油屋種吉の独り言

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巴波川・恋の舟歌  プロローグ

2022-11-28 23:10:57 | 小説
 下野の栃木の地、巴波川のほとり。
 この日の昼間も、きびしい夏の名残の陽射
しが降りそそぎ、江戸に材木を運搬しようと
せっせと河岸で働く人々の身体を熱くした。
 だが、夏から秋へと時節は確実に移り変わっ
ていく。
 夕暮れになり、ひんやりした風が吹き過ぎ
るようになると、風邪をひいてもいけねえと
彼らは帰り支度を急ぎながら、彼らは汗ばん
だからだをぬぐった。
 川筋から町の中心部に向かって少しばかり
露地を入った裏長屋。
 河岸の喧騒は、ほとんど届かない。
 そこに三十歳くらいの仁吉という男が住ん
でいる。
 やせ形で背が高い。
 彼みずからがどさまわりの女形でやんすと
口上を切っても、さもありなんとみながうな
ずくくらいに端正な顔立ち。
 不思議なことにいまだ女房がいない。
 あいつの客はほとんどが女だから、きっと
やつは遊び人にちげえねえと、巷のすずめた
ちがうるさい。
 仁吉は蕎麦売りを生業にしている。
 天秤棒の前と後ろに、七輪、箸、皿、それ
に生蕎麦やゆで蕎麦、しょうゆなど、いわゆ
る七つ道具を入れた箱をふたつ、かつぎやす
いように重さを均等にしてのせる。
 前後ろにのびた屋根の裏には、風鈴が付い
ているので、誰もが蕎麦屋が来たことを知る
ことができる。
 この仕事を始めて、十年目。
 河岸の仕事もきついが、蕎麦屋のそれも負
けず劣らずだ。
 自然と仁吉の足腰は丈夫になり、両肩とも
筋肉隆々である。
 この午後、仁吉はずっと台所でいて、何や
らゆでたり煮たりしている。
 煮干しの匂いにつられて、猫たちが、仁吉
の家の玄関の戸を爪でひっかいては、部屋に
入ろうと試みるが仁吉の一喝で撃退される。
 仁吉は今宵の売れ筋を考えながら、そばを
ゆでたり、つゆをこしらえたりと、汗をぽた
ぽた落としながら準備に大忙しだが、時おり
表情がくもる。
 真っ赤な太陽が、山の向こうに沈んでいき
ながら、この日最後の光を投げかけていくと
川面が朱に染まった。
 岸辺の柳が風にゆれだし、霧がじわじわと
はい出してくる。
 暗闇があたりを支配するのに、それほど時
間がかからなかった。
 「やれやれ、もうすぐ出かける時刻だ。こ
の仕事もきょうでおしまい。おれには貯えが
あるし後顧の憂いもない。しかし、なんだな
これで果たしていいんだろか。おれはなんと
でもなるが、およねがな……、惚れたはれた
だけじゃ、いつまでもつか」
 仁吉はそうつぶやくと、上り口に、どっか
と腰を下ろした。
 
 
  
 
 
 
  
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1 コメント

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Unknown (sunnylake279)
2022-11-29 10:50:06
おはようございます。
新しいお話、なんだか渋いですね。
表現がとても素敵で、言葉に貫禄があるように思いました。
蕎麦屋というのがいいですね。
これから楽しみにしています。
どうぞよろしくお願いいたします。

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