ユニオン・エクスタシーのブログに面白いことが書いてありました。
団結するのは難しいという内容の記事です。
団結。
そう、ストライキしてみてはじめて、団結の意味がわかりました。ストライキとは団結なのに、それを知らずにストライキを始めてしまいました。
事を起こしてから、連帯はどんどんしていけます。しかし、いったん事を起こすと団結をするのは難しい。 前インターネットをぱらぱらみていたら、昔のストライキのマニュアルみたいなものを見つけたことがありました。
はじめは雇用者にばれないようにこっそりこっそり一人一人、同調者を見つけていく(オルグする)、そして、あるときいっせいにばーんと、登場し、宣言をし、総会を開き、いっきにストライキに突入する‥‥、 読んだ時なんでそんなふうにするのか、そのニュアンスがわかりませんでした、今ならわかります。
一回表に登場してしまうと、雇用者はあらゆる方法をとって、労働者を分断していくのです。 ああ、そういうふうにしてくるのか、と今回身にしみて感じました。
連帯には素敵でそんなにリスクはないけれど、団結はリスキー、それもリスキーなことをしてしまうエクスタシーと団結するなんて本当にリスキー!
労働組合差別というのは昔からあって、国鉄民営化のときにクビになった1047人てのはいまだに闘っていたりします。なにしろ使用者側からすると労働組合は面倒くさいものである。それゆえ、第2労組を作って、そこの加入者を人事的に優遇して、そちらに労働者をまとめていき、いわゆる「労使協調」の連合系の労組ができています。これが本当に労使協調で、こっちはクビになって困っているのに、「会社の言い分も聞いてあげなさい」とか「労働契約というのは文書で契約書を締結して初めて成立するのです」とか、まあ、いい加減なことをいって使用者側に有利にもっていこうとしてくれました(あっせんのときの労働者委員が連合の方だったんです)。あそこがいかに正社員クラブなのかというのを示します。非正規の話なんてロクに聞いてもくれない。
そういうわけで、労働組合に加入していることが使用者側に分かれば不利益な扱いをされるかもしれない。しかも、大学当局を相手取って裁判を起こすような「危険人物」はできるだけ遠ざけておきたい。そんなことを大学に思われたら、なにしろ一年更新の有期雇用契約の非常勤講師にとっては危険際なりない。そう判断をする非常勤講師は多い。
大学がきちんと契約を結び、不合理な理由でクビを切らないようになるのは、大切なことだと思うのですが(仮にも大学ですからね)、なかなかそこのところがご理解いただけないのか、ご理解いただけない振りをしているのか、今回の裁判に大反対な組合員も実際いたりします。
リスクを取って署名をしたり、周囲の人に宣伝活動をしたりすると、自分が組合活動を行っていることが大学側にバレる可能性がある以上、協力戦略をとるのは自分の利益を最大化しません。こういう場合、自分の利益を最大化する戦略は、裁判をするという人がいたら、そこに期待をしつついちゃもんをつけて協力をしないでおいて、その裁判で勝てた暁にはその成果は活用するという「ただ乗り戦略」です。これなら、自分はリスクを取ることなく、成果は活用できます。
ところが、社会の構成員全員が「ただ乗り戦略」を取った場合には、だれも成果を得られなくなっちゃいますので、この戦略は社会全体としては一番有利な均衡解をもたらさないという問題もあります(合成の誤謬、ないし社会的ジレンマ)。その結果が現在の非常勤問題を構成する一部になっています。
ところが、この非協力戦略への戦略設定は大変強力で、協力戦略をとらなかった場合にサンクションを与えるくらいしか、協力への駆動は難しいです。できたての弱小労働組合ではもちろん組合に参加しているメリットも少ないし、サンクションの与えようもありません。したがって、かなり多くの組合員が非協力戦略を採用しているわけです。日本社会における最も大きなサンクションは「村八分」なんですが、われわれの労働組合もコミュニティとして機能していない以上、村八分の効用もありません(村八分などの排他性の危険でもなければ、町内会のドブさらいだって、合理的な判断力がある人は誰も参加しないはずです)。「協力をした結果、利益がありますよ」というのは実は人を協力戦略へと駆動しないのです。その利益は協力をしなければ享受できません、というようなサンクションでもなければいけないのです。
そんなわけで「サンクションもないのにリスクをとってまで協力する」のは不合理な選択なわけなので、団結をしたりはしないわけですね。裁判の判決は日本中どこにいても使えます。
人が協力をしあうというのは、そう簡単なことではありません。
団結するのは難しいという内容の記事です。
団結。
そう、ストライキしてみてはじめて、団結の意味がわかりました。ストライキとは団結なのに、それを知らずにストライキを始めてしまいました。
事を起こしてから、連帯はどんどんしていけます。しかし、いったん事を起こすと団結をするのは難しい。 前インターネットをぱらぱらみていたら、昔のストライキのマニュアルみたいなものを見つけたことがありました。
はじめは雇用者にばれないようにこっそりこっそり一人一人、同調者を見つけていく(オルグする)、そして、あるときいっせいにばーんと、登場し、宣言をし、総会を開き、いっきにストライキに突入する‥‥、 読んだ時なんでそんなふうにするのか、そのニュアンスがわかりませんでした、今ならわかります。
一回表に登場してしまうと、雇用者はあらゆる方法をとって、労働者を分断していくのです。 ああ、そういうふうにしてくるのか、と今回身にしみて感じました。
連帯には素敵でそんなにリスクはないけれど、団結はリスキー、それもリスキーなことをしてしまうエクスタシーと団結するなんて本当にリスキー!
労働組合差別というのは昔からあって、国鉄民営化のときにクビになった1047人てのはいまだに闘っていたりします。なにしろ使用者側からすると労働組合は面倒くさいものである。それゆえ、第2労組を作って、そこの加入者を人事的に優遇して、そちらに労働者をまとめていき、いわゆる「労使協調」の連合系の労組ができています。これが本当に労使協調で、こっちはクビになって困っているのに、「会社の言い分も聞いてあげなさい」とか「労働契約というのは文書で契約書を締結して初めて成立するのです」とか、まあ、いい加減なことをいって使用者側に有利にもっていこうとしてくれました(あっせんのときの労働者委員が連合の方だったんです)。あそこがいかに正社員クラブなのかというのを示します。非正規の話なんてロクに聞いてもくれない。
そういうわけで、労働組合に加入していることが使用者側に分かれば不利益な扱いをされるかもしれない。しかも、大学当局を相手取って裁判を起こすような「危険人物」はできるだけ遠ざけておきたい。そんなことを大学に思われたら、なにしろ一年更新の有期雇用契約の非常勤講師にとっては危険際なりない。そう判断をする非常勤講師は多い。
大学がきちんと契約を結び、不合理な理由でクビを切らないようになるのは、大切なことだと思うのですが(仮にも大学ですからね)、なかなかそこのところがご理解いただけないのか、ご理解いただけない振りをしているのか、今回の裁判に大反対な組合員も実際いたりします。
リスクを取って署名をしたり、周囲の人に宣伝活動をしたりすると、自分が組合活動を行っていることが大学側にバレる可能性がある以上、協力戦略をとるのは自分の利益を最大化しません。こういう場合、自分の利益を最大化する戦略は、裁判をするという人がいたら、そこに期待をしつついちゃもんをつけて協力をしないでおいて、その裁判で勝てた暁にはその成果は活用するという「ただ乗り戦略」です。これなら、自分はリスクを取ることなく、成果は活用できます。
ところが、社会の構成員全員が「ただ乗り戦略」を取った場合には、だれも成果を得られなくなっちゃいますので、この戦略は社会全体としては一番有利な均衡解をもたらさないという問題もあります(合成の誤謬、ないし社会的ジレンマ)。その結果が現在の非常勤問題を構成する一部になっています。
ところが、この非協力戦略への戦略設定は大変強力で、協力戦略をとらなかった場合にサンクションを与えるくらいしか、協力への駆動は難しいです。できたての弱小労働組合ではもちろん組合に参加しているメリットも少ないし、サンクションの与えようもありません。したがって、かなり多くの組合員が非協力戦略を採用しているわけです。日本社会における最も大きなサンクションは「村八分」なんですが、われわれの労働組合もコミュニティとして機能していない以上、村八分の効用もありません(村八分などの排他性の危険でもなければ、町内会のドブさらいだって、合理的な判断力がある人は誰も参加しないはずです)。「協力をした結果、利益がありますよ」というのは実は人を協力戦略へと駆動しないのです。その利益は協力をしなければ享受できません、というようなサンクションでもなければいけないのです。
そんなわけで「サンクションもないのにリスクをとってまで協力する」のは不合理な選択なわけなので、団結をしたりはしないわけですね。裁判の判決は日本中どこにいても使えます。
人が協力をしあうというのは、そう簡単なことではありません。