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祐天と「生類憐み」政策

2004年11月02日 20時27分30秒 | 心霊
はじめに

 寛文12(1672)年の「羽生村事件」で活躍した祐天(1637-1718)は、貞享3(1686)年、50歳で浄土宗教団を引退し、江戸牛嶋で隠遁生活をおくっていた。しかし、元禄12(1699)年、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のはたらきかけで、浄土宗十八壇林のひとつ生実(おいみ)の大巌寺の住職に抜擢された(63歳)。そののち、元禄13(1700)年に飯沼弘行寺の住職(64歳)、宝永元(1704)年に江戸小石川伝通院の住職(68歳)を歴任した。宝永2(1705)年の桂昌院の死と同6(1709)年の綱吉の死ののちも、その地位にとどまり、正徳元(1711)年には浄土宗総本山増上寺の住職となり、大僧正に任ぜられた(75歳)。
 一介の僧侶浪人にすぎなかった祐天を、浄土宗教団の最高位にまで押し上げたのは、桂昌院をはじめとする大奥の勢力であった。これについてはほかの記事で考察したい。しかし同時に、幕府が進めていた「生類憐みの令」に代表される、人間も含めた「生類」つまり生きとし生けるものすべてを大事にし、平和な時代を築こうという政策との関係も無視できない。
 ここでは、高田衛・著『新編・江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』(ちくま学芸文庫、1994)を用い、祐天と「生類憐み」政策との関係を考えてみたい。


高野新右衛門が下女得脱の事

 高田衛は、文化5(1808)年に刊行された『祐天大僧正利益記』(上中下3冊)を用い、祐天の行った多くの悪霊祓いを紹介しているが、そのなかの「高野新右衛門が下女得脱の事」を紹介する。ここに登場する高野氏は、徳川氏の江戸入府以前から武蔵国豊島郡宝田村の支配名主をつとめ、家康の入府に際して地元民代表として迎えた名家である。なお、高田は原文のままで紹介しているので、拙訳ではあるが、現代語にした。

 江戸中橋の名主・高野新右衛門の下女に「よし」という者がいた。新右衛門と密通して、妊娠してしまった。新右衛門は、妻の嫉妬、世間体をはばかり、病気と偽って親もとに戻してしまった。「よし」に堕胎の薬を飲ませたが、その毒のため「よし」も死んでしまった。父母は嘆いたが、どうしようもないと、菩提所の浅草寿松院に葬った。
 その後、新右衛門の娘「みよ」は、嫁に行ったが、すぐに離婚して親もとに帰ってきた。やがて病気になり、だんだんとやせ細って、結核のように見えた。
 しかしある夜、「みよ」は、悶絶して倒れ伏し、しばらくして起き上り、新右衛門に向って涙を流して、こう言った。「私を誰だと思いますか。以前、この家につとめていた『よし』です。その場限りに関係をもたされ、思いがけずあなたの子を妊娠し、非情にも飲んではいけない薬を飲まされ、母子ともども命を失いました。ただでさえ、女人は罪深いというのに、異常な死に方をしてしまい、それを哀れとも思わず、供養もしてくれません。現世で煩悩に迷い、冥土でさらに迷う。なんと悲しいことでしょう」と、さまざまに恨み泣き叫んだ。
 新右衛門は大いに恐れて、あちこちの霊場で怨霊退散の祈祷をしたが、まったくその効果はなく、「みよ」はますます衰ていった。
 あるとき、看病の人がいうことには、「たとえ、いかに貴重な法要であっても、祈祷ではいつまでもわれわれは苦しみから逃れられない。どうか祐天上人を招いてください。十念(念仏を10回唱えること)を受け、回向してもらいましょう。すぐにでもそうしたほうがよいのでは」と。新右衛門の菩提所は増上寺の坊中花岳院であったので、これをつてに祐天を招いたところ、やがて祐天はやって来た。{祐天はこのとき増上寺の学寮におり、まだ牛嶋に隠遁する以前のことであった。}
 祐天はまず十念を授けて尋ねた。「おまえが新右衛門を恨むのは道理がないわけではないが、なにゆえ罪のない『みよ』を悩すのか」と。「よし」は答えた。「『みよ』には恨みはないけれど、わが身の苦みが耐えられないことを、誰かをとおして訴えるつもりだったので、やむをえずこの娘にとり憑いたのだ」と。
 祐天は言った。「おまえは今どのような苦みを受けているのか」と。すぐに苦しみのありさまを具体的に言ったので、その場にいて聞いた人々は、身の毛がよだち、恐れおののいた。祐天も、あまりに哀れなので、涙を流した。
 しかし、祐天は言った。「それはおまえの自業自得の苦しみであって、人を恨んではいけない。新右衛門がどれほど誘ったとしても、したがわなければ妊娠はしなかった。毒薬を与えたとしても、飲まなければ命に別条はない。すべて自業自得なのではないか」と。「よし」は答えた。「そのようにすじ道を立てて説明されたのを聞けば、たしかにもっともと思えるけれど、はげしい苦しみの耐えがたさゆえに、新右衛門がうらめしい」と。
 祐天は、「どれほど深く恨みをいだき、家族全員をとり殺しても、おまえの苦悩が終ることはない。ただ罪業を増やすだけである。今から心をいれかえ、人をとがめるのではなく、自分自身の罪を深く悔やみ、阿弥陀仏の本願を頼みに極楽浄土に往生しなさい。浄土に生れて無生忍(ものごとは本来、生ずることも滅することもないという真理)をさとれば、恨めしいこともすべてきのうの夢のように思え、無為(因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないこと)の快楽を受けることは、このうえなく悦ばしいことではないか。私はおまえにかわって懺悔念仏しよう。大願(仏の衆生を救おうという願い)と業力(果報を生ずる業の力)によって往生しなさい」と、ていねいに諭した。
 「よし」は答えた。「教え導きの趣旨、とてもありがたいのですが、新右衛門を恨んで祟りをなす者はとても多いのです。これらの怨霊も救っていただけないでしょうか」と。祐天が「多くの死霊とは、どのようなものなのか」と言うと、答えて言う。「私のほかに15人います。すべて新右衛門が堕胎させた子どもです」と。その子らを妊娠した女はどこの何者と、名や場所を具体的に言うと、明鏡に映したようで、すこしもまちがいはなかった。新右衛門は、これを聞いて、恐しさも面目なさもこのうえなく、過去の過ちを悔いて黙っていた。
 祐天は、新右衛門に教示して、これまでの罪を懺悔し、追善の念仏に精励させ、16人の亡者ひとりひとりに法名を授けた。そして、新右衛門に勧めて、花岳院で17日の別時念仏を修めさせ、「よし」にも説法して帰らせた。
 そのあと、病人は、昼も夜も熟睡すること3日を経て、新右衛門に向かって「私はこの娘をとおして訴えるという因縁によって、祐天上人の教化を受け、別時念仏の回向で、妄執の雲は晴れ、いま浄土に行くことになった」と、こまやかに礼謝して、また眠りについた。これによって、「みよ」の病苦はなくなり、すぐに回復したという。
 「よし」が命を終わらせたのは天和2戌年3月13日で、「みよ」に憑依したのは貞享2丑年3月であった。「よし」に授けた法名は「心月寿山信女」、そのほかの15の霊の法名はすべて花岳院の過去帳に記されて、いまでも残っている。


水子の祟り

 堕胎に失敗して死んだ下女「よし」が、男であった主人・新右衛門を恨んで怨霊となり、祟るわけだが、その際、娘の「みよ」にとり憑いて「口寄せ」するのは、「羽生村事件」ときわめて似ている。しかし、特徴的なのは、「よし」だけではなく、15体もの水子霊が祟っていたというところである。
 水子が祟るという観念は、現代ではかなり一般化されており、水子地蔵や水子観音がつくられている。しかし、江戸時代には(というか戦前までは)、一般的な観念ではなかった。高田は、平凡社『大百科事典』を引用し、水子をつぎのように説明している。

 仏教の戒名の一つで水子(すいじ)といい、月が満たないで死産した、未熟児や死産児をさす。水子を「みずこ」と読む例は古記録の中にはみあたらず、民間語彙の中に少しあるだけである。近年、妊娠中絶した胎児に対して、供養するという考えがでてきて「みずこ」が一般化したものである。現代では、水子地蔵、水子観音を新設する寺が増え、水子のたたりがうんぬんされるようになった。
 民間の風習では、七歳以下の子どもは、人間の子と考えず、まだ神の子であるという考え方があり、死んでも仏にはならないため、葬式や埋葬も一般の人とは別にした。たとえば土間の入口に埋葬するとか、墓地に埋める場合でも入口や隅に特別な場所を設け、丸い石だけを置くとか、板卒塔婆だけで墓石をたてないなどの例が多い。葬式も行わなかったり、やってもわざと生臭い魚を入れて仏の手に渡さないという習俗がある。出生したばかりの子どもを殺す間引きの方言に、モドシ、コガエシ、オシカエシ、ブッカエシの語があるように、神にかえすという観念があった。また胎児の埋葬も遠くで行うと、再び生まれてこないと考えて、家の近くに埋めたのである。
 このように子どもは人並みの供養をされないため、無縁仏として村境や墓地の入口にまとめて葬られ、境の神である地蔵の元に集まるという考えが生まれた。間引きされた子をジゾウッコという地方があるのはこのためで、賽の河原に子どもの魂がとどまり、地蔵の世話になるとされている。七歳以下で死亡した子どもに対して、孩児、嬰児、幼児の戒名を使うが、水子の例は少ない。幼児や胎児が、死して神のもとに戻らずこの世にとどまってたたるとされ、水子地蔵などがまつられるのは、日本人の子供に対する考えが変わってきている結果であるといえよう。


 七歳とあるのは数え年であって、満で5~6歳のことである。鬼頭宏によると、江戸時代後半でも、死産が10~15%あり、1歳未満の乳幼児の20%が死亡し、2~5歳の幼児でも10~15%は死んでしまう(鬼頭宏・著『人口から読む日本の歴史』[講談社学術文庫、2000年])。生まれてきた子ども(死産は除く)10人のうち、7人未満しか6歳まで生きられない。このような現実が「七歳以下の子どもは人間の子と考えない」観念をつくりだしたのであろう。
 しかし、水子という概念は存在したようで、高田は井原西鶴の「好色一代女」にある、つぎの場面を紹介している。

一生の間にさまざまな情事を体験したことを思い出して、つくづくと物思いにくれながら、ふと窓からのぞくと、蓮の葉笠のような胞衣(えな)をかぶった子供の幻が現れ、腰より下は血にまみれて、九十五、六ほども並び、はっきりしない声で、「負わりょ、負わりょ」と泣いています。「これが話に聞いた孕女(うぶめ)というものであろう」と気をとめて見ているうちに、「ひどい母様(かかさま)」と、めいめいに恨みを申します。「さては、昔、堕胎(おろ)した親なし児か」と思うと悲しくなりました。


水子の図(井原西鶴『好色一代女』より)


これは小野小町のあくなき〈性〉的な遍歴を描いた虚構であるが、その背後に存在する妊娠・堕胎という現実をこの部分は暗示しているのである。それにしても95~6の水子とはものすごい数である。
 いずれにしても、祐天が生きた時代、水子どころか、七歳以下の子どもは人並みの供養もされなかった。そのなかで、祐天は、水子に法名を授け、供養したのである。これは、「羽生村事件」で母に鬼怒川に投げ込まれて死んだ助(七歳未満の「わっぱし」であった)を供養した話と通じることである。
 祐天がこのような供養を行った背景には、陸奥国岩城郡の「水呑百姓」の三之助として生まれ、捨て子同然に寺に預けられた、彼の半生と関係があると思える。


捨て子の禁止と「生類憐みの令」

 祐天と同じ時代を生きた松尾芭蕉(1644-94)は「野ざらし紀行」のなかで捨て子について語っている。

富士川のほとりを行くと、三つくらいの捨て子が哀しげに泣いている。この川の急流にかけて、世間の波をしのぐことができず、わずかな命に情けもかけずに捨てたのだろう。小萩が秋の風に、今夜散ってしまうのか、明日萎れてしまうのかと、たもとから食べ物を投げて通る。
   猿を聞人捨子に秋の風いかに
どうしてだろうか、おまえは、父親に憎まれていたのか、母親に疎まれていたのか。父親はおまえを憎んではいない。母親もおまえを疎んではいない。すべては天の定めたことであって、おまえの生まれ持った運の悪さを嘆け。


川赤子の図(鳥山石燕・著画『続百鬼』による)


 天和元(1681)年の大飢饉の後、不作が続いていた。捨て子も多かったのだろう。川のほとりには「川赤子(かわあかご)」の伝承があった。夜、川の流れの音しかしないはずのところで、赤子のような声で鳴く動物や鳥がいることから生じた伝承である、と高田も論じている。川のほとりに赤子を捨てることは、川に赤子を流すのと同じであった。
 江戸時代初期には、生活に困って子どもを捨てたり、あるいは気に入らない子どもを捨てたりすることがあった。人間や牛馬が年老いたり病気になったりすると、まだ息のあるうちに山野に追放して自然に斃死するのを待つというような風習も残っていた。また、庶民は自分の「墓」をもっておらず、屍も野ざらしにされたままだった。幕府はこうした「子捨て」・「姥捨て」を大いに取り締まろうとしていた。
 「生類憐みの令」というと、ふつう、貞享2(1685)年に出された「将軍御成の時でも家々は飼い犬、飼い猫を繋ぐには及ばない」という内容の法令、つまり「犬愛護令」をイメージする。将軍・徳川綱吉は、長子・徳松の死後、後嗣がいないことを悩んでおり、そこへ生母・桂昌院が信仰する亮賢・隆光らの僧侶が「生類、とくに犬を大事にすれば子どもが生まれる」という助言を行った。このため、「犬愛護令」という部分が拡大していったのである。
 しかし、大石慎三郎・著『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書、1995年)によると、これは狭義の「生類憐みの令」であって、広義には、人間も含めた「生類」、つまり生きとし生けるもの全てを大事にし、平和な時代を築こうという法令全体を指すのである。
 最初の「生類憐みの令」は、天和2(1682)年に出された「病人ならび病馬等捨候義、御停止之札」という高札であった。病気の人間および牛馬などを山野に捨てる風習を不届至極(ふとどきしごく)のこととして禁じ、禁を破る人間を訴え出た者には、万一その者が同類であってもその利(とが)を赦(ゆる)して褒美を出す、という内容だったのである。


おわりに

 繰り返すが、一介の僧侶浪人にすぎなかった祐天を、浄土宗教団の最高位にまで押し上げたのは、大奥の勢力であった。しかし、幕府が進めていた「生類憐みの令」に代表される、人間も含めた「生類」つまり生きとし生けるものすべてを大事にし、平和な時代を築こうという政策との関係も無視できないのではないだろうか。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2009-07-28 04:08:07
心音峡亜 1焚担 阻,列秘藻緩!
崇徳院 (王子のきつね)
2004-11-05 01:41:29
2つは消しておきました。べつにそのままでもよかったんですが。。。

なるほど、御霊信仰と早良親王の話は有名ですが、崇徳院=「蹴球の神様」の話は知りませんでした。
ありゃりゃ! (cha-cha)
2004-11-04 22:40:44
え~ん。

三重投稿になっちゃった(>_<)ゞ

きつねさん、どうにかなりますか?
任されちゃったので。 (cha-cha)
2004-11-04 22:33:53
たいしたお話もできませんが…

御霊神社は早良親王の霊が祀られています。

桓武天皇が、自らが無実の罪に陥れた親王の怨霊におびえ、祟道天皇の尊号を追贈し、冥福を祈ったのでした。

平安京は、怨霊とは切り離せない都市です。



白峯神社は前出の崇徳院を祀ってますが、いつのまにやら、崇徳院が蹴鞠が得意だったってことで、「蹴球の神様」ってことになってます(?_?)エ?
Dsanはね。。。 (N-ねこ/~)
2004-11-04 01:37:04
崇徳院=大音量となってますが、



御霊神社のお話は、CCchanに任そうかな。
崇&祟 (王子のきつね)
2004-11-04 00:58:08
山口崇さんのこと、「やまぐちたたり」って呼んでた香具師がむかしいたな。w
崇 ≠祟 (N-ねこ/^)
2004-11-03 02:19:57
Dsanに尋ねられました



キツネの祟りとネコの祟りでは、どちらが尾を引き怖いかな?



山+宗 出+示 



気を付けよ 大和浮かんで(=『山』と『ウ冠』で) 大違い



              読み人知らず



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