私は1943年1月愛知県の東三河、豊川稲荷で有名な豊川市牛久保町(当時は宝飯郡牛久保町)で生まれた。牛久保は2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」で一躍有名になった山本勘助の墓がある長谷寺の所在地である。
1943年昭和18年は、太平洋戦争のまっただ中であり私の父は私が生まれて2年後の昭和20年?月名古屋の第3師団に招集されたため、私の記憶には全く無い。父は名古屋の部隊から、旧満州に派兵され斉斉哈爾(チチハル)で終戦を迎え、その後ソビエトへ抑留され翌年(1946年)2月厳寒の地で凍死したと、後日帰還した戦友の人から聞いた。
そんな私には、幸か不幸か戦争の記憶は全くない。しかし当時、父の墓へ行くため豊橋駅に降り立つと、その駅舎の屋根にすっぽりと大きな穴が空いており、真っ青な空がよく見えたことを思い出す。更に母に手を引かれお墓に行くまでの道の両側には焼けこげた煉瓦やトタンの残骸がうずたかく積まれていた事を恐怖心と共によく覚えている。その後、私が物心つく頃の日本は、国民総懺悔で、「平和憲法で二度と戦争はしない」「原爆許すまじ」の大合唱の連呼であった。小学校の先生に「あたらしい憲法のはなし」を読んで貰い、子ども心に「もう戦争には行かなくて良いのだ」と安心し、嬉しかったことを覚えている。
その後の日本は皆さんもご承知のように、正に紆余曲折がありながら今日に至のであるが「世界に誇る平和憲法」も「世界第二の経済大国」も綻びと歪みを見せ始め、今や「このままでは日本の未来・将来は無い!」とまで言わせるに至っている。
この時期に、正に平和の申し子として「平和・平等」のかけ声と共に育ち、まれに見る経済発展の中で、世界で一番安定した平和で豊かな生活を味わった66歳の男が、今その人生を振り返りながら、この後も戦争のない「平和日本」を後世に引き継ぐために、拙い文章を慣れないブログに書き記す事にした。
1943年昭和18年は、太平洋戦争のまっただ中であり私の父は私が生まれて2年後の昭和20年?月名古屋の第3師団に招集されたため、私の記憶には全く無い。父は名古屋の部隊から、旧満州に派兵され斉斉哈爾(チチハル)で終戦を迎え、その後ソビエトへ抑留され翌年(1946年)2月厳寒の地で凍死したと、後日帰還した戦友の人から聞いた。
そんな私には、幸か不幸か戦争の記憶は全くない。しかし当時、父の墓へ行くため豊橋駅に降り立つと、その駅舎の屋根にすっぽりと大きな穴が空いており、真っ青な空がよく見えたことを思い出す。更に母に手を引かれお墓に行くまでの道の両側には焼けこげた煉瓦やトタンの残骸がうずたかく積まれていた事を恐怖心と共によく覚えている。その後、私が物心つく頃の日本は、国民総懺悔で、「平和憲法で二度と戦争はしない」「原爆許すまじ」の大合唱の連呼であった。小学校の先生に「あたらしい憲法のはなし」を読んで貰い、子ども心に「もう戦争には行かなくて良いのだ」と安心し、嬉しかったことを覚えている。
その後の日本は皆さんもご承知のように、正に紆余曲折がありながら今日に至のであるが「世界に誇る平和憲法」も「世界第二の経済大国」も綻びと歪みを見せ始め、今や「このままでは日本の未来・将来は無い!」とまで言わせるに至っている。
この時期に、正に平和の申し子として「平和・平等」のかけ声と共に育ち、まれに見る経済発展の中で、世界で一番安定した平和で豊かな生活を味わった66歳の男が、今その人生を振り返りながら、この後も戦争のない「平和日本」を後世に引き継ぐために、拙い文章を慣れないブログに書き記す事にした。
おめでとうございます。
何者にも縛られず自らの考えをのべる、
そんなブログに期待してます。
応援してます。
頑張って下さい。マッサージ三昧の
日々を思い返し、当方も奮闘中!