唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

「科学的」という修飾語は,説明が科学的でないときにしばしば用いられる

2023-11-15 | 日記

 科学者が自己を「科学者」と称することは,特殊な場合を除いて,ほとんどない.まず概念が広すぎる.それに「科学者」などというと,何か難解で《高尚》なことに関わっているかのようなわるい印象が生じるかも知れず,そんなことは避けたいということであろう.専門分野を問われたときは,あらたまって,たとえば「化学者です」などと答えることもあろう.ただしその場合も,「化(ばけ)学屋です」などと,ちょっと茶化した表現になることもある.

 科学者どうしが論争するとき,(当然のことながら)「どちらが科学的か」を争うわけではない.それぞれの主張内容が具体的に問われるのである.したがって,科学者にとって,詳細な論証を欠いた「科学的」という言葉はまったくの無意味である.

 他方,科学者が自分の主張について,「科学的」であることをしきりと強調する場面もある.それは,何かの事情を背負った科学者が,科学者以外の人々に対して,自分の主張を受け入れさせようとしている場合である.「根拠を詳細に説明してもあんたらには理解できないであろうが,この結論は客観的に正しいものである」と強弁しているのである.

 科学者以外の人が,ある主張を「科学的」と強調する場合もある.たとえば最近,国際原子力機関(IAEA)の年次総会において,日本の「ALPS処理水」の海洋放出に対して中国がその累積的影響に懸念を表明したとき,出席していた日本の閣僚が「科学的根拠」という表現を用いて反論したとのことである.私自身は,海洋放出に大きな懸念を有しているので,この居丈高な《反論》には大いにおどろきを覚えた.

☆ALPS処理水の海洋放出に関連しては,本ブログ記事「ALPS処理水に関するIAEA包括報告書における“2.4 正当化”の内容」もどうぞ.

 自分の主張を「科学的」とだけ強調して,懸念に対する問いかけに誠実に答えない場合は,大きな問題を隠蔽していることが多い.すなわち,「科学的」という修飾語は,説明が科学的でないときにしばしば用いられる.これは私の個人的な経験則として長年運用しているものであるが,うんざりするほどよく当たるのである.

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 これに関連して最近,池内了さんの論考(☆)を面白く読んだ.池内さんは科学者である.彼は「ALPS処理水」の海洋放出を批判したのであるが,そのとき「科学的に定めた安全基準を満たしているのだから問題はない.科学者のくせに,科学を裏切っている」との非難を受けたそうである.また,ネット上でも,「処理水の海洋放出に反対する者は科学的ではない」との言辞にあふれている.そこで彼は,「安全基準」と「科学的」という言葉を吟味するのである.ここでは,本ブログ記事のテーマとの関連で,彼の「科学的」についての吟味を紹介しよう.

☆「東京新聞」2023年10月20日夕刊.記事の末尾の記述によれば,池内さんは,総合研究大学院大学名誉教授.

 池内さんによれば,

「科学的証明」と言う言葉が頻繁に使われるのだが,実は科学者はあまりその言葉を使いたがらない.というのは,現在の科学の方法には必ず限界があって,科学によって100%証明できることはほとんどないということを,科学者自身がよく知っているからだ.人々は99%正しければ1%の不足はあっても100%正しいと見なして,「科学の勝利」を宣言しようとする.しかし、科学者はその1%の不足を気に病んで,「科学的証明」と言うことをむしろ恥ずかしく思うのだ.まだ不十分なのに,万全であるかのように言いたくないのである.

すなわち,まともな科学者は,「科学的」という言葉を使いたがらないのである.

 なお,池内さんは「現在の科学の方法には必ず限界があって」と書いているが,これは未来の科学では限界がなくなるということを意味するのではない(また池内さんも多分そのようなことを主張しているのではない).科学の本質は緻密で膨大な実験や観察に裏づけられた理論である.理論とは抽象的なものである.この抽象的な理論を具体的現実に適用する場合,(非常にうまくいくこともめずらしくはないが,他方で)思わぬズレの生じることがある.このズレが,あるとき突如,たとえば致命的な事故として姿を現すのである.

唐木田健一