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最近、言葉に不安を懐いています。
「構造主義」にはじまる言語学の世界に首をつっこんだせいなのか、言葉が織り成す誤謬性、思考制約性に愕然としているところです。
些末な例をあげるとすれば、英語の勉強用にロングマンの英英辞典を購入したのですが、言葉の意味がずいぶんちがうことに気が付いたのです。
例えば英語の「LOVE」を「愛する」とシンプルに考えていましたが辞書をひもとくと沢山の用例が有り「組織に帰属する気持ち」を表す場合もあるわけです。
なんとなく、医療の言葉を分かりやすく翻訳したつもりになっていた自分にとっては大きな反省になりました。
私たちが言葉によって個別の架空幻想で生きているとしたら、一体どうすればコミュニケーションが生まれ得るのでしょう。
言語によって切り離された個でも、繋がることができているのだとしたら、それは「切り離されている」という前提が誤りで、すでに我々はどこかで繋がっていることを意味しているのかもしれません。
「構造主義」にはじまる言語学の世界に首をつっこんだせいなのか、言葉が織り成す誤謬性、思考制約性に愕然としているところです。
些末な例をあげるとすれば、英語の勉強用にロングマンの英英辞典を購入したのですが、言葉の意味がずいぶんちがうことに気が付いたのです。
例えば英語の「LOVE」を「愛する」とシンプルに考えていましたが辞書をひもとくと沢山の用例が有り「組織に帰属する気持ち」を表す場合もあるわけです。
なんとなく、医療の言葉を分かりやすく翻訳したつもりになっていた自分にとっては大きな反省になりました。
私たちが言葉によって個別の架空幻想で生きているとしたら、一体どうすればコミュニケーションが生まれ得るのでしょう。
言語によって切り離された個でも、繋がることができているのだとしたら、それは「切り離されている」という前提が誤りで、すでに我々はどこかで繋がっていることを意味しているのかもしれません。
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