載された小説だったそうですが、あまり評判にならなかったために続編が書かれなかったのだそうです。解説者の言うように、「おもしろさが読者に分かってもらえない時代だった」のかもしれません。21世紀にこれを文庫本で出版しようと考えた人の「お目の高さ」に感謝しなければ。

 ストーリーは、武芸の達人で絶世の美女の十三妹(シイサンメイ)が、悪い奴らの首をチョキチョキ切りまくりながら夫の貴公子を助け、また、同じくらいスーパー忍者の白玉堂と、戦いつつ惹かれ合いつつ、時の権力者同士の抗争に巻き込まれて行くというものです。いくつかの有名な中国の武侠小説の古典を取り混ぜた「パスティーシュ的リライト作品」なのだそうです。ホントに全く冒険活劇なのに、何となく「厚み」を感じさせるのは、下敷きにされている古典の力なのかもしれません。
 さすが、本物の小説家の手になるものだわい・・・(←「実はすごい忍者の、貧乏な老学者」になってつぶやいてみました。)

 主人公のスーパーマンぶりに対して、皮肉でユーモラスな「コメント」をしょっちゅう挟み込むのは、今流行の「自分でつっこみを入れる」手法ですけど、1960年代の朝日の読者にはウケなかったんですね。続編が書かれなかったのがすごく残念です。続編で登場人物の人間関係と思想が、ぐっと深まりそうな気配だったのに・・・。


 
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占領期の小説

2008年01月03日 20時28分30秒 | 本の話


「戦後占領期短編小説コレクション」その①(藤原書店)は、期待以上のおもしろさでした。
 このコレクションは7巻まであるのですが、暮れに①だけ買って読んで、今日は本屋の仕事始めを待って②と③を買いました。

 戦後占領期と聞くと、どうしても暗くてシリアスな私小説を想像してしまいますけど、このコレクションは「趣味の良い編集者が選びに選んだ短篇ばかり」と言えそうなラインナップで、ひとつひとつが個性的で充実しています。ジメジメした湿気やベタつきはありません。

 最初に載っている平林たい子のホントにそのまんまみたいな日記もいい味わいだし、織田作之助、永井龍男、田村泰次郎、豊島与志雄、八木義徳・・・って、全部読んだ事が無かったのですが、なかなか良かったです。
 私が一番気に入ったのは、井伏鱒二の「追剥の話」でした。村の衆が集まって追剥ぎ対策を話し合うはずが、めいめいの勝手な四方山話になっていってしまう「寄り合い」の雰囲気が、朴訥としていてなんとも言えません。
 戦争でうまくやった自作農の木元氏が、あたりさわりのない追剥ぎ退治の話をしたついでにさり気なく「東京の帝国大学に行っておる倅」の自慢をして話を終えた後、戦争で財産を失くした丈吉老人は、追剥ぎの話はそっちのけで木元氏の戦争中の欺瞞をあばきたてます。 「新しい言葉をよく識っていて、よく喋るという評判の」29歳の戦争未亡人は、「私たち女性は、少なくとも私は、戦争中に形式に嵌められた日常生活を送っていましたので、今急に敗戦後の現実に直面いたしまして、東洋的な諦めに徹するにも・・・(略)・・・敗戦後の厳然たる現実と、反動現象的現在の在り方と、一方またジャズ的政論氾濫的現在の在り方と・・・」という調子です。
 いちばん面白かったのは、「藪坂の本庄退一」という復員兵士で、いろいろと追剥ぎの話をした後で「このごろ復員者によく追剥ぎの疑いがかけられるので、儂は復員者でありますけに、これからは夜は当分外出せぬことにするものでありますが、儂は明日見合いをして・・・(略)・・・女房をもらったから夜も昼も女房のそばにおるのだと思わんようにしてもらいたいのであります。・・・(略)・・・当分のうちは夜は儂を呼び出さんぬようにしてもらいたいと思うのであります。」となって行きます。
 井伏鱒二は詩集しか読んだことがありませんでしたが、さっそく「多甚古村」を読んでみようと思いました。

 ジ~ンと感動してしまったのは、最後に載っていた八木義徳の「母子鎮魂」です。夫婦の不和が解決しないまま主人公が出征していた間に、空襲で死んでしまった妻と子に対する独白体の小説ですが、1948年でなければ書けなかった小説であると同時に、テーマは「戦争」を超えていると思いました。

 巻末の小沢信夫氏の解説も、型どおりではなくてすごく面白いです。HPにも抜粋が出ていますので、ぜひ読んでみてください。

 それにしても、藤原書店という出版社は、わが道を行きつつしっかり売っているような感じで、感心してしまいます。この「戦後占領期~~」シリーズなんかは、この出版社の本としては軟派中の軟派で、他は「マルクスの亡霊たち」とか「実践理性」とかいう題名の本ばっかりです。
 そして、さらに、このシリーズを全巻置いてあった本屋のレジでは、「皇室写真集」のカレンダーを売っていました。
 みんな、しぶとい・・・・・ですね。

 さて、もう今日は晩酌で酔っ払ってしまいましたので、「戦後占領期~~」と一緒に買った岩井志麻子の「歌舞伎町怪談」を読むことにします♪「志麻子のしびれフグ日記」として小説宝石連載時代から大きな波紋を呼んだジェットコースター・エッセイ・・・・なのだそうです。

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夜と朝と無生物のあいだ

2007年10月24日 21時36分49秒 | 本の話

 このあいだ私も遅ればせながら、今話題の「生物と無生物の間」を読んで見ました。
 すごく面白かったですし、いろいろ考えさせられるし、とてもいい本だと思います。(最初に本屋の店頭で見かけた時は「いかにも売れそうな題名だな~」とヘンに勘ぐってしまって、わざと買わなかったのですが、その後あまりにも良い評判ばかり聞こえてくるので、「アマノジャクしてないで読んでみよう。」という気になりました。)
 私には、「原子レベルで見て、どうして人間はそんなに大きいのか」という問いに対する答えというのが面白かったです。
 それは「原子は勝手に無作為に動いているだけなので、大半の原子が法則通りに動いている場合でも、必ず数パーセントの原子はそれとは違う、または正反対の動きをしている。全体が大きくなればなるほど、例外の影響は少なくなる。」だいたいこういうような説明だったと思いますが、いつもファシズムに対して警戒おさおさ怠りないKobantoとしては、人間社会にまで枠を広げて考えてみたくなる印象的な仮説でした。

 でも、この本の中で一番好きだったのは、最初の方の、アメリカの研究所とそこでの生活の思い出を綴った叙情的な文章です。雰囲気が「悲しき熱帯」の冒頭部分(木立の中の図書館、壁のスクリーンに映し出される途切れ途切れの8ミリフィルムの映像にじっと見入っている研究者たち、スクリーンには熱帯の未知の部族の映像が・・・・。何十年も前に一度読んだきりの本について確認もせずに書いていますので、全くの記憶違いの可能性があります。すみません。)にそっくり・・・と思った方は多いのではないでしょうか。
 「レヴィ・ストロースの思想のほうはカイモクだけど、『悲しき熱帯』はよかったな~」という私のようなタイプの読者の方々は、まずあの冒頭部分のセンチメンタルな雰囲気に胸を締め付けれられ、その勢いで、メインの熱帯の部族の研究の方も「渾身のルポタージュ」として一気に読んでしまわれた事と思います。そういう方たちは大抵、フロイトとかユングとかの本も「奇談」レベルで楽しんでいらしゃるはず・・・。(だって、いろいろな症例の話が、あまりにも面白いんですよね~♪)
 「生物と無生物の間」は、そういう(私たちのような)タイプの読者を想定しているような気もします。


PS:明日から4日間、ブログにアクセスできなくなります。コメントの承認などは、来週の月曜日の夜以降になってしまいますので、よろしくお願いいたします。

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MOMO

2007年10月12日 23時02分04秒 | 本の話

 週刊新潮に連載されている石田衣良の小説「夜の桃」の題字に添えられている句です。
 「さすが!」の句ですね~。
 連載小説は自動的に飛ばしてしまって読まない習慣なのですが、この「夜の桃」は何となくたまには読んでいました。そして今週号のを読んで、「すごくいい小説なんじゃないだろうか。」と思い始めましたので、記事に書く事にしました。たまに買った時の、たまに気が向いた時だけ読んだ(2回ぐらい)だけですので、あまり責任は持てませんけど。
 例えば、主人公(妻子ある中年男)が、愛し合っている女性(25歳)に裸を見せてくれと頼んでそれを見るシーンでは、
 「・・・雅人は言葉も無く、全身を目にして女の命を見つめ続けていた。美しいものとは、女の身体である。」
 ・・・・・なかなか~~!
 (石田衣良といえば、ついこのあいだ直木or芥川賞を獲った新人・・・じゃなかったかな?「この間」ってもしかしたら10年ぐらい前だったのかな?・・・などという程度のKobantoの書評です。あしからず。)
 この小説が単行本になって、それから文庫本になったら、本屋で数ページ立ち読みしてから買おうと思っています。

 というわけですので、今読んでいるすごく面白い本もご紹介します。
 岩波文庫の「スコットランド紀行」エドウィン・ミュア著、橋本槇矩まきのり訳。1934年に「おんぼろ自動車に乗ってエディンバラからスコットランドを周遊する旅に出た」スコットランドの詩人、ミュア氏による紀行文です。
 ダンフリーズは大きくなりすぎた薄汚い町である。アニーローリーの生まれた土地であるマックスウェルトンはその丘陵とともにダンフリーズに飲み込まれてしまった。ここで「アニー・ローリー」という歌の不思議な人気について考えてみたい。この歌は現代のスコットランドを象徴するものだと思うからだ。・・・・(略)・・・・歌詞は陳腐な譬を並べただけである。アニー・ローリーの額は雪のようで、首は白鳥のようで、顔はこのうえなく美しく・・・(略)・・・云々。独自性があるとすれば、間違った観察結果くらいである。レトリックの誤用でもなければ女性の首が白鳥のようだとは言えないし、・・・・(略)・・・・。純然たる民謡にはこんな間違いはない。民謡詩は次にあげる例のように正確で要点をついている。
   ゆうべの晩はベッドを広くこしらえた、
   でも今夜はせまくつくりましょう、
   だって、悲しいことに一晩中
   わたしはひとりで眠るのよ。

 1934年の紀行文というわりには今まで聞いたことがないな~と思ったら、本邦初訳なのだそうです。いま半分ぐらいまで読んだところで、訳者のあとがきを読んでみると・・・
 旅の醍醐味は空想をたくましくして異国の風土、風景、歴史的遺物、人々との交流あるいは食を楽しむことでしょう。少々の偏見や嗜好の偏りが旅には必要です。
・・・いきなりこの文章です。「この著者にしてこの訳者あり」だな~と、うれしくなってしまいました。


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