本記事は,唐木田健一「“パラダイム転換”からの転換の必要について」『化学史研究』28 (2001),171-174頁にもとづく.
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1.「理論変化」という枠組みの問題
ある読者の指摘によれば,先の『化学史研究』における小論[1]で私は,物理学の基本理論がすべて内部矛盾によって変化するかのような議論をした.これは私が,昨今流行の科学論を批判するため,「理論変化」(あるいは,「パラダイム転換」)という枠組みを採用して考察を展開したため引き起こした誤解である.この「理論変化」という枠組みは,科学の歴史において実際に生じたことを細部まで大切にし一貫して記録しようとするとき,きわめて不都合・不適切なのである.本稿ではこの点について述べたい.
ところで,先の小論の該部分における私の主張のポイントは,
(a)矛盾する実験事実が出ても微動だにしないような信頼度の高い理論が
(b)一部科学論者が「通約不可能」と呼ぶような関係にある別の理論へと転換する場合
は,古い理論内部における矛盾がその転換の原動力になるということであった.
私がこのようなケースを考察したのは,最高に変化を被りにくいと思われる理論が歴史的にいかに変化したかを考察すれば,理論変化の本質を知ることができるのではないかと期待してのことであった.
しかし,私の考察したこのようなケースは,科学史においては,きわめて稀な事態である.実際,ひとつの理論の成立を考察しようとするとき,理論変化という図式は,史的考察のベースとして,著しく一般性に欠けるのである.
理論変化によってある理論〔B〕が生じたという場合,それに先立ってその理論と同様な規模と対象領域をもったもうひとつ別の理論〔A〕の存在が想定されるであろう.すなわち,理論変化「A→B」である.この典型には「コペルニクス的転換」,すなわち「プトレマイオス天動説→コペルニクス地動説」がある.ほかの例としては,「ニュートン力学→特殊相対性理論」および「ニュートン力学→量子力学」をあげることができるであろう.後者の二つは私も先の小論で扱った.
しかしながら,ここで注意すべきは,特殊相対性理論の形成には,ニュートン力学だけでなく,マクスウェル電磁気学が深く関わっていたという事実である.アインシュタインの原論文は「I.運動学の部」と「II.電気力学の部」の二部構成からなるが,その第II部はアインシュタインのいう「マクスウェル-ヘルツ方程式」の展開で埋め尽くされている[2].
また,量子力学の形成においては,熱力学や統計力学,波動理論,電磁気学,などが関与している.そもそも,量子力学形成の発端となった黒体輻射現象は,ニュートン力学のみで扱える対象などではない.
だから,特殊相対性理論や量子力学の形成の場合,「理論変化」というのは,単に結果としてそのようにまとめられるということに過ぎない.歴史を動的に考察すれば,それら二つの理論の形成に関与した主要理論は,ニュートン力学だけではないのである.私が「古い理論内部における矛盾」といった場合の「古い理論」の範囲の設定には,まさに発見者を際立たせる独自な着眼が関わっているのである[3].
都城秋穂はその著書『科学革命とは何か』のなかで,プレートテクトニクス理論に先立っては(都城のいわゆる厳密な意味での)パラダイムは存在しなかったと指摘している[4].すなわち,プレートテクトニクス革命はパラダイム転換ではなかったというのが都城の結論である.同様なことは,他の多くの理論の形成にも当てはまる.たとえば,ニュートン力学は何から変化したものか? ドルトン原子論は? ダーウィン進化論は? いずれの問いもほとんど意味をなさぬであろう.
このように,「理論変化」という図式は,特別な場合にしか成立しない.今後はそんな枠組みからは解放され,「新理論の形成」としてもっと生き生きと考察がなされるべきである.新理論の形成がパラダイム転換で,それは合理的には説明ができず,両パラダイムは通約不可能である,などというばかげた主張にはもう静かに退場を願いたい.
2.理論形成の要因――首尾一貫性の追求
新理論の形成においては,既存の諸理論・諸概念・諸法則・諸事実における「首尾一貫性」(“consistency”,「一致」)の追求が重要である.一般相対性理論は,慣性質量と重力質量の一致を前提として誕生した[5].ニュートン力学やドルトン原子論は,それまでに蓄積された諸法則・諸事実を一貫して統一する理論として提起された.プレートテクトニクス理論も同様である.それらは,「一般化」を中心とした理論形成である.すなわち,それまで独立とみられていた諸要素がより広い枠組みのなかに系統的に位置づけられるものである.
さまざまな要素からなる対象において首尾一貫性を追求すれば,「欠如」あるいは「矛盾」(という《対象の否定性》)が浮かび上がってくることもある[6].欠如とは元来存在しないものである.(それは単に欠けているのである.) 欠如はある一貫した枠組みのなかでのみ明らかとなる.(ジグソーパズルにおいて,欠けている破片は,他の多くの諸破片が秩序立てられたとき明確となるように.) メンデレーフは元素の周期律という秩序を仮定し,そのなかで欠けている要素を見出して,新元素の存在を予言した.
矛盾も欠如と同様である.どんな矛によっても破れない盾と,どんな盾をも突き通す矛は,それぞれ単独では存在し得る.両者がひとつの枠組みのなかで一貫して考察されたとき,矛盾となるのである.矛盾が理論形成に重要な役割を果たすことは,先の小論を含め,私はすでにいろいろな場所で論じた[7].
3.理論間の関係――「革新」と「革命」
よく議論されるように,特殊相対性理論の方程式ではc→∞の極限でニュートン力学の式が導出されるし,量子力学ではWKB近似といわれる操作により,h→0の極限でニュートン力学との対応が得られる.これは,物理学の常識にしたがえば,特殊相対性理論と量子力学は,その極限においてニュートン力学を含むことを意味する.
ところで,「その極限において含む」ということは,現実には含んでいないということである.これは,特殊相対性理論および量子力学とニュートン力学との間の自然観の断絶といわれるものを表現する.このような断絶を含む理論形成を,私は「革命」と呼んだ.コペルニクス的転換にも明らかな自然観の断絶が含まれており,したがってそれは「革命」に分類することができる.
一方,一般相対性理論においては,リーマン・クリストッフェルのテンソルKkji hを零,すなわち基本計量テンソルgjiの値がすべて定数となるような座標系とすれば,特殊相対性理論のケースとなる.そこに極限操作はない.これは,一般相対性理論が特殊相対性理論をそのまま含むことを意味する.両者の間に自然観の断絶はなく,一方において他方が(文字通り)一般化されているのである.私は,このような理論形成を「革新」と呼んだ[8].一般化による理論の形成はすべて「革新」に分類される.したがって,この用語法によれば,ニュートン力学やドルトン原子論,プレートテクトニクス理論の形成もすべて革新である.
革新においては,新理論に先立つ諸理論・諸概念・諸法則・諸事実のうち,あるものは新理論にそのまま位置づけられるし,別のものは修正されることによって受け入れられ,さらにあるものは否定されることになる.これらの錯綜する関係を,単に「理論変化」とか「通約不可能性」などの概念で括ってしまう危険は明らかであろう.
革命によって隔てられた理論AとBにおいては,AからBへの断絶はあるが,BによってAは理解できる.この二つの水準AとBの関係を,私は「のりこえの構造」あるいは「半通約不可能性」と呼んだ[9].
一般化による理論形成(「革新」)においても,この構造は成立している.この場合,既存の諸理論・諸概念・諸法則・諸事実が水準A,そして新しい理論は水準Bを構成する.AはBの母体であるが,AからBが演繹されるわけではないし,BをAに還元することもできない.ただし,Aを構成する諸要素の意味は,Bによって理解できる.たとえば,ケプラーの諸法則の意味はニュートン力学によって理解できるし,質量保存の法則や定比例の法則(あるいは倍数比例の法則)はドルトン原子論によって自明なものとして受け入れられることができる.
枠組みの異なる二つの理論の間が通約不可能であるという主張は,通俗的な科学論においては重要な教義であったが,すでにその破綻は明らかであろう.ただし,ここでは,次の点を指摘しておきたい.問題は,この概念が,結構一部の科学者たちに受け入れられているという事実である.それら科学者たちは,通約不可能性をある種の経験的事実の表明と受け取っているようである.枠組みの異なった理論・思想の間で言葉が通じにくいということなら,別に一部科学論者などから教えてもらう必要はない.日常実によく経験する事実である.通約不可能性は経験的事実ではなく,一部科学論者たちによって,原理の問題として主張されたのである.この点,妙な思考スタイルが流行らぬよう,現場ではもっと注意が必要である.
4.科学論と倫理
枠組みの異なった思考の間でのコミュニケーションにおいて重要なのは,相手の思考の枠組みに入り,その首尾一貫性を追求することによって内部矛盾がないかを検討することである.これは,私がかつて「倫=理」と記述し[10],柴谷篤弘が「ネオ・アナーキズム」と呼んだ[11]方法である.通約不可能性なる概念が含む倫理的問題は,このようなコミュニケーションの努力を頭からあっさりと否定してしまうことにある[12].
首尾一貫性の追求こそがポイントである.ニュートン力学のような強力無比な理論が他の理論に取って替わられるのも,その内部矛盾の顕在化による.理論における内部矛盾の存在は,その理論により深くコミットした人にとってより深刻なものであり,これが新理論形成の原動力となるのである.
唐木田健一
[1] 唐木田健一「理論評価におけるいわゆる“社会的要因”の関与について」『化学史研究』2000,169-175頁.本ブログ記事では「“社会構築主義”的問題:理論評価に対する“社会的要因”の関与について」.
[2] A. Einstein, ‘Zur Elektrodynamik bewegter Körper’, Annalen der Physik, 17 (1905), pp.891-921. 桂愛景『基礎からの相対性理論』サイエンスハウス(1988).唐木田健一『原論文で学ぶ アインシュタインの相対性理論』ちくま学芸文庫(2012).
[3] 唐木田健一「科学史におけるのりこえの視点」『化学史研究』1988,185-190頁.唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995).本ブログ記事では「理論変化に関わる矛盾の例」.
[4] 都城秋穂『科学革命とは何か』岩波書店(1998).本ブログ記事では「都城秋穂『科学革命とは何か』の紹介」.
[5] 唐木田健一「定量的科学におけるあいまいさについての考察」『化学史研究』1989,49-53頁.本ブログ記事では「定量的科学におけるあいまいさについての考察」.
[6] 桂愛景『サルトルの饗宴』サイエンスハウス(1991).本ブログ記事では「新理論の形成:首尾一貫性,欠如,矛盾,そして弁証法」.
[7] 本ブログ記事では,たとえば「基本理論は自滅することによって完成を迎える(1).理論の内部矛盾の発見とその先鋭化」「基本理論は自滅することによって完成を迎える(2).新理論は内部矛盾ののりこえによって誕生する」.
[8] 「革命」と「革新」については,注7の文献「基本理論は自滅することによって完成を迎える(2).新理論は内部矛盾ののりこえによって誕生する」の最終節参照.この文献の出所は,唐木田健一「理論の発展と完成としての自滅の過程」『科学基礎論研究』16 (1983),17-21頁.
[9] たとえば,本ブログ記事「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的-動的見解”に答える」.
[10] たとえば,本ブログ記事「日本社会の反倫理性と科学論の問題」.
[11] 柴谷篤弘『私にとって科学批判とは何か』サイエンスハウス(1984).
[12] 唐木田健一「創造性論議の落とし穴」『分数ができない大学生』東洋経済新報社(1999),2章.本ブログ記事では「創造を阻むもの」.
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