唐木田健一
帰納主義
科学の性質を解説した本では,最初に「帰納主義」なる考え方の紹介をされることが多い.帰納主義とは,通例にしたがって説明すると,次のようなものである:ある人が初めてカラスという生き物を見た.それは黒かった.別の機会に別のカラスを見たら,それも黒かった.このような経験がつづいたあと,その人は「すべてのカラスは黒い」と結論した.単純化されてはいるが,これが帰納的推論といわれるものである.ここで,「このカラスは黒い」は単称言明,また「すべてのカラスは黒い」を普遍言明という.
帰納主義を批判するポパー[1]は,単称言明から普遍言明への推論は論理的には正当化できないと指摘する.多くのカラスが黒くても,すべてのカラスが黒いことにはならない.とはいえ,黒いカラスを目撃する機会がどんどん増していったとすれば,「すべてのカラスは黒い」ことの確率は高まるのではないか.ポパーはこれにも否定的である.確率を算出するのであれば,その算出法が正当化されなければならない.また,「真である」を「確からしい」に置き換えても,得るところは何もない〔33-34頁〕.
ポパーの反証主義
ポパーは,「帰納主義」に対して,「演繹主義」とでも呼べるものを提案する〔34頁〕.それは,何らかの仕方で新しいアイディア――予知,仮説,理論体系,など(以下,「理論」と総称)――が獲得されたとして[2],そこから論理的演繹によって引き出される諸結論を経験的にテストすることである.そのテストで結論が実証された(verified)とすれば,われわれはその理論を放棄する理由を見出さなかったのである.他方,結論が反証された(falsified)ならば,その結論を派生させた理論も反証されたことになる〔37-38頁〕.
肯定的決定が下されても,それはその理論をただ暫定的に支持しうるに過ぎない.その次のテストで否定的決定が下されれば,その理論は覆されるのである.ある理論が詳細にわたる厳しいテストに耐えている限り,そして科学的進歩の過程で他の理論に取って変わられない限り,その理論は「耐力の証しを立てた」(proved its mettle)あるいは「験証された」(corroborated)ということができる(38頁).
以上のポパーの提案は「反証主義」という名称で知られている.それは,実証可能性と反証可能性との非対称性にもとづくとされる.すなわち,普遍言明は単称言明からは導出できないが,単称言明によって否定はされうるのである〔51頁〕.
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20世紀物理学革命との関係
ポパーの「反証主義」は《科学哲学》なる分野で一世を風靡した.ただその内容は,現実の科学的探究からは著しく乖離しているのである.まずは科学史における大きな場面に着目してみよう.20世紀の初頭には,「神の摂理」とまで考えられていたニュートン力学が覆され,アインシュタインの特殊相対性理論が出現した.しかし,この理論革命において,ニュートン力学を構成する何らかの言明が経験的(実験的)に反証されたわけではない.
マイケルソン-モーリーの実験(1887年)[3]を挙げる人がいるかも知れない.「アインシュタインの特殊相対性理論はマイケルソン-モーリーの実験結果を説明するために提起された」などと説く教科書もかつては存在した.しかし,それが誤りであることは,すでに科学史研究において明らかにされている[4].マイケルソン-モーリーの実験は,多くの物理学者に対し,せいぜいのところ「謎」を提示したに過ぎない.謎とは解くべき課題のことである.また,アインシュタインにとってその結果は,「当然そうなるべきもの」であったと考えられる.
注意してほしい.ニュートン力学は「反証されなかったから暫定的に支持されていた理論」(ポパー,既出)などではない.それは科学者の活動を導く規範であったのである.規範であるような理論(私は「基本理論」と呼んでいる)は,反証事実などではビクともしない.それは規範理論間あるいは規範理論内部の矛盾により,自己否定的に転換を導くのである[5].
ニュートン力学は,反証された〔すなわち,誤りが証明(falsified)された〕理論なのではない.誤った理論であるなら,なぜ現在も高校や大学の(「科学史」ではない)「物理」の時間に講義されつづけているのか.ニュートン力学は特殊相対性理論によってのりこえられることで理論として完成した.すなわち,その適用限界・成立条件が明らかにされたのである.したがってそれは,規範であった理論,完成された理論として,深い教育的意義を有するのである.
ついでに,一般相対性理論に関わることにも触れておく.「水星の近日点の移動」という現象に関し,どうしても説明のできない量が残ることは19世紀の半ばには知られていた(ルベリエ).現在のわれわれはこれがニュートン力学の限界を示すもの,すなわちニュートン力学を《反証する》観察結果であり,アインシュタインの一般相対性理論により初めて説明可能なものであることを知っている.しかし,これによってニュートン力学が覆されることはなかった.
20世紀物理学革命において相対性理論と並ぶ量子力学においても事情は同じである.ここでも,ニュートン力学を含む既存の諸理論における何らかの言明が実験的に反証されたのではない.既存の諸理論の内部に発生した諸矛盾が量子力学を導いたのである[6].
日常における科学的探究
日常における科学的探究を基本理論との関係で模式的に表すと次のようになる:
(1)ある現象に着目し,それを理論的に解明する――すなわち,理論的活動により,その現象を基本理論に取り込む.
(2)基本理論にもとづき,理論的に新しい現象を予知する.
(3)理論的に予知された新現象を実験的に実現する.
これらの活動はすべて基本理論の枠内で行われる.それにより基本理論は内容豊かとなっていくのである.基本理論とは,(先に触れたが)科学者の活動の規範となる理論である.物理学分野での例を示せば,量子力学,特殊および一般相対性理論,電磁気学,熱力学,流体力学,統計力学,等,およびそれらの境界領域の理論である.
基本理論は通常,科学的活動における検証や反証の対象ではない.検証や反証の対象となるのは,基本理論をベースとした理論的あるいは実験的結果である.ここでの活動で検証された理論あるいは実験結果は基本理論に依拠しており,規範に準ずるものとして扱われる.
基本理論の規範性
われわれの実験室においては,「エネルギー保存の法則」や「質量保存の法則」といった大原理の破れていることがしばしば見出される[7].かといってわれわれは「エネルギー保存則を反証した!」として論文を発表することなどしない.そうではなく,誤差評価が適切であったか,実験のどこに見落としがあったのかを改めて調べ直すのである.基本理論やそれを構成する基本原理はわれわれにとっての規範である.それに反する実験結果が出たからといって,それらが廃棄されることなどあり得ないのである.
1925年12月29日,当時アメリカ物理学会会長であったミラーが会長演説において,圧倒的な証拠をもってマイケルソン-モーリーの実験(既出)の「正の効果」を報告した.これは特殊相対性理論を実験的に反証するものであった.しかし,学会ではこの実験にほとんど注意が払われず,その証拠はいずれ誤りであることが明らかになるであろうということで,棚上げされてしまった.アインシュタインの特殊相対性理論の説得力ははるかに圧倒的であって,そんな《証拠》は問題にされなかったのである[8].
最後に,単称言明がいかにして普遍言明となるのかについて触れておこう.「水星の軌道は楕円である」,「金星の軌道は楕円である」,「地球の軌道は楕円である」,などの各々は単称言明である.それらがニュートン力学の体系,すなわち基本理論の中に位置づけられたとき,「惑星の軌道は楕円である」という普遍言明になるのである.そしてこの普遍言明は,相対性理論においても成立しているのである.
[1] Karl R. Popper, The Logic of Scientific Discovery (1959)/大内義一・森博訳『科学的発見の論理』恒星社厚生閣(上1971,下1972).以下,本文に挿入された〔〇〇頁〕は本書におけるページを表わす.
[2] ポパーの著書の題名は「科学的発見の論理」となっているが,彼は「新しいアイディアを手に入れる論理的方法,あるいはこの過程の論理的再構成なるものは存在しない」と述べている〔36頁〕.
[3] この宇宙空間を満たし絶対的に静止していると考えられた光の媒質(エーテル)に対する地球の運動を検出しようとする実験のこと.ここでは,そのような運動は検出されなかったのである.
[4] 西尾成子編『アインシュタイン研究』中央公論社(1977)におけるG.ホルトンや広重徹の論文参照.
[5] 本ブログ記事「基本理論は自滅することによって完成を迎える(1)および(2)」および「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」参照.
[6] 注5の文献および唐木田健一『アインシュタインの物理学革命――理論はいかにして生まれたのか』日本評論社(1981)参照.この本では,量子力学への理論変化の本質が描かれている〔本ブログでは「『アインシュタインの物理学革命』の“はじめに”」〕.
[7] この話題と次のミラーの実験結果についてはポパーも取り上げてはいる〔55-56頁〕.しかし,反証主義者であるにも関わらず/あるいは反証主義者であるため,その内容はまことに不徹底である.
[8] M. Polanyi, Personal Knowledge (1958, 1962)/長尾史郎訳『個人的知識』ハーベスト社(1985),pp.11-13.
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