東京都新宿区喜久井町には,「夏目坂」という名の坂がある.以前,あるローカルな雑誌を眺めていたら,「夏目坂は文豪・夏目漱石に因(ちな)む」という趣旨の記述があった.これは誤りである.「夏目坂」は,漱石の父親・夏目直克の命名である.
漱石は喜久井町の生まれである.漱石の妻・鏡子は,喜久井町について
夏目の家というのは昔からそこに住んでいた名主で,喜久井町は菊井町で,夏目の家紋が井桁の中の菊菱であるところからでたものだということです〔夏目鏡子/松岡譲筆録『漱石の思ひ出』角川文庫(1966),26頁〕.引用にあたっては表記を現代風に変更した.
さらに,
自分の屋敷の前の坂に夏目坂と名をつけたり,家紋をとって喜久井町という町名をつけたりしたのは,大方このお父さんだろうということです〔『漱石の思ひ出』,45頁〕.
また,漱石自身にも,これに対応する記述がある〔『硝子戸の中』二十三〕.
鏡子も漱石も,上の引用では,直克のことを「名主」としか書いていない.しかし,私の記憶によれば,夏目家は「草分け名主」であった.そこで,佐藤雅美さんの小説で次の記述を見つけたときは大変興味を覚えた.なお佐藤さんは,「草創(くさわけ)名主」と表記している.
名主もいろいろで,株のように売り買いしておさまる安っぽい名主もあれば御入国(家康の)前後から面々続いている由緒ある名主もあり,後者は草創名主といって江戸では一目おかれていた〔『密約 物書同心居眠り紋蔵』講談社文庫(2001),206頁〕.
また,
「お出ましを願いまして恐縮です」
そういって絵類改掛肝煎(きもいり)名主の一人,草創(くさわけ)名主でもある神田多町(たちょう)二丁目の名主十兵衛は迎える.草創名主というのは東照神君家康公が,関東を支配する大大名とはいえまだ一大名にすぎなかったころから江戸に住み着き,一定の役割を果たしていた由緒ある名主だ.卒(足軽)にすぎない同心の紋蔵などより家格も気位もはるかに高いがそれでも町人.紋蔵らにも敬語を遣う〔『白い息 物書同心居眠り紋蔵』講談社文庫(2008),161頁〕.
この文章では,草分け名主の「威光」が具体的に伝わってくる.なお,文中の「紋蔵」というのは,小説の主人公・南町奉行所同心の藤木紋蔵のことである.私は「やっぱり,漱石は《いいとこ》の坊ちゃんなのだ」との感慨を覚えた.
ところで,小宮豊隆は,「夏目家の伝えによると,夏目家は“江戸草分けの名主”だということになっている」と書く(☆).しかし,彼が調べたところだと,確かに夏目家は「江戸草分けの名主」で通用し,そう称して差支えないと考えられるところもあるが,それに関する史料上の明確な裏づけはないようである.
☆『夏目漱石』岩波文庫〔(上)1986,(中)1987,(下)1987〕.「草分け名主」については,(上)21-23頁.
唐木田健一