久しぶりにまじかでフジヤマを観たいと思う
Mの起床は早い。
湯船のある部屋どなりの空間がわずかに白々
としている。
K川のせせらぎにまじり、チチ、チチッと鳥
のさえずりが谷間にひびく。
寝覚めが思いのほかいいし、頭がすっきりし
ている。
Mはいま一度湯船につかろうと、はだけてく
しゃくしゃになった浴衣をきりりとしめなおす。
Mは笑った。これから裸になるのになんでと
思う。
「いつ誰に見られてもいいように、男たるも
の、しっかりふんどしのひもはしめておけ」
一昨年の五月、急逝したおふくろの口ぐせを
ふいに思いだし、笑いがこみあげてくる。
湯船のわきにしゃがみ小桶に湯をくむと、二
三度体にかけた。両脚から音を立てないように
して体を湯船に沈めていく。
(これ以上のしあわせはないな。それにぐっ
すり眠れた。熟睡が最高のアンチエイジングだ
と何かの本で読んだことがあったな。若い人と
りわけ女学生とのたわいのないおしゃべりもわ
るくはないが、老境に入りつつある身、下手す
ると「変なおじさんや」と、かんぐられること
もありやなしや……。家に帰りつき、にやけた
面を娘に見られたら……、あぶないあぶない。女
の勘は鋭いんやさかい)
Mはそっと目をつむり、辺りの音を聴こうと
した。
時間に追われるのは宮づかえしているうちだ
けでたくさん、まして今は旅の途次である
(ようやく仕事から解放されたんや。二十三
の時からやから四十年か。がんばったもんな)
どれくらい湯船につかっていたろう。
Mの部屋の中に誰かが入って来たようだ。
「今、出ますから」
と声をかけた。
「いいえ、ゆっくりつかっていて下さい。床
はかたづけさせていただきますね」
やけに若やいだ声に、Mは緊張する。
「おおきにです。いやあのそのどうもお世話
さまです……」
ややもすると関西弁のまじってしまう言葉に
あわてる。
Y駅発の二番列車を意識し、さっさと朝飯を
済ませ、旅立ちのしたくを整える。
「もっとゆっくりしていったらいいずらね。
このH町界隈に、若いときの思い入れがたくさ
んおありでしょうし」
宿の玄関先で見送ってくれる女将に、
「まあ、おっしゃるとおりなんですがね。私
だけゆっくりってわけにはいかない世の中みた
いなんで」
Mはていねいに頭を下げた。
「そうですか。でもまたおいでくださいね。
首をなごうしてお待ち申しております」
女将は方言をつかわない。
Mは二度とここには来ない。彼の内に秘めた
決意を悟ったかのようである。
かばんを肩からはすにかけるように、留め金
をはずす。
(橋の向こうに小さな公園があったはず、そ
こでブランコに乗った。あれはおれが確か十九
だった……)
吊り橋を渡るとすぐに、川べりに向かう小道
が続いている。
標識に、右、勝山城址とあった。
昔むかしの思い出を、辺りの景色は裏切らな
かった。
ブランコは新調されていたが、同じ場所に存
在していた。
色んな遊具が増えている。
Mはプラスチック製のブランコの踏み板に尻
をのせた。
「きみはおぼえているかしら。あの白いぶら
んこう……」
と、声を大きくして唄い出す。
ひとつ年下、奥手のMにとって異性との初め
ての付き合いだった。
ここよりもっと北の方の子だったな。いわき
さんがどうのこうのって、T市に来る途中、乗っ
ていた汽車の窓から見えたとかなんとか言って
たように思う。
突然、吊り橋の上からやけにはしゃいだ声が
風に乗ってやってきた。
「あのさあ、うふふふっ……」
「何なの、あんたさ、急に笑い出して」
「それがね、おかしいったらないのさ」
「なにが……」
「こっちに来る途中でさ、新幹線の列車の中
で変なおじさんに会ってね。ビュッフェでお昼
ごちになってやったの」
話の中身がやけに自分の身に起きたことと符
合する。
Mは唄うのもブランコをこぐのもやめ、その
声に耳を傾けた。
Mの起床は早い。
湯船のある部屋どなりの空間がわずかに白々
としている。
K川のせせらぎにまじり、チチ、チチッと鳥
のさえずりが谷間にひびく。
寝覚めが思いのほかいいし、頭がすっきりし
ている。
Mはいま一度湯船につかろうと、はだけてく
しゃくしゃになった浴衣をきりりとしめなおす。
Mは笑った。これから裸になるのになんでと
思う。
「いつ誰に見られてもいいように、男たるも
の、しっかりふんどしのひもはしめておけ」
一昨年の五月、急逝したおふくろの口ぐせを
ふいに思いだし、笑いがこみあげてくる。
湯船のわきにしゃがみ小桶に湯をくむと、二
三度体にかけた。両脚から音を立てないように
して体を湯船に沈めていく。
(これ以上のしあわせはないな。それにぐっ
すり眠れた。熟睡が最高のアンチエイジングだ
と何かの本で読んだことがあったな。若い人と
りわけ女学生とのたわいのないおしゃべりもわ
るくはないが、老境に入りつつある身、下手す
ると「変なおじさんや」と、かんぐられること
もありやなしや……。家に帰りつき、にやけた
面を娘に見られたら……、あぶないあぶない。女
の勘は鋭いんやさかい)
Mはそっと目をつむり、辺りの音を聴こうと
した。
時間に追われるのは宮づかえしているうちだ
けでたくさん、まして今は旅の途次である
(ようやく仕事から解放されたんや。二十三
の時からやから四十年か。がんばったもんな)
どれくらい湯船につかっていたろう。
Mの部屋の中に誰かが入って来たようだ。
「今、出ますから」
と声をかけた。
「いいえ、ゆっくりつかっていて下さい。床
はかたづけさせていただきますね」
やけに若やいだ声に、Mは緊張する。
「おおきにです。いやあのそのどうもお世話
さまです……」
ややもすると関西弁のまじってしまう言葉に
あわてる。
Y駅発の二番列車を意識し、さっさと朝飯を
済ませ、旅立ちのしたくを整える。
「もっとゆっくりしていったらいいずらね。
このH町界隈に、若いときの思い入れがたくさ
んおありでしょうし」
宿の玄関先で見送ってくれる女将に、
「まあ、おっしゃるとおりなんですがね。私
だけゆっくりってわけにはいかない世の中みた
いなんで」
Mはていねいに頭を下げた。
「そうですか。でもまたおいでくださいね。
首をなごうしてお待ち申しております」
女将は方言をつかわない。
Mは二度とここには来ない。彼の内に秘めた
決意を悟ったかのようである。
かばんを肩からはすにかけるように、留め金
をはずす。
(橋の向こうに小さな公園があったはず、そ
こでブランコに乗った。あれはおれが確か十九
だった……)
吊り橋を渡るとすぐに、川べりに向かう小道
が続いている。
標識に、右、勝山城址とあった。
昔むかしの思い出を、辺りの景色は裏切らな
かった。
ブランコは新調されていたが、同じ場所に存
在していた。
色んな遊具が増えている。
Mはプラスチック製のブランコの踏み板に尻
をのせた。
「きみはおぼえているかしら。あの白いぶら
んこう……」
と、声を大きくして唄い出す。
ひとつ年下、奥手のMにとって異性との初め
ての付き合いだった。
ここよりもっと北の方の子だったな。いわき
さんがどうのこうのって、T市に来る途中、乗っ
ていた汽車の窓から見えたとかなんとか言って
たように思う。
突然、吊り橋の上からやけにはしゃいだ声が
風に乗ってやってきた。
「あのさあ、うふふふっ……」
「何なの、あんたさ、急に笑い出して」
「それがね、おかしいったらないのさ」
「なにが……」
「こっちに来る途中でさ、新幹線の列車の中
で変なおじさんに会ってね。ビュッフェでお昼
ごちになってやったの」
話の中身がやけに自分の身に起きたことと符
合する。
Mは唄うのもブランコをこぐのもやめ、その
声に耳を傾けた。
旅館で過ごす時間がゆっくりと流れ、穏やかなひとときを感じるように読むことができました。
昔行った旅行をぼんやり思い出しました。
最後のところで、少し気がかりな感じになってきました。
続きがとても気になります。
いつもありがとうございます。