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ハーフマラソンに出た感想「ありがとう!」

2024-01-21 23:43:29 | 日記

 先日高槻のハーフマラソンに初めて参加しました。マラソン自体初めての経験で、今日はその感想です。

 マラソンに参加する思いは人によってさまざまだと思いますが、私の場合は高槻市の現場で失敗というか、高槻での出来事がきっかけで、その反省を機に残りの人生天を見上げて本名で生きていきたい、人生の分岐点にしたいと決心したからでした。

 本名に関して言えば、私はこの日本という国に在日とし生まれてきたこと事態、あまり喜べず悔やんでおりました。しかし救い主イエス・キリストとの出会いによって、自分の存在やルーツをも受け止められるようになり、むしろ在日であったからこそイエス様の愛、そして私へのお取り扱いを知り、逆に感謝さえ覚えるように変えられました。そして、それから同郷の人にもこのお方を証することが、私の人生に与えられた神様から頂いた使命の一つであることも受け止めるようになりました。それ以降、本名で生きていくことも数年おきには真剣に考えるようになりました。しかし結局は慣れてきた日本名から、わざわざ本名で生きることは、デメリットはあっても、メリットがあるとは思えず決断に至ることはありませんでした。

 しかし、今回高槻市で働くなか、自分はクリスチャンとは言っているものの、今でもそうなんですが、己の醜さを痛感することがありました。そんな時、通勤途中にradikoで聞いていた「世の光」というラジオ番組で、当日のメッセンジャーのお話が、一人の在日の中学生か高校生の女の子が、ピリピ人への手紙3章20節のみことば(しかし、わたしたちの国籍は天にあるのです)から「先生、わたし本名で生きていくことを決心しました!」という証を聞きました。

 時々耳にするような在日事情の話でありました。しかし、同じ日の朝、私自身が神様から聞いていた聖書箇所の申命記28章10節には、「地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。」との神様のみことばがありました。

 正しい解釈ではなかったのかもしれませんが、そのみことばを思い巡らしていると、名前のことを考える以前に、まず私たちが恵みによって神様のものとされているんだ、と思いました。すると、もはや名前でのメリットやデメリット云々ではなく、神様の子供とされていることに、もはや恐れや心配は不思議となくなりました。今こそは神様によって与えられた機会であり、神様ご自身が私の背中を押してくださっておられることを感じました。

 むしろデメリットがあったとしても、在日として生まれてきたのなら、在日としてあたりまえに生きていきたい、たとえ不利益を被ることや時代が悪くなっていき百回困難なことがあったとしても、一回でも私と同じような在日と出会い、その一人にでもイエス様の愛を伝えていくことが出来るならば、と前向きに考えられるようになりました。

★「…むしろ神の民とともに苦しむことを選びとりました…。」(ヘブル11:25)

 話が長くなりそうなので、まとめに向かって頑張ります。

 私にとって高槻は、本名を決断した地であり、人生の分岐点であり、残りの人生を天国を見上げながら生きることを願うようになった地です。また高槻は、民や将軍にも仕え神様の愛に生きることを貫き、しかし信仰を捨てるように迫ってきた将軍の命令よりも神様を恐れたキリシタン大名、高山右近の地でもあります。

 しかし、いつまでもたっても私は神様よりも人々を恐れ、自分の決心がいかに脆いかを知っているので、今回の決心を忘れずに生きていく為、この地で開催されるマラソンレースに出場して、いつも決断した思いを忘れず、いつでも思いを新たにして歩みたいと願うようになりました。自分の決心が弱いと分かっているからこその道しるべです。(ヨシュア4:6)

  正直一つだけ気になったのは、キリスト者のしるしと言ってもよい、礼拝という大切な集まりの日に開催される、ということでした。(出31:13)

 この決心は、あくまでも神様と自分との関係なのかもしれませんが、それだけではなく、神様の民が共に神様の御前に立つということは大切です(申命記29:15)。周りに躓きは与えたくはない…。感謝なのは、私がそんな決心をしても、すぐ近くで「その日の礼拝はどうするの?」としっかり言ってくれる妻や、教会学校に娘を連れて一緒に行けなくなるので、「◯◯ちゃんはどうするの?」と娘のことや私の行動も気にかけ、あるべき質問を真っ直ぐに言ってくれる信仰の家族が側にいてくれることに感謝を覚えました。しかし、そんな後ろめたさも少し感じながらの高槻ハーフマラソンでした。

 しかし、出場して良かったです。この地で与えられた出来事と抱いた決心をさらに大切にして歩んで生きていきたい、今回このような決心へと導かれたことは本当に良かった、とさらに強く思うようになりました。

 いつも練習でも走る時は背中を押してくれる曲を聞いています。スタートの直前にランダムで流れてきた曲は、10代の頃よく聞いていた杏里の「砂浜」でした。曲の主人公の僕が、いつも訪れる場所は「とある砂浜」です。しかし私にとっての場所は「人生の分岐点となることを決心した高槻」です。スタート直前大勢いる人混みのなかでも音楽を再生したら、思わず感極まってしまいました。サングラスをしていてよかったです。そしてコースは摂津峡とか景色の良い山の方に向かって戻って来るくもんだとばかり思っておりましたが、全くの予想外で、私が携わらせて頂いた現場を小高い堤防から眺めながら走れたり、残念ながら分岐点という物はなかったですが、中間地点辺りで堤防を一時降りると、まさかの現場事務所を横切るコースでした。走りながらいろんな思いが込み上げてきました。

 レース自体は、“完走を目指す”人の集団でスタートしたので、10キロあたりまでは、ゆっくりすし詰め状態。相変わらず写真も撮る余裕もありました(今回の参加は記録よりも記憶です!www)。しかし、中間地点の10キロを過ぎた現場事務所辺りを過ぎてからは足が重たくなり始め、そこからは真剣に走りました。15キロを過ぎた辺りからは足全体が痛くなり、痛みをこらえて走りました。調整不足ですし、昔のバイク事故の古傷もあります…。それでも制限時間の約10分前に関所も通過して完走することは出来ました。

  ハーフといえども、今回しんどくなってきた後半あたりから思ったのは、まだまだ人生の分岐点を通過したに過ぎないですが、ここからがマラソンと同じようにしんどくなっていくのかもしれない、と考えました。そして次のみことばが心に思い浮かびました。

★こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:1,2)

 私もそれを得られるよう、御跡に従って行けるように、イエス様ご自身が模範となり目標に向かって完走されたこと、今も私の背中を押していてくださること、そして良いゴールを果たすことが出来る様に、信仰の先人たちや信仰の友を与えてくださっておられる事実を思いました。

 午後はその現場の時にお世話になっていた教会で、その群れの関西地区の新年の集まり(聖会)があったので、途中からでしたが参加出来ました。懐かしい顔ぶれと、お会いしたかったファミリーにもようやくお会いすることも出来、とても感謝でした。また、その集会の講師は、神戸の神学校の校長先生で、私がこのような決断をして以後、自然とよく考えるようになった、ローマ人への手紙の12章1~8節の聖書箇所からの奨励でした。

 メッセージのほんの一部分ですが、神様に喜ばれる生き方を求める”心の一心”さえも神様によって与えられ、またクリスチャンの交わりの中で育まれること。そして神様から与えられる風を止めないで広げて歩んでいきたい、と心新たにされました。

 神様のあわれみと恵みのなかで、来年も物理的に可能なら高槻のハーフマラソンには出場したいと願います。

 翌日は膝周りが固まり痛みも酷く、ベットから起きて横に座るだけでもしばらく時間がかかってしまいました。もしかしたら今日は現場に行けないかも、やってしまったかも…と思いましたが、棒のように固まった足を引きずって何とか行けました。ラジオ体操も下半身は棒状態のままでしたが上半身だけは一生懸命動かしました。フルマラソン完走出来る人を尊敬します。

 最後に独り言にはなってしまいますが、心から思っいることを綴らせてください。

 私にとって、どこの元請けであれ現場であれ、神様が遣わしてくださった尊い現場であり、人には見えない場所も眼差しておられる主に対して働きたく願っております(コロサイ3:22,23)。しかし、それでも敢えて綴らせていただきます。

 

 私にとってはどこの現場であっても、ありがたい思いで働いているけど、高槻の現場よ、私が今まで働いたどこの現場よりも本当に本当にありがとう😆💕✨

 もう一度言います! 高槻の現場よ、私が今まで働いてきた現場のなかで、どこよりもどこよりも本当に本当にありがとう😂❗

 主よ。高槻の現場に導いてくださって本当に感謝します。

 주여,高槻의 건설현장의 이끌어주쇼서 정말 감사합니다 !

 

 

 

 

 


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