Think Globally, Act Regionally:『言葉の背景、カルチャーからの解放、日本人はどこへ往く』

身のまわりに見受けられるようになった「グローバル化」と生きる上での大事な「こころの健康」。さまざまな観点から考えます。

●第4回「批判するって、どういうこと? (健全なる批判精神のかたち)」

2007-04-08 10:24:06 | ■カルチャからの解放

●第4回「批判するって、どういうこと?(健全なる批判精神のかたち)」

欧米人の考え方、文化の背景には、「健全な批判精神」があるように思われる。

欧米系の大学、大学院では、Critical Thinking/Reading/Analizing(批判的精神を持って考える/批判的精神を持って読む/批判的精神を持って分析する)、というのが常識らしい。

一方、日本語で、『批判的に』」というと、「反対する」、「反論する」というような相手を陥れる、あるいは、相手と(妥協点・解決方法を見つけるのではなく)議論するという受取り方が一般的だと思います。

欧米流の「批判的精神」に基づいて、考えること、読むこと、分析することには、一つのルールがあるようです。

つまり、(よりよい解決策を求めるために)批判的に考えること/読むことでは、

一般的に認められたアイデア、信念、価値や行動を規定している「前提/仮説」が何なのかを探し、それが正しいのか公平なのかについて議論する(あるいは自問自答する)。
それには、積極的な疑問をまず投げかけてみる。つまり、最初から、味方や敵と判断して肯定的か否定的かを基準に議論を進めるのではなく、よりよい解決策を求めるといった生産的な議論を行うことだと考えられる。
お互い証拠や根拠を示しながら、(生産的な)議論の過程で、相手を説得する試み、のようだ。これは、欧米では、議論が合理的、理知的な土台からなっているようで、反省的熟慮的な懐疑主義とも呼ばれている。
どうも、ここら辺の議論のアプローチ、議論する場合のルール(土台)が、権威主義的な日本と相当違うような気がしてならない。

ここでは、別に、日本の議論のやり方がおかしいと言っているわけではなく、欧米人と議論する場合は、彼らのルールを踏まえた方がベターなんじゃないかなと考えている次第。さらに、彼らのルールで優れているものは、取り入れるべきじゃないかとも思う。

批判的に分析するとは、

その筆者(話者)の内容を、その強み/弱みを検討し、彼/彼女がよって立つ見方/観点が何なのかを考えながら、自分なりに判断を下し、評価することが必要。その場合、他者の別な意見と比較対照しながら、評価をする。評価とは、フィルターの役割を果たすもので、吸収するスポンジであってはならない。当然、自分の評価は根拠がなくてはいけません。

次のようなことを自問自答しながら、分析をはじめます。

この筆者/話者は、どんなスタンス(立場)に立っているのか。
バイアス(偏見や先入観)はないのか。
彼/彼女の意図は。
(言っていることの)主旨あるいは主張は何なのか。
どんな一次・二次ソースが使われているのか。
言っていることを支えている証拠や根拠は何なのか。その根拠は確固たるものか、信頼できるか。
彼/彼女が述べていないこと、言い残していることは何なのか。
自分の知識・経験から判断して、そのアイデア、主張、言葉、支持していることについて、自分はどう考えるのか。
著者/話し手は、自分の言いたいことをどのようにうまく組み立て、相手を説得できたか。

この欧米的批判手法は、ブレンストーミングをやる時に、決められている約束みたいなものですね。

更に、Writing(英文) の基本として、最初に言われるのが、Task Response=質問に的確に答えているか、的のはずれた記述になっていないか、です。

これはWritingではなく、Speakingの分野になりますが、欧米のニュース・議論を見ていると、このTask Responseの能力が、 どうも、その人の能力、信頼性、誠実さと繋がっているようです。この点、日本の政治家の受け答えは、禅問答のまんまで、これを受容している報道機関の役割は何なのかなって、いつも疑問ギモンの連続です。

「これが日本文化よって」、今後もすまされるものでしょうか。

※広辞苑第五版には、批判とは、「人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的な内容のものをいう場合が多い」と記されている。