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キリストの弟子として

2024-01-16 00:13:22 | 日記

一昨日、土曜日の出来事。

 

次の週末にはハーフマラソンに出る予定があるので、実際の距離を走っておこうと普段は全く走らない所まで足を延ばして走った。

すると、とある主要駅の近くで、これ以上ないタイミングで以前に現場でご一緒になったお客様とばったり出会った。

約5年ぶりの再会だった。

 

相手の方は作業着にヘルメット姿、私はジョギングの格好だったので大変驚かれていた。

このことをきっかけに、仕事の話も進んだ。

 

特に最近、こんなことが続き、人との出会いには、なにか妙な縁のようなものがあるのを感じている。

 

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★今日の聖書日記

 (マタイの福音書 7章1~14節)

 

今日の話しの流れの大前提として、世間一般に対して語られたお言葉ではなく、ご自分のお弟子さんたちに対して語られたイエス様のお言葉で、人をさばかないように、との注意から始まっている。

 

少しオーバーだが、兄弟の目にある小さな“ちり”は気になって仕方ないのに、自分の目にある大きな梁には全く気がつかないで、相手の問題ばかりを処理しよう、とのお言葉に対してである。

 

厳しいお言葉である。

 

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟のめからちりを取り除くことが出来る」と言われている。

 

ここは、自分を正当化するために相手をさばいたり、相手を見下げたりしてさばくことへの警告のようである。

 

次は、真珠を豚に投げないように、との有名なことばである。

 

ここも、相手に対しての警告ではあるが、兄弟に対してではなく、誰に対してもなりふり構わず神様のお言葉を語れ、ということではないみたいである。

 

そして、人生の中でも、良いものを求め続けて生きることを教えておられる。

 

賛美の一節ではないが、父なる神様は求める者たちには良いものを拒まれず、むしろ与え続けてくださるお方でもある。

 

次は、世間にも“ゴールデンルール”として知られているお言葉である。

 

隣人に対して消極的ではなく、“むしろ積極的に与え続ける生き方”としの教えである。

 

最後は、滅びに至る大きな門から入るのではなく、いのちに至るため、狭い門から入り、細い道を歩むように。

 

 

今日の教えから、そのように人々を教え、そのように生きた人物を思い出す。

 

その人は、はじめはクリスチャンたちを迫害し、この世から抹殺することにさえ使命を覚えていたが、しかし復活のキリストに出会ってからは、生き方が180度変わってしまった人物である。

 

はじめはキリストの弟子たちも、その人を仲間にすることを恐れ信じられずにいたが、イエス様ご自身が彼のことを“わたしの選びの器”と説明された。

 

後にキリスト教会最大の伝道者となったパウロのことである。

 

しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。

彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」

しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、

食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、

ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」

使徒の働き 9章 13〜21節

 

そのパウロが、今日のイエス様のお言葉や生き方を模範として実践し、また教会にも遺した言葉の幾つか思い出しました。

 

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私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

コリント人への手紙第一 11章 1節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

ピリピ人への手紙 2章 1〜11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

パウロはミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。

彼らが集まって来たとき、パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。

私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。

益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。

ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。

ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。

ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。

今、私には分かっています。御国を宣べ伝えてあなたがたの間を巡回した私の顔を、あなたがたはだれも二度と見ることがないでしょう。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。

私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。

あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。

このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

 

使徒の働き 20章 17〜35節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

イエス様がお弟子さんたちに語られた生き方を、パウロの生き方から教えられました。

 

 

 


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