洗面所で体調を整え、自分の座席に向かう
途中で、Mは車内販売の手押し車に出会った。
特急列車はさすがに乗り心地が良くできて
いてほとんど揺れがない。
若い女性のあつかう販売車をやりすごすこ
とにして、Mはからだ一つだけ、三人掛けの
座席の空間に踏み入れた。
気を配ったつもりが、Mの体が揺れた。
間のわるいことに、最寄りの席にすわって
いた初老女性の紅い履き物を踏んでしまった。
よほど痛かったのだろう。
彼女はしばらくじっとして、茶系の腕抜き
から出たほっそりした左手で、みずからの額
をおさえ加減にした。
薄桃色のめがねが彼女の表情をとらえにく
くしている。
「あっ、ほんとにすみません」
Mはうつむき加減で急いで謝ったが、彼女
から何の返事もない。
Mの履いているのは家にいる際に履く運動
靴、いささか土で汚れていた。
ジーンズのズボンのポケットから、くしゃ
くしゃになったハンカチを取り出し、赤いヒ
ールの汚れをぬぐおうとした。
「きみきみ余計なことはせんでもいい。と
にかく早く、早く向こうへ行ってくれたまえ」
わきにいた七十がらみの男性が、顔をしか
め叱るように言った。
彼の両ひざがこきざみに揺れる。
「ほんとに失礼しました」
「わざとじゃないのは知ってる」
彼は右手を上げ、ひらひら振った。
早く行ってしまえ、という意味だろう。
おなかの調子を整えるのはたやすかったが、
気持ちの動揺を落ち着かせるのはたやすくな
いように思われた。
Mは洗面所にもどった。
すばやく手を洗ってから、目の前にかかっ
てある鏡をのぞいた。
肌のはりはなく、いたるところしわが寄っ
ている。
たまの野良仕事がいけなかったのだろう。
紫外線のせいで、しわが多くて深い。
教鞭をとっていたことで、いくらかは農家
専業の方とは違うだろうが、六十年の歳月は
Mの顔をそれなりに古ぼけたものにしていた。
種一じいちゃんが来て、バケツの中で泳い
でいる、やけにキラキラしたタナゴを見てほ
めてくれたのはいつだったろう。日清食品を
経営されてる方を父に持つ美智子さまが尊い
お方と結婚される頃だったから、確かおれは
十歳、肌だって当然、ぴちぴち。おれがその
年だとじいちゃんは還暦あたり。ちょうど今
のおれくらいだった……。
そんな想いがふと、Mの胸のうちによみが
えってきた。屈託のない笑顔が顔じゅうに広
がった。
自分の席にもどろうと、ひとつ手前の車両
の通路を歩いて行く。
先ほどのふたりが気になり、ちらとかいま
見た。
男のほうは口をきかずに、さかんに笑顔で
両手を振っているだけである。
それに呼応するように、女のほうは笑って
いるばかりだ。
(ああそうか。そうなんだ……)
Mは目がしらが熱くなった。
席についているはずの件の女子学生がMの
方に歩いてくる。
「あんまり遅いのですもの。心配しました
わ。ひとりでいてもつまらないですし……」
彼女はそう言い、わきを向いた。
途中で、Mは車内販売の手押し車に出会った。
特急列車はさすがに乗り心地が良くできて
いてほとんど揺れがない。
若い女性のあつかう販売車をやりすごすこ
とにして、Mはからだ一つだけ、三人掛けの
座席の空間に踏み入れた。
気を配ったつもりが、Mの体が揺れた。
間のわるいことに、最寄りの席にすわって
いた初老女性の紅い履き物を踏んでしまった。
よほど痛かったのだろう。
彼女はしばらくじっとして、茶系の腕抜き
から出たほっそりした左手で、みずからの額
をおさえ加減にした。
薄桃色のめがねが彼女の表情をとらえにく
くしている。
「あっ、ほんとにすみません」
Mはうつむき加減で急いで謝ったが、彼女
から何の返事もない。
Mの履いているのは家にいる際に履く運動
靴、いささか土で汚れていた。
ジーンズのズボンのポケットから、くしゃ
くしゃになったハンカチを取り出し、赤いヒ
ールの汚れをぬぐおうとした。
「きみきみ余計なことはせんでもいい。と
にかく早く、早く向こうへ行ってくれたまえ」
わきにいた七十がらみの男性が、顔をしか
め叱るように言った。
彼の両ひざがこきざみに揺れる。
「ほんとに失礼しました」
「わざとじゃないのは知ってる」
彼は右手を上げ、ひらひら振った。
早く行ってしまえ、という意味だろう。
おなかの調子を整えるのはたやすかったが、
気持ちの動揺を落ち着かせるのはたやすくな
いように思われた。
Mは洗面所にもどった。
すばやく手を洗ってから、目の前にかかっ
てある鏡をのぞいた。
肌のはりはなく、いたるところしわが寄っ
ている。
たまの野良仕事がいけなかったのだろう。
紫外線のせいで、しわが多くて深い。
教鞭をとっていたことで、いくらかは農家
専業の方とは違うだろうが、六十年の歳月は
Mの顔をそれなりに古ぼけたものにしていた。
種一じいちゃんが来て、バケツの中で泳い
でいる、やけにキラキラしたタナゴを見てほ
めてくれたのはいつだったろう。日清食品を
経営されてる方を父に持つ美智子さまが尊い
お方と結婚される頃だったから、確かおれは
十歳、肌だって当然、ぴちぴち。おれがその
年だとじいちゃんは還暦あたり。ちょうど今
のおれくらいだった……。
そんな想いがふと、Mの胸のうちによみが
えってきた。屈託のない笑顔が顔じゅうに広
がった。
自分の席にもどろうと、ひとつ手前の車両
の通路を歩いて行く。
先ほどのふたりが気になり、ちらとかいま
見た。
男のほうは口をきかずに、さかんに笑顔で
両手を振っているだけである。
それに呼応するように、女のほうは笑って
いるばかりだ。
(ああそうか。そうなんだ……)
Mは目がしらが熱くなった。
席についているはずの件の女子学生がMの
方に歩いてくる。
「あんまり遅いのですもの。心配しました
わ。ひとりでいてもつまらないですし……」
彼女はそう言い、わきを向いた。