唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

サルトル『方法の問題』より「マルクス主義と実存主義」.(2)マルクス主義の問題

2024-03-27 | 日記

 ここに掲載するのは先の私のブログ記事「サルトル『方法の問題』より“マルクス主義と実存主義”.(1)哲学と思想」のつづきであり,サルトル『方法の問題』J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)の冒頭部分の私による要約である.文章は平井啓之訳の日本語版『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)に依拠するが,一部表記を変更したところもある.文中の〔○○頁〕は,この日本語版における対応ページである.また,小見出しは私が便宜的に付した.

 ここでサルトルが批判する《マルクス主義者》たちの言動は,現在さまざまなメディアにチョコマカと顔を出す《評論家》・《コメンテーター》たちの一部にほぼそのままあてはまるものである.

唐木田健一

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一 マルクス主義と実存主義

現代の哲学であるマルクス主義の問題

 『方法の問題』において展開される提案と探究は,現代ののりこえ不可能な哲学であるマルクス主義に対する一つの思想としての試みである.何故このような試みが必要であるのか? それはマルクス主義が停滞してしまったためである.今世紀に初めて出現した社会主義国家・ソヴィエト連邦が,自己をつくりかつ防衛するため,理論と実践をそれぞれ別の側にしりぞけてしまったのである〔29下-30上頁〕.その結果として実践は原理を欠いた経験主義となり,また理論は純粋で凝結した知に変わってしまった〔30下頁〕.長い間に渡り,マルクス主義を信奉する知識人は経験を踏みにじり,都合の悪い細部の事情は無視し,与件を大ざっぱに単純化し,とりわけ事件を研究する以前にそれを概念化してしまうことによって社会主義のために寄与していると信じてきた〔30下-31上頁〕.

 同時に,今日,社会的経験は知の外にこぼれ出ている.合衆国の社会学の現実の成果も,その理論的不確定を覆い隠すことはできない.また,精神分析学は初期のめざましい成功のあとに動きがとれなくなってしまった.細部についての知識は数多くあるが,その基盤に欠けているのである.そして,マルクス主義はといえば,それは理論的基礎をそなえていてすべての人間活動を包含することはできるが,しかし,何一つ知ってはいないという事情にある.その諸概念は絶対命令であり,その目的はもはや知識を獲得することではなくて,自らを先験的に絶対知として構成することである〔35下頁〕.

 我々の時代のもっとも目につく性格の一つは,歴史が自らを認識することなしにつくられているということである.いつの時代でも事情は同じであったという人もあるであろう.前世紀の後半までは確かにその意見は通用した;端的に言えばマルクスが出るまでは.マルクス哲学は歴史の過程をその全体において明らかにするための根本的な試みであった.しかし現状はどうか? マルクス哲学は歴史とともに生きることをやめ,官僚的な保守主義によって変化を同一性に還元しようと試みているのである〔36下頁〕.

 だが理解せねばならない.このマルクス主義の硬化症は正常な老化現象ではない.それは特殊な型の世界的な状勢によって生み出されたものである.老化どころではなく,マルクス主義はなおごく年若いのであって,ほとんど幼少期にあるといってよいほどである.その状態でマルクス主義は我々の時代の哲学として留まっている.それを生んだ状況が未だのりこえられていないため,マルクス主義はのりこえることができない.我々の思惟は,どんなものにもせよ,この腐植土の上にしか形成されることはない.思惟はマルクス主義の与える枠内に包含されるべきであり,さもなければ虚ろなものとなって消えてしまうか後退するよりほかはない〔37下-38上頁〕.

 実存主義は,マルクス主義と同様,経験の中に具体的な諸綜合を見出そうとする.実存主義はこの綜合を歴史にほかならぬ動的で弁証法的な全体化作用の内部においてだけ考えることができる.我々実存主義者にとって真理とは成りつつあるものであり,それは現に在り,将来成りおえてしまうはずのものである.それはいわば,たえず全体化されつつある全体化である.個々の事象は,種々の部分的全体の媒介によって進行中の全体化に照合されない限り,何一つ意味することはなく真理でも偽りでもない〔38上頁〕.

 生活のための生産のかなたに,現実的自由の余裕がすべての人のために存在するようになればマルクス主義はその命脈を終えるであろう.自由の哲学がマルクス主義にとって替わるだろう.しかし我々は少なくとも現在のところ,このような自由や哲学を考えることを許すようないかなる手段,いかなる知的用具,いかなる具体的経験も有してはいない〔42上-42下頁〕.

 

二 媒体と補助的諸学の問題

マルクス主義の具体的問題

 今日のマルクス主義は先験的である.それはその諸概念を経験から導出しない;あるいは,少なくとも,それが解読しようと試みている新しい経験からは導出しない.それはその概念をあらかじめ形成ずみであり,その真理性をすでに確信しており,その諸概念に構成的図式としての役割を配分するのみである.その唯一の目標は考察の対象である事件や人物や行為をあらかじめつくられた鋳型の中にはめ込むことである〔50上頁〕.マルクス主義は現実の人間を深く究めるべきであって,それを硫酸風呂の中で溶解すべきではない.手っ取り早い図式的説明は人物たちを消してしまうことであり,さもなければまた,彼らを彼らの階級の純粋に受身の用具あるいはロボットと化してしまうことになる〔56上頁〕.

 マルクスは,もっとも大まかな決定因からもっとも詳細な決定因へと逐次的に進んでいくことによって人間についての知識を弁証法的に生み出そうと試みている.彼は自分の方法を「抽象的なものから具体的なものへと高まりいく」探究として定義している.そして,具体的なものとは,彼にとって,段階的な決定因と現実性との段階を追った全体化であった〔61上-61下頁〕.

 ところが,思惟するとは,現代の多くのマルクス主義者にとって全体化をめざすことであり,そしてこの口実のもとに,特殊を普遍に置き代えてしまうことである〔60下頁〕.この操作により,自分は仮象を真理に還元したのだと信じて満足する〔61上頁〕.

 ヴァレリー(Paul Valéry, 1871-1945)が一個のプチブル・インテリであるということ,このことに疑いはない.しかしすべてのプチブリ・インテリがヴァレリーであるわけではない.現代のマルクス主義の発見学としての不十分さは,この二つの言葉のうちにひそんでいる.与えられた歴史の一時期における与えられた階級と社会との内部において,人間とその人間の所産が産み出される過程をとらえるためには,マルクス主義は段階的な媒体に欠けているのである〔67下頁〕.

 我々はマルクス哲学の諸々のテーゼを裏切ることなしに,独自で具体的なもの,人生,現実的で動かしがたい日付をもった闘争,人間を生産力と生産関係の一般的矛盾をもととして現出させることを可能とするようないくつかの媒体を発見したいと願う〔68上頁〕.

〔唐木田による要約了〕