このシリーズの記事は,
唐木田健一「トーマス・クーンの『コペルニクス革命』と彼の“パラダイム論”」『化学史研究』31(2004),215-224頁
にもとづく.この論文はクーン『コペルニクス革命』に依って彼の「パラダイム論」の批判を意図したものであるが,同時に彼の記述するコペルニクス像がきわめて興味深いので,ここに紹介したいと考えた.
シリーズとしては,(1)天動説の体系(本記事),(2)コペルニクスの動機と困難,(3)コペルニクスの「手ごたえ」,(4)革命家の像,(5)「パラダイム論」との関係,とつづく予定である.
なお,これまで本ブログに発表した記事で直接にトーマス・クーンを扱ったものとしては,「藤永茂『トーマス・クーン解体新書』の“出版によせて”」,「トーマス・クーン『科学革命の構造』は科学革命を論じていない.柴谷篤弘‐桂愛景対談」がある.
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トーマス・クーンの『コペルニクス革命』と彼の「パラダイム論」
1.はじめに
「コペルニクス的転回」という表現は昔からよく知られているが,その具体的内容は,科学的にも思想的にも,それほど単純明快なことではない.ある人々にとって地動説は,古代から続いてきたほとんど迷信としか言いようのない天動説を,実証的に打ち破ったものと考えられている.また,天動説に若干なりとも通じている人々は,天動説は地上から見た星や太陽の動きをさまざまな円の組み合わせで記述する大変に複雑な体系であって,コペルニクス(Nicolaus Copernicus, 1473-1543)の理論によって初めて,天体の単純で正確な説明が可能になったと想定していることが多い.しかしながら,結論からいえば,単純さや正確さにおいて,コペルニクスの地動説は天動説とほとんど同等だった.また,天動説の体系は,それを集大成したプトレマイオス(Ptolemy, 紀元2世紀)の著書『アルマゲスト』[1]をみればわかるが,きわめて論証的であって決して神秘的でもドグマ的でもなかった.そのことは,少なくともコペルニクスの著書『天球回転論』[2]との比較において,理解することができる.
私はかつて,板倉聖宣の分析[3]に基づいて,この辺の事情を紹介したことがある[4].そこにおいて明らかにされたことは,コペルニクス地動説のポイントは,単純性や正確さに関わることではなく(といってもちろん,彼の思いついたことがたまたま後世に正しいとされた説と一致したということでもなく),地球中心天動説の内部矛盾がしっかりと把握され,それをのりこえるために提起されたという点にあった.
本小論では,クーンの分析[5]に基づいて,「コペルニクス革命」を眺める.クーンは,“paradigm(パラダイム)”という英単語の独特な用法をさまざまな分野に普及させたことで,大変有名となった科学史家である.板倉とクーンは,ほぼ同時期に,ほぼ同じ問題意識をもって,コペルニクス革命に取り組んでいた.私は,これまで一貫して,クーンの「パラダイム論」[6]を批判してきた[7]が,ここではクーンの別の側面に着目する.それとパラダイム論との関係も合わせて議論してみたい.
2.天動説の体系
天動説は非科学的思考や固定観念,自己中心的思想の典型のように考えられることが多く,現在ではまともな論議に値しないもののように扱われている.しかし,それは精緻な科学的体系であり,またコペルニクス革命の母体となったものであった.クーンは天動説の体系がどのようにして天体の諸規則性を発見・記述していったかについての詳細な説明から物語をはじめている.発見された天体の秩序は,もっと細部の不規則を扱うための枠組みを構成し,そこにまたさまざまな工夫や概念が付け加えられていったのである.
天動説の体系の基本は,「ふたつの球の宇宙」である〔31頁〕.それは,大きな球の内部に,同心状に小さな球が存在するもので,その小さな球が地球である.大きな球の「内壁」には,すべての恒星が張り付いている.だから,この大きな球は,「恒星天球」と呼ばれる.ここで地球は中心に静止しているが,恒星天球のほうは,天の北極と天の南極を通る軸のまわりに,(天の北極の上から見たとき時計まわりに)約1日(より正確には23時間56分)をかけて1回転する.ここで,「天の南極」とは,天球の中心に対して天の北極と対極にある点のことである.また,天の北極と天の南極を結ぶ軸に垂直な大円――球とその中心を通る平面との交点が形成する円――が「天の赤道」である.
太陽は恒星天球上の「黄道」と呼ばれる曲線上に存在し,(恒星天球を上から見たとき)反時計まわりに1年をかけて,それを1周する(年周運動).それと同時に,黄道は恒星天球とともに時計まわりに1日に1回転する(日周運動).太陽の動きは,このふたつの運動に分解される〔23頁〕.黄道は,天の赤道と23.5度の角度をなす大円で表される.それは天の赤道とは2点で交わっており,そこは「春分点」と「秋分点」といわれる.太陽がそこにきたときが,それぞれ春分と秋分である.また,黄道上のその中間に位置するのが,「夏至点」と「冬至点」である〔34頁〕.
太陽と恒星だけが肉眼で観察される対象であったとしたら,「ふたつの球の宇宙」はもう少し生き延びたかも知れない.しかし,惑星なるものが存在し,これがコペルニクス革命の主要な源泉となったのである.惑星として知られていたのは,(当時それに分類されていた太陽と月を除くと)水星,金星,火星,木星,および土星であった.それらは,恒星の間をさまよっていた.だから,「惑星」と呼ばれたのである〔45頁〕.・
惑星の複雑な運動を記述するために工夫されたのが導円と周転円の体系である.導円は地球を中心とする大きな円である.他方,周転円は導円の円周に中心をおく小さな円であり,惑星はこの周転円の円周上に存在する.導円(大円)および周転円(小円)はそれぞれ一定の方向に一定の速度で回転する.したがって,惑星は大まかには導円とともに地球のまわりを回転するが,それは同時に周転円上を回転しているので,地球からみると不規則な動きをすることになる.導円の回転方向とは逆向きに移動することもあり,これが「逆行運動」と呼ばれるものである.なお,この導円-周転円の組は黄道と同じ平面内に存在する.したがって,恒星天球がおこなう日周運動に加わっていることは,その当然の前提である〔60-61頁〕.すべての惑星の運動を記述するためには,惑星ごとに導円-周転円の体系を工夫しなければならない.導円と周転円の相対的大きさと回転速度を変えることによって,この体系は惑星運動の多様な動きを近似するように調整できる.それにより,金星のようなきわめて不規則な惑星の運動ですら,定性的な説明が可能となった〔64頁〕.
逆行運動のような不規則性を記述する周転円は「主周転円」と呼ばれるものであるが,「副周転円」といってもっとわずかな不規則性を説明するためのさらに小さな周転円も用いられた.導円-副周転円の組み合わせは,「離心円」を作り出すことができる.すなわち,導円の中心からズレたところに中心をもつ円のことである.これにより,地球(すなわち導円の中心)から見たとき惑星の速度が一様でないことが説明された.さらには,主周転円上に副周転円を加えることによって,惑星の運動をもっと細部にわたって再現することができた〔69頁〕.
もうひとつの工夫は「エカント」である.これは,惑星の導円の中心――そこに地球は存在する――からズレたところにエカントと呼ばれる点を想定し,惑星の運動はエカントから見た角度の変化が一様であるとするものである.この工夫は,副周転円や離心円と同様,惑星の運動速度の不規則性を説明した〔70-71頁〕.
〔「(2)コペルニクスの動機と困難」につづく〕
[1] プトレマイオス/薮内清訳『アルマゲスト』恒星社厚生閣(1993).
[2] コペルニクス/高橋憲一訳『天球回転論』みすず書房(1993).なお,本小論におけるコペルニクスからの引用は,脚注5の文献に採用された英文から訳出した.
[3] 板倉聖宣「天動説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析」『科学と方法』別冊2(1953);板倉『科学と方法』季節社(1969)所収.
[4] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),2章.
[5] Thomas S. Kuhn, The Copernican Revolution, Harvard University Press (1957).ここでは,1999年に発行された版(renewed 1985)を参照した.本書からの引用は,本文中に〔○頁〕として直接に頁を示す.なお,本書には日本語訳が存在する〔常石敬一訳『コペルニクス革命』紀伊國屋書店(1976),講談社学術文庫(1989)〕.最初この日本語版に依拠して本稿を進めていたが,内容のレベルが許容限界を大きく逸脱するので,私としては異例ながら,ここでは扱わぬこととした.影響力の大きな学術書の日本語版がこんなレベルで長年放置されているのは,きわめて恐ろしい事態である.
[6] T. S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions (1962,1970)/中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房(1971).
[7] 唐木田「“パラダイム転換”からの転換の必要について」『化学史研究』28(2001),171-174頁;およびそこにおける引用文献を参照せよ.本ブログ記事としては「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」.
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