油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

仲間はずれ。  (5)

2024-08-06 22:10:30 | 小説
 魔物事件の直後である。
 Mはかみさんにああだこうだとせっつかれても、
すぐに何をする気も起らない。

 「とにかく居間でくつろいでいて。用意ができた
ら呼ぶからね」
 かみさんの勧めにあいよと応え、おのれの体をソ
ファに投げ出すようにしてすわりこんだ。

 魔物に触れられた二の腕に、鳥肌が立っ
ている。

 痛いとかかゆいとか、感覚があればいいのだが、そ
れがない。
 皮膚の下の動脈の血管の中を、酸素や栄養分で満
ちた血潮が、とくん、とくんと流れているのか疑わ
しいくらいだ。

 いったんは止まりかけた心の臓が危ういところで、
なんとか持ち直したかのようだ。

 若い時はこんなやわじゃなかった。

 Mは大窓に視線を移した。
 梅雨はいまだ、富士の山すそから去りそうもない。
 ここは山中湖畔。

 来る途中、忍野八海を見物して来た。
 世界遺産に指定されてから、ずいぶんと国際色豊か
になり、欧米だけでなく、中国や東南アジアからの観
光客が増えた。

 Mは顔を上げた。
 大窓から見える緑を基調とした景色のなかに、突然、
富士のいただきがちらりと見えた。

 風が吹いた。
 灰色の雲をいずこかへと追い払ってくれた大いなるも
のに、Mは感謝したかった。

 四十八歳だったろうか。
 あと二年余りで、満五十歳だと喜んでいた頃だった。
 Mが居住する街に珍しいほどの雪が降った。

 十センチ積もっても、一向に雪が降りやまない。

 それにしびれを切らしたかみさんはそれっとばかりに
玄関先に出た。
 歩きの道だけ確保しようと、彼女は竹ぼうきを左右に
ふるいながら進んだ。
 うちから大通りで出るまで、けっこうな道のりがある。
 
 雪かきなど経験がないMは、四角いスコップを持ち、彼
女のあとにつづいた。

 すぐに汗びっしょりになった。
 その処理を、Mは間違えた。
 すぐにシャツの着替えをすべきなのに、汗だくになった
シャツを新しいものに取り換えることなしに、上着だけよ
り厚っこいものにとりかえた。

 そして、そのまま除雪作業をつづけたものだから、から
だを冷やすのに時間がかからなかった。

 たちまちMの体に異変が起きた。
 耳奥で、ガガガッと音が聞こえたように思ったとたん、体
調がわるくなった。

 あわてて家にもどり、洗面所の鏡を見た。
 顔色がわるい。
 とりわけ唇の色が蒼白だった。
 はあはあと息をすることで、なんとか生きている。
 そんなふうだった。

 今回、魔物におそわれたことは、Mをして、二十年前にお
のれの身に起きた、そんな事件を思い起こさせた。

 「ほら、これとこれっ頭の先から足の先までちゃんと身に
付けるんだよ」
 おでこといわず、首といわず、それに胸腹を問わない。
 腰にはベルト、左右の脚のくるぶしにも黒っぽい生地を
あてがった。

 Mはわけなどまったく知らない。
 かみさんに言われるままだった。

 エアコンの冷風が、室内の湿気をとりのぞいてしまい、M
はすぐさま眠りに落ちた。
 心地よい睡眠がとれれば、それで充分だった。
 
 どれくらいソファで安らいでいたろう。
 「さてとそろそろかな。おい、起きて」
 ふだんより優し気に聞こえるかみさんの声……。
 まるで嵐の前の静けさだった。

 おのれの体にまといついている黒っぽい防具がまるで生き
物のように思えた。
 あわててMはそれらを取り外しにかかった。

 「いいの。そのままで会場に向かって」
 「へえ、いいんだね。付けてて」
 腰に巻いた厚いベルトの下には紺のズボン。その下には肌
に密着するようにラクダ色のパンツをはいている。

 ソファから無造作に立ち上がった時、Mは歩きづらさを憶
えた。

 内臓をおおう腹のぶあつい皮膚に突如として、穴のごとき
ものが出来てしまっている。
 その穴に、すぽりと腸が入り込んでしまい、もとに戻れぬ
様相を呈していた。

 その穴の中で、二重になった腸が出口を失くし、右往左往
まるで風船のようにふくらんだ。
 ずきずき痛みがつのった。

 Mはもう一度、ソファに体を横たえ、内側に腸をもどすべ
く両手で抑えにかかった。
 (よくもまあ、こんな姿でバス旅行に参加したもんだ)

 「さてと、プレゼンがんばらなくっちゃ」
 姿見の前にすわったかみさん。
 鏡に映った彼女の姿を、Mは目に焼き付けようとしたが、容
易に果たせない。

 目をほそめたり、まんまるくしたりするがむだだった。
 老眼鏡をかけてないのだし、多分そのせいだと思った。
 
 
 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする