唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

ピアニストは鍵盤ではなく弦を鳴らす.宮下奈都『羊と鋼の森』とマイケル・ポラニー『暗黙知の次元』から

2024-05-15 | 日記

宮下奈都『羊と鋼の森』文藝春秋(2018):

「外村くん,ピアノのタッチって,わかる? 鍵盤の軽さや重さみたいに思ってない? ほんとうはそんな単純なものじゃない.鍵盤を指で叩くと,連動してハンマーが弦を打つ.その感触のことなんだよね.ピアニストは鍵盤を鳴らすんじゃない.弦を鳴らすんだ.自分の指先がハンマーにつながっていて,それが弦を鳴らすのを直(じか)に感じながら弾くことができる.その感じが,板鳥さんのタッチだ」〔Kindle版,81%付近〕

 

マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』紀伊國屋書店(1980):

 意味が,意味をもつところのものと分離している,ということをもっとはっきりと理解するために,洞窟を探検するときの探り杖の用い方や,盲人が杖をつきながら歩くときの杖の使い方を例として考えることにしよう.なぜなら,これらの例では意味と意味をもつところのものとが十分に分離しているし,その上,その分離が次第におこっていく過程をも見ることができるからである.探り杖を用いるとき,だれでもはじめ,杖から指や手のひらに衝撃を感じるであろう.しかし我々が探り杖を使うことになれてくるにつれて,あるいは歩行用の杖を使うことになれてくるのにつれて,杖が手に与える衝撃について我々がもつ感知は,我々がつついている物体が杖と接する点についての感覚へと次第に変化していく.これがまさに,意味をもたぬ感覚が,解釈の努力によって意味のある感覚へと変化する過程であり,またその意味のある感覚が,もとの感覚からはなれたところに定位される過程である.我々は,手の中の感覚を,杖の先にあって我々が注目しているところの意味との関連において感知するようになる.我々が道具を用いる場合にもこれと同じことが言える.手が道具から受ける感触は,道具があてがわれている物体に道具があたえる作用,という形で意味をもち,我々はその意味に注目している.これを我々は暗黙知の意味論的側面,とよぶことができる.意味はすべて,我々自身から遠くのほうへとはなれていくような傾向をもつ.私が暗黙知の第一項と第二項をそれぞれ「近接的」,「遠隔的」という言葉で表現したこと(☆)は,実はこのような事情によって正当化されるのである.〔佐藤敬三訳,pp.27-28〕

☆本ブログ記事では「マイケル・ポラニーの暗黙知

〔唐木田健一による引用〕


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