Think Globally, Act Regionally:『言葉の背景、カルチャーからの解放、日本人はどこへ往く』

身のまわりに見受けられるようになった「グローバル化」と生きる上での大事な「こころの健康」。さまざまな観点から考えます。

●第20回「優秀な官僚大国による日本とは?(改訂版)」

2007-09-19 21:55:35 | ■日本人はどこへ往く?

■優秀な官僚大国による日本とは?(改訂版)

日本で数少ないジャーナリストの一人、田原総一朗氏が、「公務員制度改革(行政改革)」と安倍政権倒閣の関係について、官僚と新聞の役割を中心に分析している。

社会保険庁の解体と民営化、公務員の天下り改革については、当然のごとく、官僚は反対している。そのため、公務員制度改革を進めようとしている安倍政権を倒すために、官僚自らが、社会保険庁のお粗末な年金記録管理の実態を、野党、週刊誌、新聞に「自爆テロ的に」リークしたのだという。その理由は、参議院選挙で自民党が負けて安倍首相が退陣すれば、社会保険庁改革が消えるというわけになる。

 もう一つが天下り。『渡辺喜美行革担当大臣が提示してこれからやろうとしている「官民人材交流センター(新・人材バンク)」は、官僚の天下りの権限を官房長から取り上げるものだ。』つまり、官房長という官僚の権限を取り上げ、人材バンクが斡旋する。『人材バンクの設置は、現役を去った以後の官僚のサイクルを断ち切ることになる。これは大変な問題だ。』と、田原氏は述べる。

『官僚が公務員改革に反対するのはわかるが、なぜメディアも反対するのか。』

田原氏は、続ける。『ある新聞社の幹部は、「そんな改革をやったら優秀な人間が官僚にならなくなる。そうなると日本の行く末が思いやられる。だから断固反対する」と僕に語った。また、マスコミはなんだかんだいっても主な情報源は官僚たちだから、官僚たちが反安倍政権になるとマスコミも安倍不支持となるのだ。』

おう、これは、マスコミの権力の乱用なのではないかしらん、と思ってしまう。
政治家や官僚以上に、マスメディアには、お上(権力者、支配者)意識があるようだ。

次に、猪瀬直樹氏の最新記事だ。
彼の論旨はこうだ。
まず、日本の権力構造を分析する。
「日本の権力構造には中枢が存在しない。1府12省がそれぞれ権力を持ち、13の小政府を形成している。だが統一政府は存在しない。」
次に、官邸の役割を述べる。小泉元首相は、官邸主導の政治を推進し、統一政府を目指した。安倍前首相もそれを引き継ぐはずだったが、意志半ばにして挫折。

「官邸を権力の中枢として確立するためには、情報と権限を独占している官僚機構と戦わなければならない。」
それができなくなった今、
再び中枢不在の「官僚主権」が台頭する、と予言している。

また、「いまも昔も官僚は、改革に対する「抵抗勢力」だ」と。
(この記事は同時に、中世から明治維新後の政治家と官僚との歴史が述べられている)

日本の権力構造には中枢が存在しないという説は、今年7月に亡くなられた河合隼雄さんの日本文化の「中空構造」(日本人の心の深層を解明するモデルとしての『古事記』神話における中空・均衡構造)とまさに同じ特徴になっている。

なんと、とても長~い時代、日本の権力は、しもべ(市民)にはわからないようになっているんですね。
田原氏の言われる、「マスコミの主な情報源は官僚だ」をあわせて考えると、どうも、この情報社会の真っ只中で、日本国を最終的に動かしているのは、情報を握っている「官僚超大国」ということになってしまいますが、どうなのでしょう。


官僚主導で失敗した石油開発について、産経新聞の田村秀男は、執拗に天下り官僚の責任を問うている。

たとえば、「1900億円の欠損を出して2000年に解散した日中石油開発は中国・渤海鉱区を放棄した。そこで日本のパートナーだった中国海洋石油総公司(CNOOC)が有望油田を相次いで発見し、増産にわいている」ことを石油開発会社の首脳(経産省の天下り)に問う。首脳は、一様に「そりゃ、初耳だ」。
旧石油公団の技術専門者によれば、「当時の探鉱技術は深層域が対象。日本には浅層域の探査技術が乏しかった」。CNOOCは、日本が中国・渤海鉱区を放棄したあと、欧米の民間企業の探鉱技術を使い、浅層域で掘り当てた、ということです。

官僚の縦割り行政の弊害を書いているのが、同じく産経新聞の高畑昭男だ。

海の監視システム整備のため、日本版国家安全保障会議(NSC)創設をめざす、小川和久氏(軍事アナリスト)についてのレポートだ。船のチェックポイント、無人電子ブイによる電子認証と衛星によるチェックシステムを提唱している。こうした発想は、現在の縦割り行政の仕組みの中では、出てこないし、官僚自身も、そのような「柔軟な発想ができない」ともらしている。

いつから日本人は、伝統的な「謙虚さ」という徳をなくしてしまったのだろうか。

これも、古事記時代から脈々と続く、日本的権力構造の結果であり、西欧的な権力の中心統合を望むのは、夢なのだろうか。

【参考】
■田原総一朗の政財界「ここだけの話」
第20回 安倍政権の倒閣を企てた官僚たちの二重クーデター (2007/07/19)
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070719_20th/

■猪瀬直樹の「眼からウロコ」安倍首相の辞任で再び中枢不在の「官僚主権」が台頭する(2007年9月18日)
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/inose/070918_8th/

■『中空構造日本の深層』(中公文庫・中央公論新社)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E7%A9%BA%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4122033322

■【やばいぞ日本】第2部 資源ウオーズ(10)官僚がつぶす石油開発(産経新聞SankeiWEB)
http://www.sankei.co.jp/keizai/sangyo/070829/sng070829001.htm

■【やばいぞ日本】見えない敵(9)官僚自ら「柔軟な発想無理」 (産経新聞SankeiWEB)
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070724/ssk070724000.htm
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●第19回「リラックス言語とディスカッション言語~日本語は、非論理的か?」

2007-09-01 22:55:29 | ■ことばの背景(英語と日本語の備忘メモ)

●リラックス言語とディスカッション言語
~日本語は、非論理的か?

Critical Thinking のクラスで、面白い論文が取り上げられた。

「オーストラリアで勉強している東南アジア留学生への誤った共通認識」がそれで、以下5つの(誤)認識が述べられている。

東南アジアからの留学生は、
1.学習への表面的なアプローチをする暗記型学習者である。
2.受動的な学習者で、授業に参加しない。
3.自国の留学生で固まり、地元オーストラリアの学生と交わりたくない。
4.分析やクリティカル・シンキングのスキルがない。
5.彼らの学習法は、なかなかオーストラリアのやり方に調整できない。
というもので、これらの認識は、オーストラリアの教育界では一般的だった(今でもそうなのかも)らしい。

論文では、この一つ一つに、実証的な反論をして、誤認識だという結論に至っている。

でも、この論文を読みながら考えたのは、これは、東南アジア留学生だけではなくて、日本人留学生でも当てはまりそうだということです。

上の1、2、4、5をまとめると、オーストラリア(だけではなく、西欧的だと言える)の理想的学習者は、

暗記型ではなく、分析やクリティカル・シンキングが基本で、授業には積極的に参加する、能動的な学習者である、ということになる。

さて、今日の議論は、この論文の中ではなく、もう少し、広い議論なのです。

『日本語は、あいまいで論理的でないとか、日本人は論理的でない』と西欧人からよく聞かされる言葉だけれど、
本当にそうなのかを、考えてみたい。

今日の仮説:
『日本語は本来リラックス言語で、英語はディスカッション言語なんじゃないの?』

週末は、よく近くの Yarra Bend Park へウォーキングへ行きます。
この山あり、谷あり、川ありの公園を踏破するには、3時間以上かかるくらいの広さです。
こちらメルボルン市民は自転車に乗るのが好きで、週末には、かなりの数のサイクリストがこの公園を走り回っています。日本では鎌倉の山道をハイキングするようなもので、メルボルンではシティ(中心地)から30分の公園でも、このリゾート感覚を楽しめるのが、特徴です。

さて、川沿いのお気に入りコース(幅50センチ位の細道)を高野山の修行者をイメージし早歩しながら、上記のことが浮かびました。

そもそも、日本語での会話の目的って、なんか疑問を解こうとか、口に出してお互いの意見を交流する、というところにはないのでは。そうじゃなくて、日本語は、会話して、良い人間関係をつくる、維持するのが目的の言語なんじゃないのかなって。

日本社会は、「内と外」の区別があって、日本語は、内でのリラックスを求める会話というか、団欒が基本になっている言葉じゃないのかって思う。
だから、日本語会話が論理的になっていない、という外国人の指摘は的を得ているかもしれません。

でも、外の仕事場での会話、特に仕事中の日本語は、日常会話とは大きな相違がある。それは、仕事や学問の分野では、日本人は、(非常に)論理的だと思います。
一方、英語西欧文化の人々にとっては、内も外もない、すべてが、論理的に会話する!
仕事場でも、論理的でないとおかしいし、家庭でも、議論が当たり前。今いるシェアハウスのカップルは、しょっちゅう、論理的に議論していますし。
どこで、くつろいでいるのやらって思います。
リラックスになるのには、日本語を学習するのもひとつの手かもしれません。

ところで、冒頭の「誤認識」の議論にもどりましょう。
クリティカル・シンキング(含むクリティカル・リーディング、ライティング)は、
「学習によって獲得できる」、
というのが私の経験的結論です。

当然、英語を話したり、書いたりするときは、論理的であるのが必要条件で、
かつ
クリティカルでなければ十分になりません。
論理的であろうとするところは、日本の大学ではやっていないようですが、いかがでしょうか。
日本の大学院の修士か博士課程では、論理的かつクリティカル・ライティングをやっているかも知れません。
あの大前研一氏主催の大学院では、論理の権化のような学院長のもと、クリティカル・シンキングが厳しく実施されているようです。

それでは、どのような方法によって、クリティカル・シンキングが獲得できるのでしょうか。

別の機会にそれをお話しましょう。

【参考】
Charlmers, D. and Volet S. (1997). Common Misconceptions about Students from South-East Asia Studying in Australia, Higher Education Research & Development, Vol. 16, No.1

Yarra Bend Park:
http://www.parkweb.vic.gov.au/1park_display.cfm?park=225
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