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唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

学生・久能整君および弁護士・深山大翔君への連帯を表明する.「真実は人の数だけあるが,事実はただ一つしかない」ということ

2023-01-18 | 日記

 久能整(くのう・ととのう)君および深山大翔(みやま・ひろと)君はもちろん,それぞれ「ミステリと言う勿れ」[1]および「99.9刑事専門弁護士」[2]の主人公です.このことを確認しておいたうえで,最初にちょっとだけ,一見ドラマとは関わりのないように思われる話題に触れます.

 私は先のブログで,「事実の理論依存性theory-ladennessという考えについて.その混乱と危うさ」という記事を掲載しました.「事実の理論依存性」とは,事実は観察する側の理論(一般には思考の枠組み)に依存しているという主張です.この主張によって,「理論の正しさ」および「科学の進歩」という考えに混乱が生じ,結果として「相対性理論はニュートン力学より優れるのかどうか」などという素朴な問いが,あいまいさのうちに,あたかも無意味な議論であるかのように扱われることになりました.

 科学者社会はこんな主張にはまったく影響を受けませんでしたが,科学史および社会学分野の一部では大流行し,いわば一世を風靡しました.いまではその流行は消え去り,すっかり廃(すた)れたものになってしまいましたが,その残滓は見ることができます.たとえば,いまだ「パラダイム」などというカタカナ語を得意そうに振り回す人がいますが,「パラダイム」とはそれによって事実が左右されるという「思考の枠組み」を意味する名称です[3].また,流行は去ったとはいえ,それに乗って騒いだ人々は何ら反省・総括することなく,したがって科学像はゆがめられたままとなっています[4]

 「事実の理論依存性」は,事実の相対化・軽視の風潮を背景として出現し,科学を疑似的舞台として,その風潮を促進したものと私は考えています.現在では,巨大国家の元首が,自分に批判的な報道を「フェイク」呼ばわりし,自身はSNSなどを手段としてフェイク情報をたれ流すような事態になっています.また日本の国会では堂々と虚偽答弁がなされ,またその虚偽答弁に合わせて,諸役所では重要文書の隠蔽・改竄・廃棄が行われました.さらに最近では,重大事件の記録が各地の裁判所で廃棄されているという問題まで発覚しています.事実は理論に依存するのではなく,逆に理論は事実にもとづくのです.したがって,こんな風潮がつづくかぎり,世の中の「理」不尽は増大するばかりです.

 このような風潮のなかで私の出会ったのが,それぞれ久能整君および深山大翔君を主人公とするドラマです.両ドラマでは,「真実は人の数だけあるが,事実はただ一つしかない」という趣旨を前提に,事実の追求が重視されています.そう,問題は事実を追求することの重要性です.事実自体が重要であることは誰もがわかっていることです.だからこそ,フェイク・ニュースが流され,文書の隠蔽・改竄・廃棄が行われるのです.

 学生・久能君は,「真実は一つ」と強弁する相手に対し,次の例をあげます[5].AとBの二人がいたとする.あるとき階段でぶつかって,Bが落ちてケガをした.Bは日頃からAのいじめを受けていて,今回もわざと落とされたと主張する.他方,Aはいじめている認識などまったくなく,遊んでいるつもりでいる.今回もただぶつかっただけと言っている.どちらもウソはついていない.この場合,真実とは何かと問います.久能君の対話の相手は,「そりゃAはいじめてないんだからBの思い込みだけで,ただぶつかって落ちた事故だろう」と言います.久野君はこれに反論します.「真実は一つじゃない/2つや3つでもない/真実は人の数だけあるんですよ」「でも/事実は一つです.起こったことは/この場合はAとBがぶつかってBがケガしたということです/警察が調べるのはそこです.人の真実なんかじゃない/真実とかいうあやふやなものにとらわれるから冤罪事件とか起こすのでは」.――ここでは「事実」の本質がよく表現されています[6].「事実は一つ」というのは,立場によらないという意味です.

 他方(といってもまったく別のドラマの話ではありますが),刑事事件の裁判有罪率が99.9%といわれるなかで,弁護士の深山君は0.1%の可能性を求め,検察側の主張を覆す決定的な事実の追求をします.このドラマで,視聴者に伝えたいテーマとして制作陣に共有されているのは,「100人いれば100通りの真実があるけど,事実はたった一つしかない」[7]ということだそうで,それはドラマのなかでも明確に主張されています.またこの表現は,上の久能君のセリフとまことに気持ちよく一致しています.

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 「事の真相」といわれるものは,一般には多数の事実が集積し論理的に結合された結果,理に適ったものとして獲得されます[8].この獲得されたものが,私のいわゆる「理論」です.この理論を構成する諸事実は,たとえば「AとBが階段でぶつかって,Bが落ちてケガをした」とか「Cはある特定の時間帯に文京区本郷にいた」というようなもので,解釈や価値評価が入らないものです[9]

 これに対し,対立する事実が主張されたとします.たとえば,「Cは同じ特定の時間帯に久留米市の日吉町にいた」ということであれば,どちらが事実であるかを徹底して調査することになります.少なくともどちらかが虚偽なのです.「事実は一つ」なのです.この調査はまったく中立的に行うことができるし,また中立的に行うべきものです.冤罪事件は主としてここがポイントになります.

 真相が明らかになるにつれ,事実といっても,その真相に深く関わる本質的な事実と,非本質的な事実とが明らかになってきます.このとき,非本質的事実にのみ着目し,それが事の真相を表しているかのように主張したとすれば,それは理論(真相)を裏切ることになります.最近しばしば「事実は真実ではない」というような不穏なセリフを耳にしますが,これは「非本質的事実」のことをいっているのです.私がこういう発言を不穏に感じるのは,それが事実の相対化・軽視につながることをおそれるからです.

 「客観的事実」などという表現が用いられることがあります.これは単に,「事実である」ということを強調したものに過ぎません.私自身は,「客観的objective」という単語は「対象(object)に関わる(こと)」という意味でしか使用しません.対象に関わることは,私たちそれぞれにおける「内観」とは異なり,人々が共通して観察・評価が可能です[10]

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 上では久野君の「真実とかいうあやふやなもの」という発言を紹介しました.これについて,大分むかしのことになりますが,本多勝一さん[11]も「真実」という言葉のあいまいさを指摘し,「真実」とは事実または真理をより情緒的に訴えるときに有効な単語である,と結論しています.情緒ということ自体は決して悪いことではないけれど,論理的な世界,論理的な文章のなかで「真実」という言葉を使うのは問題であるというのが本多さんの助言です.

唐木田健一


[1] 原作・田村由美.私はフジテレビの連続ドラマ(2022年1月~3月)として視聴した.

[2] 脚本・宇田学.TBSドラマ(I. 2016年4月~6月,II. 2018年1月~3月).

[3] 本ブログ記事「唐木田健一「出版によせて」,藤永茂『トーマス・クーン解体新書―Undoing Thomas Kuhn』所収」.

[4] 藤永茂「君はトーマス・クーンを知っているか?」.ブログ「私の闇の奥」版あるいは「トーマス・クーン解体新書」版(この記事に関しては両者は同一内容).

[5] コミック『ミステリと言う勿れ』小学館(2018),第1巻42-45ページ.原文におけるルビは省略した.また,原文に句読点はなく,引用文中へのそれらの挿入は私による.また太字による強調も私による.引用文中の「/」は原文におけるコマの転換を表す.

[6] 「真実」という言葉を用いて先の私のブログ記事との関連をいえば,理論依存性があるのは事実ではなく,「真実」のほうということになる.すなわち,「真実」とは事実の解釈のことである.

[7] 深山大翔役・松本潤インタビュー.https://www.tbs.co.jp/999tbs/interview/

[8] 本ブログ記事「倫理的問題の評価において要求される項目」参照.

[9] ある人が価値に関わる発言をしたとしたら,それは「〇〇氏がxxと発言した」という事実として扱われる.

[10] 本ブログ記事「科学的探究とサルトル現象学.《科学的客観性》の意味」参照.

[11] 本多勝一『事実とは何か』未来社(1971),12-19ページ.


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