『科学・社会・人間』81号(2002年7月)64-68頁より
唐木田健一
はじめに
最近,きわめて興味深い本に出会ったので,ここに御紹介したい.本サーキュラーの読者にも関心をもっていただけるものと確信する.また,私が特に注目する点については,のちに触れるつもりである.
紹介の対象は,平雅行氏の『親鸞とその時代』[1]である.平は阪大文学部所属の歴史学者で,日本中世の仏教史が専門のようである.ここでは,彼のこの本のなかから,親鸞のいわゆる《悪人正機(しょうき)説》に関連する部分を切り出してみる.
親鸞の独創性?
我々の多くにとって《悪人正機説》は,「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」という表現で,『歎異抄』にある文章として学ぶものであろう.『歎異抄』は親鸞(1173-1262)の没後,弟子の唯円が編んだものとされている.私がこの文章に初めて接したのは高校時代と記憶するが,その印象はなかなか強烈なものであった.
親鸞やその師である法然(1133-1212)の思想は,「どのような悪人であっても念仏を称えるだけで極楽往生できる」と概括されることが多い.しかし,こうした教えは当時の既成宗教(以下,平の用語法にしたがって「顕密仏教」と表現する)においても語られていたし,また京都を中心とする民衆の間で,流行歌として謡われる(『梁塵秘抄』に採録される)ほど流布していた〔21-22頁〕.この思想は彼ら独自のものではない.
また,《悪人正機説》は,一般には,「阿弥陀仏の本願は悪人を救うことが目的であり,悪人こそ往生するにふさわしい機根であるという説」とされている[2].ここで,「機根」とは,宗教的資質あるいは人間や衆生そのものをさす言葉である〔124頁〕.平は,この《悪人正機説》が,中国以来の浄土教史のなかで繰り返し語られてきたことは周知の事実であると指摘する〔114頁〕.また,顕密仏教である法相宗の僧侶(貞慶,下に述べる「建永の法難」という親鸞らへの弾圧のきっかけをつくった人物)も悪人正機説を述べている〔20頁〕.すなわち《悪人正機説》は親鸞の独創なのではない.
それなら,法然や親鸞の苦難の人生は一体何であったのか.そんな自明な主張のためだったのか〔23頁〕.親鸞は「建永の法難」(1207年)において,法然とともに流罪となっている.これは彼が公然と妻帯していたためであるとされることがある.しかし,妻帯は当時の顕密仏教の世界でも珍しいものでなかった.「真弟相続」といって,自分の子供を弟子にして法流と財産を譲っていくこともあった.極端な例としては,僧侶を外祖父とする天皇(土御門天皇,在位1198-1210)が存在したぐらいである〔92-100頁〕.だから,親鸞における法難は,明らかに彼の思想のゆえなのである.
平は親鸞における深い独創性を認め,親鸞の《悪人正機説》といわれるものは,実は「悪人正因説」であって,むしろ「悪人正機説」を克服しようとしたものだと主張する〔112頁〕.
「正因」と「正機」
次の定式,
「××なをもて往生をとぐ,いはんや〇〇をや」,
すなわち,「××ですら往生できる.まして〇〇の往生は当然だ」と言った場合,通常××にはマイナスの価値,〇〇にはプラスの価値が想定されている.もちろん,「往生」がプラスの価値であることは大前提である.このように,価値の優劣を背景として××と〇〇が配置された場合の上記定式を,「正因(しょういん)説」と呼ぶことにする.ここで,〇〇を善人,××を悪人とした場合の「悪人なをもて往生をとぐ,いはんや善人をや」は,「善人正因説」といわれるものである.すなわち,往生の正因は善人(が行った積善行為)であるという教えである.法然や親鸞が新たな思想を創出しようとしたとき眼前にあったのが,この善人正因説であった〔117-124頁〕.
ところで,上の定式は,別の角度からも見ることができる.すなわち,〇〇と××には,価値の優劣ではなく,仏菩薩による救済の優先順位が想定されている場合である.そのときの上記定式が「正機説」と呼ばれるものである.たとえば,法然の弟子である源智の発言と思われるもの(『醍醐本法然上人伝記』)によれば,「弥陀の本願は,自力による悟りが可能な善人ではなく,自力の不可能な悪人のために立てられた」.すなわち,「弥陀の誓願は悪人救済が中心」ということである.したがって,救済における優先順位は,悪人が一番(「正機」)で,善人は二番目(「傍機」)ということになる.ここで,「機」とは,すでに上に出てきた「機根」のことで,救済の対象をさす〔124-125頁〕.
悪人正機説では,上記定式において,〇〇が悪人,××が善人となり,善人正因説とは表現が正反対となる.しかし,ここでは価値の優劣ではなく,救済の優先順序が問題となっているのである.注意すべきは,悪人正機説と善人正因説は(表現は正反対であるけれども),善人と悪人を巡る価値観に違いはないということである.悪人正機説において悪人が正機(〇〇)とされるのは,それが自力による悟りや往生が不可能―すなわちマイナスの価値の存在であるからである〔126頁〕.
だから平は(「少しきつい言い方」と断っているが),悪人正機説は愚民視を随伴した救済論であると指摘する〔136頁〕.このことは,女人正機説に着目すればよく理解できる.すなわち,女人が正機とされるのは,それが罪深いからである.このように女人正機説は差別的救済論であって,悪人正機説もそれと同じ難点を抱えているのである〔136-137頁〕.悪人正機説は親鸞の思想ではない.それは我々が継承すべきプラスの遺産ではない.法然・親鸞らはそのことを見抜き,生涯をかけてその克服に努力したのである〔138頁〕.
〈悪人〉
重要なことに触れておかなければならない.これまで何の注釈もなしに「悪人」という語を用いてきた.これに対する私のイメージは,中世における殺人者・野盗の類であった.それらはもちろん悪人であろう.しかし,そのイメージでは広範な「悪人」を見落としてしまうことになる.
殺生は地獄に堕ちる罪業である.問題はその殺生の内容にある.当時の史料によれば,狩猟・漁労や養蚕が殺生とされている.これはまだ理解できるとして,さらに農耕や山林伐採・炭焼きまでが殺生に含まれているのである.なぜ農耕が殺生かといえば,田畑を耕せば虫が死ぬからである.このように,悪人とは,これらの労働に従事する広範な人々のことを意味した.そして,顕密仏教の教えは,人間は労働することによって罪を得るから,寺社に結縁奉仕して贖罪をしなければならないというものであった〔42,108頁〕.ということは,寺社への結縁奉仕が善行ということになる.他方,労働は悪行なのである!
〈悪人〉=民衆にとって,堕地獄の恐怖は現実のものであった.そして,その恐怖を媒介として,民衆支配が成立したのである〔41頁〕.
親鸞の思想
中世では末法思想が流布していた.すなわち,釈迦在世の正法(しょうぼう)の時代から像法(ぞうぼう)を経て末法へと,時代を下がるにつれて人間の資質が劣っていくという考えである.そして当時,時代は末法にあると信じられていた〔138頁〕.
親鸞にとって,善人は末法以前の存在である.それらの人々はいまは誰もおらず,存在するのは悪人だけである.とはいえ,「自分は積極的な悪には無縁である」と言うことのできる人はいるかも知れない.しかし,そんなことが言えるのは,たまたま状況に恵まれただけである.親鸞は「さるべき業縁の催さば,いかなる振る舞いもすべし」と言っている.人間は状況次第でどんなことでもやりかねない〔140-143頁〕.
この「末代のすべての衆生は悪人たらざるを得ない」という人間観を,平は「末代の平等的悪人」観と概括する〔144頁〕.この末代の平等的悪人とは,親鸞がその主著『教行信証』における割注で「具縛凡愚(ぐばくのぼんぐ)」とか「屠沽下類(とこのげるい)」と取り上げたものであり,また『浄土高僧和讃』や書状で「五濁悪世のわれら」と表現したものである〔146-148頁〕.
親鸞においても,悪人正機説と善人正因説は見出すことができる.しかし,その場合の善人は「上代の菩薩聖人」であり,悪人は「末代の(平等的)悪人」のことである.彼はこれにより,悪人正機説が随伴していた差別性と,善人正因説が抱えていた大衆蔑視を克服したのである〔146,149頁〕.
親鸞にあっては,末代の衆生はすべて悪人である.しかし,彼らがすべて同質というわけではない.平によれば,親鸞においては,末代の衆生のなかにも善人と悪人の区別がなされている.ただし,その善人悪人観は,通常のものとは全く異なる.
親鸞の『正像末浄土和讃』では,「疑心の善人」「自力称名の人」「善本修習する人」という表現が登場する.平は,これらをまとめて,「疑心の善人」というカテゴリーを設定する.疑心の善人たちはいずれも「仏智疑惑の罪」を背負っている〔150-151頁〕.すなわち(『教行信証』の記述の趣旨によれば),末法の時代では自力得悟が不可能であり,そこにおける衆生が弥陀の正機であるのに〔145頁〕彼らはそれを信じず,念仏を称えることを自分の善根と考えるため,真実の信心を得ることができないのである〔151頁〕.すなわち,疑心の善人とは自らを善人と錯覚したまま,なお自力作善に励んでいる人々のことであり,ありていに言えば不信心者のことである〔155頁〕.こうしてここに,マイナス価値の善人という独特の概念が誕生する〔151頁〕.
「疑心の善人」に対応する悪人概念を,平は「他力の悪人」と名づける.『歎異抄』第三条には,「他力をたのみたてまつる悪人,もとも往生の正因なり」という表現を見出すことができる.これはプラス価値の悪人である〔152-153頁〕.すなわち,自ら〈悪人〉であることを自覚して他力の信心―阿弥陀仏の本願に頼って救済を願うこと―に入っている人々のことである〔155頁〕.
以上のように,これまで親鸞の《悪人正機説》とされてきた「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」は,悪人正因説だったというのが平の主張である.表現は悪人正機説と同じであるが,そこでは善人と悪人の価値的な優劣が逆転しているのである.
遠近法的に重なり合う二つの観点
ここで,私が平の論考において特に注目した点につき触れておきたい.我々はこれまで,さまざまな分野における新しい思想・理論・様式など(以下,一括して「思想」と表現する)の生成機構につき考察してきた[3].そこにおいて見出されたのは,新しい思想の発見者は既存の思想を足場とし,その内的な整合性を徹底するなかで,既存の思想内部における「欠如」や「矛盾」といった否定的要素に出会うということである.これが発見者に解決すべき課題の存在を告げる.そして彼/彼女は,その否定性をのりこえることによって,新しい思想に到達する[4].
既存の思想に着目することの重要性を強調する点は,「パラダイム論」として知られる考え方[5]と我々の方法が共通するところである.地動説に対する天動説の扱いをみればわかるように,既存の思想は,新しい思想の立場から,非合理で頑迷な信念として片付けられてしまうことが多い.しかしながら,既存の思想は,新しい思想とは異なった,それ独自の価値基準を有するのである.
パラダイム論と我々の共通点はここまでである.パラダイム論においては,新しい思想(「新しいパラダイム」)は既存の思想(「古いパラダイム」)の外に生まれ,それと競合しそれに取って替わる.これがいわゆる「パラダイム転換」である.そして,新旧両思想の関係は通約不可能,すなわち断絶していてコミュニケーションができないとされる.すなわち,パラダイム転換はいわば宗教的回心のようなものであって合理的説明は不可能であり,両パラダイムは完全に相対的なのである.
一方,我々の考えによれば,発見者を思想の転換へと導くのは,既存の思想内部に彼/彼女が見出した否定性である.我々はそれに着目することによって,彼/彼女が既存の思想をいかにとらえ,それをいかにのりこえたかを理解することができる.
平の論考において私が注目するのは,既存の親鸞像に対する平の観点と,顕密仏教に対する親鸞の観点である.平は,従来一般に親鸞の特徴とされてきたものが,何ら親鸞の独自性を示すものでないことを明らかにする.いわば,既存の親鸞像における「独自性の欠如」の発見である.これが彼を探究へと導いたのである.一方,その探究のなかで,彼は親鸞が顕密宗教の内部で遭遇した否定的要素を見出していく.それは端的に,マイナス価値の〈善人〉とプラス価値の〈悪人〉という逆説的用語に表現されるものである.親鸞は,「悪人正因説」を唱えることによって,「悪人正機説」と「善人正因説」をのりこえたのである.
今日,発見者は既存の思想とは全く無関係に,それに束縛されることなく,新しい思想を創造するかのような議論のなされることが多い.すなわち,既存の思想など創造の邪魔物なのである.しかしながら,我々の考えは全く逆であって,発見者は既存の思想とそこにおける諸概念・諸道具に精通し熟達し,それに馴染んでいる.彼/彼女は,既存の思想をその極限にまで徹底することによって,そこから新しい思想へと飛躍するのである.平は,本文への注のなかで,論理的には親鸞の思想の本質は,「末代衆生正機説」と「信心正因説」だけであると書いている.すなわち,親鸞の「悪人正因説」は,「信心正因説」の修辞的文学的な表現なのである〔159頁〕.これは信心の徹底以外の何ものでもないであろう.
おわりに
ここでは,平の『親鸞とその時代』において《悪人正機説》に関連する部分のみを切り出したが,他の個所においても私の興味は尽きることはなかった.特に深い感銘を受けた部分を項目として列記すると,
- 道元による「女人罪業論」の否定
- 親鸞が延暦寺を出奔する原因になったとされる「女犯偈」の夢告の解釈
- 『唯信鈔』の著者で,思想史的には法然と親鸞の中間に位置づけられることもある聖覚の専修念仏に対する裏切りの確認
である.
本書で中世における〈悪人〉の概念を学んだとき,私は「新訳聖書」における〈罪人〉を想起した.私は以前,荒井献の著作[6]の導きで,発見者としてのイエスを考察したことがある[7].〈罪人〉とは律法を犯す人のことであるが,その内容は〈悪人〉と大きく重なるもののように思われる.イエスは社会的な被差別者である〈罪人〉たちと深い同=情をもって交わった.イエスは律法を否定したのではない.彼は,律法を足場としてそれを徹底・一般化することにより,律法に相対したのであった.
(2002.01.06)
[1] 平雅行『親鸞とその時代』法藏館(2001).以下,本書からの引用は,本稿本文中の〔 〕内に頁を示す.
[2] 『広辞苑』(第四版・電子ブック版)岩波書店(1991).
[3] たとえば,本サーキュラーでは,唐木田健一「新しい様式の創造」『科学・社会・人間』60号(1997),22-26頁.〔本ブログでは,「科学史における理論変化の問題(2):基本理論の創造」,「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」,ほか.〕
[4] たとえば,唐木田「“パラダイム転換”からの転換の必要について」『化学史研究』28(2001),171-174頁.〔また,本ブログでは「新理論の形成:首尾一貫性の追求,欠如,矛盾,そして弁証法」,《革命家の保守性》参照.〕
[5] T. S. Kuhn, “The Structure of Scientific Revolutions”, The University of Chicago Press(1962, 1970).
[6] 荒井献『イエスとその時代』岩波書店(1974).
[7] 唐木田『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),5章.
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