唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

1968年10月の東大理学部「大衆団交」のこと

2022-07-13 | 日記

本記事は,唐木田健一『1968年には何があったのか 東大闘争私史』批評社(2004)の22章にもとづきます.

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22.大衆団交

10月28日(月)

 きょう理学部の「大衆団交」が開催された.会場はおなじみの化学教室の講堂だった.理学部の各学科から教官や学生・大学院生たちが集まった.ただ,理学部の教官たち(に限ったことではないけれど)には明らかに問題解決のための直接的な当事者能力はなかった.そんなことは我々にもわかっていたから,あまり激しい事態には至らなかった.

 教官の側は,主に,物理学科の野上燿三教授が前面に出て答えていた.彼は,総長の「八・一〇告示」に基づく,医学部処分「再審査委員会」の理学部の委員だった.

 一番長く教官の《追及》に立ったのは,カーディガンを羽織った,あごひげを生やした長身の人だった.多分大学院生だろう.声が少し甲高い感じがした.発言内容は厳しかったが,言葉づかいは

「先生がたは・・・・・,また先生がたは・・・・・」

といった調子で丁寧だった.

 野上教授は,再審査委員会がもうじき,11名の学生は懲戒処分に該当しないという中間報告を出すだろうと言った.そして,その中間報告が最終報告になるであろうとも付け加えた.彼の答えは淡々としており,事務的といってもよいような雰囲気だったが,不誠実な印象はなかった.

 この野上教授は確か,教養学部長・野上茂吉郎教授の弟さんで,野上弥生子・豊一郎御夫妻の息子さんだった.弥生子先生は,もう80歳を超えているはずであるが,お元気のようだ.私はごく最近彼女の『秀吉と利休』(1964)を面白く読んだ.

 私は,この大衆団交の席上,あらぬことを思い出していた.

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 夏目漱石夫人・鏡子は『漱石の思ひ出』という貴重な記録を残している.これは松岡譲の筆録によるものだ.松岡は漱石の弟子で,漱石夫妻の長女・筆子の夫である.

 この本に,次の興味深い記述がある.時は1907年(明治40年),漱石は41歳.この年の4月,彼は一切の教職を辞し,朝日新聞に入社するのであるが,それに先立ち,彼は親しい友人たちと京大阪に遊んだ.

 この関西旅行の留守中,女ばかりで,私達が淋しいだろうというわけで,鈴木さん野上さん小宮さんのお三人が交わる交わる泊まりにきて下さいました.そうして夕方になると,もう京都から帰る頃だがなあと停車場まで迎えに出て,今日もだめだ,今日もだめだといったわけで,遅くなって帰っていらっしゃるのです.

 こういうある日のことでした.鈴木さんと小宮さんとがよって,

「野上の奴,あの若い女を自分の妹だ妹だと言ってるが,本当に妹なのかしら」

「こんだも先生に妹が京人形を買ってきてくれといっていたとか頼んでいたよ」

 という話です.そこへ噂の主の野上さんが入って来られました.

「君あれは本当に君の妹かい」

「だって顔立ちが似てるだろう」と問われる方はなれたものです.

「じゃそんならそれで,こっちにも積りがあるから」

 とか何とかおどし文句を二人がならべるのですが,どうも気にかかって仕方がなかったとみえ,とど様子を見に行こうということになって,貴様行って見てこいというわけで,小宮さんが翌日あちらに出かけます.

 さて使者の役目を仰せつかって屋形に乗り込んでみはみたものの,その頃はうぶな学生さんのことですから蔭弁慶はきめ込んでるものの,若い女の前に出ては,ただ一途にきまりが悪く,ぼうっと顔が真赤にほてってきて,問題の婦人はすぐと前に鎮座ましますのだけれども,とても顔を立てなおして眺めるどころの話じゃありません.まるで見に行ったのか見られに行ったのかさっぱりわからないで,庭先ばかり見てかえったというわけ.帰ってくると鈴木さんが,

「おい,どんな顔をしていた! 野上に似ていたかい」と勢い込んでたずねます.片方はしょげかえって,

「何でも額のところが三角で,ゼムの広告見たいな形をしておった」とばかりで,それ以上何も答えることができません.

「だから貴様はだめだというんだ」

 そんなら自分で行ってみとどけて来たらよさそうなもんですが,そこは鈴木さんの鈴木さんたるゆえんで,こういって大名威張りをしていました.

 一体野上さんのいわゆる妹さん問題は,若い人達ばかりの間だったものですから,当時ずいぶん騒がれたものです.最初寺田さんが原町に下宿しておられた頃,すぐ隣りの部屋かに一高の学生がいる,そこへ姿を見たことはないけれども,若い女持ちの洋傘や沓をもって訪ねてくるものがある,一高の生徒の分際で若い女と交際したりして怪しからんなどと気にしてられたものですが,それがどうやらそれらしいというのですから,なかなか因縁も深いわけです.

 そうこうしているうちに,毎晩毎晩迎えに出ているときはかえらず,ひょっくり十二日の正午頃に帰って参りました.いろいろお土産物などを買ってきて,大層上機嫌でありました.例えば鈴木さんには盃,野上さんのいわゆる妹さんには頼まれた京人形など,そのほかいろいろお土産を買って参りました.

 後で野上さんが言いにくそうに実は細君だと白状してられたことがありますが,今から考えてみると何だか可愛らしい気がして罪のない話ではありませんか.そのいわゆる顔の似ているという妹御さんなるものが今のやえ子さんであるのは申すまでもありません.〔引用の際,仮名づかいおよび漢字の字体を変更〕

 文中の「鈴木さん」は鈴木三重吉(当時25歳),のちに児童文学者となり雑誌『青い鳥』を主宰した.「小宮さん」は小宮豊隆(当時23歳),のちにドイツ文学者となった.彼は岩波書店版漱石全集の編集に尽力し,また彼の執筆した『夏目漱石』は後世多大な影響力をもった.野上豊一郎(当時24歳)はのちに英文学者となり,また能楽の研究でも知られた.

「寺田さん」は寺田寅彦(当時29歳),物理学者である.私は,彼を多数の随筆の著者として知っているので,もっと《話のわかる》人かと思っていたが,「一高の生徒の分際で若い女と交際したりして怪しからん」というのは若干イメージを傷つけるものであった.下宿の入口に女物のこうもりや靴がそっと置いてある場面などなかなかすてきではないか.

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 大衆団交のとき発言していたあごひげの人は,やはり大学院生だった.物理学専門課程博士課程3年(最終学年)の山本義隆さんという人だった.素粒子論専攻で将来を嘱望されているとのこと.彼はいま理学部ばかりでなく,全共闘においてもリーダー的役割を果たしているらしい.

「後楽」で夕食.置かれていたある新聞の「三面記事」の顔写真にかすかに見覚えがあった.数カ月前の夜,団子坂を上っているとき私を睨みつけ,私の背後につるはしを振り下ろした男だった.男は交通事故で亡くなっていた.

 記事によると,数日前の夕方,男は都内P大学の学生控室のロッカーを物色中,学生に見つかって追いかけられ,逃走中に車に撥ねられて即死した.身元はしばらくわからなかったが,所持品などの調査の結果,住所不定・無職T(26)と判明した.彼は主として大学を対象として空き巣を働いていた.また,ときどきは労務者として飯場に泊まり込んでいたらしい.仕事場で一緒だった人の話では,彼はしきりと「学生が憎い」と言っていたそうだ.

 彼は盗み先のリストを持っており,その中には東大も含まれていた.そういわれれば,私は本郷に来てまだ間もない頃,ロッカーに入れておいた上着を盗まれたことがあった.その数日後事務室から連絡があって,上着は理学部1号館のトイレに捨てられて(!)いたということだった.名前の刺繍から私の物とわかったのだ.

 話によれば,財布など貴重品を抜き取ったあと,上着などはその辺に捨てられてしまうものらしい.幸い私の上着のポケットに貴重品などはなく,上着そのものが私にとっての貴重品だった.若干気分が悪いことを除けば,ほとんど実害はなしで済んだ.これは,ひょっとして彼の仕業? いずれにせよ,少なくとも団子坂でなぜか彼に憎まれたらしいことは,私にはとても不愉快だった.

(了)