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在日4Kの気ままなブログ。

罪人を招くために来られたお方

2024-01-19 20:38:03 | 日記

 今日は週末で帰省中だけれど簡単にブログを書こうと思います。

 今の現場は今日で一区切りで一時中断。来週から二週間だけ福井の山奥へ。現場側からはタイヤチェーン持参の要請があったくらいで、なにかとリスクは高いので少し気が重いです。

 日曜日はハーフマラソン。音楽無しで走り続けるのは無理なので、今から当日のプレイリストを選択しながら楽しんでいます。

 もうけっこうなおじさんだけれど、走る時にはもっぱら軽快なJ-POPかK-POP。昨年は大瀧詠一さんが没後10年目だったのでよく聞きました。他者へ楽曲を提供したものより自身の独特な歌い方のほうがいいですね。そして、走る時に相性がいいのは幾田りらさんの歌声。初めて歌声を聞いた時は、これまでに聞いたことのない新しい感じの歌声だなあ、と思いました。その歌声には最近の目覚ましでも世話になっており、心地ちよく起きれます。昨年の紅白では、存在感溢れていましたが、やはり評価されるだけのものがあるんだなあ、と感じました。後は娘の影響でよく聞くようになったIUとTREASUREなんかです。明後日の本番が楽しみです。

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【今日の聖書日記】(マタイの福音書 9章1~13節)

 今日の出来事や登場人物のなかで、どれも共通すると思えたのは「心の中」だと思いました。

 中風(ちゅうぶで聖書の脚注を見ると「からだが麻痺した人」とありました。)の人を含めて、床に寝かせたまま、みもとに運んで来た、とあります。

 他の福音書の並行記事によると、多くの人が集まったので隙間もないほどになり、屋根をはがして御前に寝床のままつり降ろした、とあります。

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」と言われました。

 彼らには予想外のお言葉だったかもしれないけれど、イエス様はそこまでしてまでもイエス様の前にお連れしようとする彼らの信仰(疑わず求める心)を喜ばれました。(ヘブル11:6)

 それに対して、その場に居合わせた何人かの律法学者は、“心の中で”、「この人は神を冒涜している」と言いました。

 それに対して、彼らの思いを知ってイエス様は「なぜ心の中で悪いこと(神の御前に間違っている)を考えているのか」と言われ、中風の人への言葉だけでなく実際に癒され、ご自身が罪を赦す権威をお持ちのお方であることも示されました。

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 次は、この福音書の著者でもあるマタイがイエス様に召される場面。

 マタイは収税所に座っていました。 

 収税人は、当時の町の通行の要所などにあって、通行税や物品税を徴収していた職業で、ローマ帝国に税を納める手先でもあったり、余計に徴収したりして私腹を肥やしたり、当時の同胞や宗教家からは軽蔑され、罪人とのレッテルを貼られていました。

 しかし、イエス様は、人々が軽蔑する仕事場にいるマタイに「わたしについて来なさい」と声をかけられましたが、マタイの心はいかばかりだったでしょうか。イエス様からお声をかけて頂けるとは思いもよらなかったでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。

 この福音書の執筆者自身の経験を、とても簡潔に記していますが、その喜びは、収税所から立ち上がった(イエス様に従う人生を選択)ことと、イエス様を家に招いて、そこに同業者たちをも招いていたことからも(マルコ2:15「レビはマタイのこと」)分かります。

  すると、その罪人たちと交流するイエス様の様子を見た宗教家たちは、お弟子さんたちに向けて疑問を呈しました。

 これを聞かれたイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くだめです。」と断言されました。

 宗教家たちのイエス様の行動に対する不可解な心の思いを正されました。

 私自身も、心の中をイエス様に覗かれては、もう神様の御前には立つことは出来ません。イエス様が宗教家たちを糾弾されたように、私の心の中も内側は強欲と放縦で満ちています。(マタイ23章)

 ★"ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:5)

 しかし、感謝なことは神様に心の中を見られては、心の貧しさばかり覚える痛者であっても、(マタイ5:3)イエス様の心の中の関心事は、罪人を拒絶するのではなく、罪人を招いて悔い改める為にこの世界に来てくださり、自己中心でしかない私の心をも、イエス様との交わりによって、正しく歩む者としての願いを生じさせてくださる事です。

 次のイエス様のお言葉も思い出しました。

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★見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ヨハネの黙示録3章20節 聖書新改訳2017新日本聖書刊行会

 

 

 


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