油屋種吉の独り言

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若がえる。  (10)

2024-01-28 00:07:04 | 小説
 不意にすすけた天井の一角から、ぽとりと大粒のしずくが
落ちてきて木目もようを楽しんでいたMのひたいに当たった。
 思わず、Mは頭の上にのせてある白いタオルで目のふちを
静かにぬぐう。
 Mの体は湯の熱でぬくもりを増し真っ赤に染まっている。
 ふたりしてつかると、もうそれ以上誰も入る余地のないよ
うな小さな湯船。
 霧がわくように上がる湯気が小さく開け放たれた小窓から
外へとすばやく出ていく。
 MがY町駅でおり、若き日の記憶だけを頼りに最初に見つ
けた宿である。
 学生時代、最初に借りた部屋はやはりY駅裏。当時の借り
賃は四畳半で一か月二千八百円也。
 その建物全体は傾いていてもはや住むことができない。数
本の太い木をつっかい棒にしてやっとこ突っ立っているあり
さまである。
 その建物わきの坂道が、K川にぶつかる辺りに、この宿が
あった。
 Mは予約をしなかった。
 頑丈に造られた吊り橋を渡った山道の行きつく先には、昔
むかし武田家ゆかりの城が立っていた。
 ちらと夜空が見えた。
 空気が澄んでいるらしく、よく見ると星々がきらめいて
いる。
 何を思ったか、Mは大きくひとつ深呼吸してから、白い
タオルを左手で持ちあげた。
 そのままで思い切って、頭の先まで湯の中に沈んだ。
 いちにいさんと数えてから、ザブッと水面に顔を出す。
 (馴れない旅で、ちょっといや大いに気づかれしたとい
うところかな。とにかく今日起きたこと、それに出会った
人のことはいったんすべて忘れることにしよう。ここはほ
んとにおれが若いとき、初めて来たときに目にしたS温泉
だろうか?古すぎる)
 Y駅前までMはB子といっしょだった。
 あれこれと彼女と話すひまもない。
 大月駅で最初に会った女友だちに、まるで背中を押され
るようにして、線路伝いの路地の奥に歩き去った。
 熱くて、これ以上、続けてつかっていると湯に上がって
しまうと思ったMは、すばやく立ち上がった。
 左手で持ったタオルで、からだの前の部分を隠すしぐさ
を忘れない。
 湯船をふくめ、たたみ六畳分くらいの浴室である。
 ガラス戸を開けるとすぐの更衣室。
 小さなストーブが、狭い空間を充分にあっためていた。
 用意していた新しい肌着を身に着けてから、宿の浴衣に
手をとおす。
 四畳半の部屋の真ん中にしつらえられたテーブルの上に、
今夜の料理がすでに準備されていた。
 アルコールランプの火がめずらしい。
 金属製の小さな鼎台の上に置かれた土鍋の中で煮ものの
中から椎茸をひとつ箸でつまんだ。
 歯でぐっとかむと口の中いっぱいに秋の味がひろがった。
 (刺身やエビといった海のものもいいが、やはり山には
山のものがいい。このワサビなんか絶品だね)
 箸で少しつまんで口に入れると、鼻につうんと来る。
 その感覚に誘われるように、宿の玄関先で会った七十が
らみの女将さんの方言をまじえた挨拶を思いだした。
 「へえ、四十年も前に、この市の大学で勉強されてたっ
て、そんでもって久しぶりにT市に来られた。そら、びっ
くりしたってしょうがないずらね」
 「はい。まったく、わたしはヒマジンなもので」
 Mは頭をかいた。
 「ずっとこの宿にいたずらよ。その当時、わたしはいく
つだったろ?やっぱ思いださないほうが身のためずらね」
 と言って、豪快に笑った。
 「こちら、お客さん、食べられるかね?」
 彼女が小皿に盛ってMの見たこともない黒っぽい、長さ
三センチくらいのチョークのような代物をさしだす。
 「あれ?これは?」
 「フキの煮物ずら」
 「へえ、こんなになるまで煮るのですか」
 「そう、この辺りじゃ昔からね、良かったら食べてみて
下さい」
 「ええ、いただいてみます。ビールのつまみにちょうど
いいようだし」
 Mは早くのどの渇きをいやしたかった。
 女将は手慣れたもの、良く冷えた瓶ビールの栓をコンッ
と音立てて抜くと、
 「さあ、召し上がれ。遠いところまでようこそお越しく
ださいました」
 着物の袖が垂れぬよう、片方の手でそっと袖を持ちあげ
るしぐさがとても自然なもの。
 (無用の用とはこういうことか……)
 たちまち、Mはいい気分にひたることができた。
 
コメント (1)
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