「相談」どうもこれが苦手。なんだろなーいつからなんだろう?
よくわかんないけど、会社員時代もこれで悩んだ。わからないこととか判断に困ることとかを他人に相談できない。というか、まず「相談しよう」というアイデア自体浮かばない。とにかくひとりで考える。まわりの関係書類だとかを参考にしながら。でも、それでちょっと問題を起こしてしまって、先輩からのアドバイスもあってそれからはものすごく意識して相談するようにした。仕事に関しては。ささいなこともとりあえず先輩の耳に入れておいてその話が進むたびに先輩と話し合ってたからそれがちょっとトラブルの原因になりそうかもってときに事前に対処することができたりして、とりあえず会社ではうまくやっていたように思う。
でもなんていうのかな、こういう性格って幼いころから積み重なってできてきたものだから、そう一朝一夕に直るものでもないんだよね。仕事とか、あとなにかのプライベートな企画とか、ほかの人が絡む問題に関しては、仕事のときの教訓もあって、できるだけまわりのひとと相談しながら進めることができていると思う。複数の人といっしょになにかをやるときは自分以外のメンバーの意見も考慮にいれるってのがルールだとだと思うし、当たり前のことだと思うから。みんなそれぞれメンバーとして対等な関係を維持するためには必要なことだという意識が働いているんだと思う。でも、それが自分の問題になると、話は別。まぁ、人間誰しもひとりで生きてるわけじゃないんだから、自分が
本当に自分だけのためになにかをして、その影響も自分だけにしか及ばない、なんてことは実際にはありえないんだけどねー。家族とか友達とかそういうまわりの人たちを少なからず巻き込んで物事は変化していく(もしくは変わらないでその状態を維持し続けていく)ってのは頭じゃわかってるんだけどさ。たとえばこの留学のことに関しても、あまり相談しなかったように思う。家族にも、友達にも、通ってた予備校のスタッフにも。実務的な手続きとかビザのこととかはさすがに聞いたけど、相談したことで直接的に解決しないであろうと思われること、感情的な不安とか、迷いとか、(心理的な)悩みとかそういったことを誰かに相談するっていう習慣が、私にはないんだと思う。
それは自分で考えて解決することだ、みたいな意識があるんじゃないかな。たとえば2つのことで迷っててそれぞれの実際的な条件(メリットとかデメリットとか、それにともなうリスクとか)をそろえてまずそれを自分で吟味した上で、専門家だったり経験のある人の意見が聞きたい、っていうならいいのよ。それもしないで、具体的に悩みの根本がなんであるかを分析しないで、ただ「悩んでる」とかっていうのを他人にあらわにするのが嫌なんだと思う。「わからないことすらわからない」みたいな段階が。ほかの人がそれを相談したり、自分が相談されたりするのはまったく気にしないのに、自分だと、なぜか、嫌みたい。へんにこだわっているのかなと思うくらい。
たまにこういった考えを親しい人に言うと、「無理しなくていいよ」とか「そんなに頑張り過ぎないほうがいい」とかって、相談(というか悩みを打ち明けること)を促すようなコメントをくれて本当にありがたいんだけど、そうじゃないんだよね。そう思いやってくれることはものすごく嬉しいんだけど、私は別に我慢して相談しないわけじゃないし、相談したくてもできなくて悩んでるっていうわけでもない。ただ、そういった習慣がないから戸惑ってる。「こういうときは相談したほうがいいんだろうなーきっと。まわりの人もそう言うし。でも、どういうタイミングでどう言ったらいいんだろう?」って思っちゃう。たぶん、私は誰かに相談したいんだろう。でも、慣れていないから、(自分の内面的にも、話の展開としても)どういったプロセスをふんで「相談」をしたらいいのかわからない。てことは、別に相談したくはないのかな?相談「したい」とはちょっと違う気がするな。でもその必要性を感じてはいる、なんとなく。
なんとなくだけど、そんな感じ。
自分が納得しないと行動には移せない性格だから、実際に「相談」するのはきっともうすこし後になると思う。ま、実際的にもそう切羽詰っている問題ではないから、まーいっか。
なんてことをさっき考えたので、書いてみました。
理屈っぽい!とかって親しい友人には言われてしまいそうな内容だ。てか絶対言われる(笑)。
そんなめんどうくさい自分もおもしろいなぁーなんて思う、きょうこのごろでした。
よくわかんないけど、会社員時代もこれで悩んだ。わからないこととか判断に困ることとかを他人に相談できない。というか、まず「相談しよう」というアイデア自体浮かばない。とにかくひとりで考える。まわりの関係書類だとかを参考にしながら。でも、それでちょっと問題を起こしてしまって、先輩からのアドバイスもあってそれからはものすごく意識して相談するようにした。仕事に関しては。ささいなこともとりあえず先輩の耳に入れておいてその話が進むたびに先輩と話し合ってたからそれがちょっとトラブルの原因になりそうかもってときに事前に対処することができたりして、とりあえず会社ではうまくやっていたように思う。
でもなんていうのかな、こういう性格って幼いころから積み重なってできてきたものだから、そう一朝一夕に直るものでもないんだよね。仕事とか、あとなにかのプライベートな企画とか、ほかの人が絡む問題に関しては、仕事のときの教訓もあって、できるだけまわりのひとと相談しながら進めることができていると思う。複数の人といっしょになにかをやるときは自分以外のメンバーの意見も考慮にいれるってのがルールだとだと思うし、当たり前のことだと思うから。みんなそれぞれメンバーとして対等な関係を維持するためには必要なことだという意識が働いているんだと思う。でも、それが自分の問題になると、話は別。まぁ、人間誰しもひとりで生きてるわけじゃないんだから、自分が
本当に自分だけのためになにかをして、その影響も自分だけにしか及ばない、なんてことは実際にはありえないんだけどねー。家族とか友達とかそういうまわりの人たちを少なからず巻き込んで物事は変化していく(もしくは変わらないでその状態を維持し続けていく)ってのは頭じゃわかってるんだけどさ。たとえばこの留学のことに関しても、あまり相談しなかったように思う。家族にも、友達にも、通ってた予備校のスタッフにも。実務的な手続きとかビザのこととかはさすがに聞いたけど、相談したことで直接的に解決しないであろうと思われること、感情的な不安とか、迷いとか、(心理的な)悩みとかそういったことを誰かに相談するっていう習慣が、私にはないんだと思う。
それは自分で考えて解決することだ、みたいな意識があるんじゃないかな。たとえば2つのことで迷っててそれぞれの実際的な条件(メリットとかデメリットとか、それにともなうリスクとか)をそろえてまずそれを自分で吟味した上で、専門家だったり経験のある人の意見が聞きたい、っていうならいいのよ。それもしないで、具体的に悩みの根本がなんであるかを分析しないで、ただ「悩んでる」とかっていうのを他人にあらわにするのが嫌なんだと思う。「わからないことすらわからない」みたいな段階が。ほかの人がそれを相談したり、自分が相談されたりするのはまったく気にしないのに、自分だと、なぜか、嫌みたい。へんにこだわっているのかなと思うくらい。
たまにこういった考えを親しい人に言うと、「無理しなくていいよ」とか「そんなに頑張り過ぎないほうがいい」とかって、相談(というか悩みを打ち明けること)を促すようなコメントをくれて本当にありがたいんだけど、そうじゃないんだよね。そう思いやってくれることはものすごく嬉しいんだけど、私は別に我慢して相談しないわけじゃないし、相談したくてもできなくて悩んでるっていうわけでもない。ただ、そういった習慣がないから戸惑ってる。「こういうときは相談したほうがいいんだろうなーきっと。まわりの人もそう言うし。でも、どういうタイミングでどう言ったらいいんだろう?」って思っちゃう。たぶん、私は誰かに相談したいんだろう。でも、慣れていないから、(自分の内面的にも、話の展開としても)どういったプロセスをふんで「相談」をしたらいいのかわからない。てことは、別に相談したくはないのかな?相談「したい」とはちょっと違う気がするな。でもその必要性を感じてはいる、なんとなく。
なんとなくだけど、そんな感じ。
自分が納得しないと行動には移せない性格だから、実際に「相談」するのはきっともうすこし後になると思う。ま、実際的にもそう切羽詰っている問題ではないから、まーいっか。
なんてことをさっき考えたので、書いてみました。
理屈っぽい!とかって親しい友人には言われてしまいそうな内容だ。てか絶対言われる(笑)。
そんなめんどうくさい自分もおもしろいなぁーなんて思う、きょうこのごろでした。
とくに“それは自分で考えて解決することだ”は意思決定における僕の基本的スタンスです。
でも、これは贅沢な悩みかもしれません。“相談できる人がいる”というのは、それだけで幸せなことだと思いますよ。
そうやって自分なんかを気遣ってくれる人たちがいるってことがものすごくありがたいです。相談が必要なときに相談できる相手がいるって恵まれた環境ですよね。だから、「相談」っていうわかりやすい方法をとらなくても、私はその人たちを信頼しているしとても大事に思っているってことを伝えたいなって思うし、逆に、その人たちはそんなことあえて言わなくても、悩みとかを「相談」しなくても、私のそういう気持ちをわかってくれてると思う。
これってホント幸せなことですよね。