美とは何だろうか?変化の仕方だろうか?学習レベル3以上にある量子的世界に繋がるイコンのことだろうか?
個々の生物でもその集団でも、自分たちが生き残ることだけを考え、他者を力で圧倒することが「適応」なのだと考えて、その原則の上に行動を組み立てていったとしたら、その″進歩″の行き着くところが自分たちの生きる場の破壊でしかない。精神の生態学より。
情報伝達と組織化の世界に一歩足を踏み入れたとき、われわれはそうした力と衝撃とエネルギー交換が結果をもたらす世界とは完全に決別して、差異が結果を生む―「結果」という言葉が、ここでも有効かどうかは疑間でありますが―まったく別様の世界に入るのです 精神の生態学より。
ハード・サイエンスでは、出来事の原因は、つねに外界に、何らかの具象的な姿で実在することが前提になるわけですが、心の世界、コミュニケーションの世界では、ゼロとイチとの間に差異を持つという理由によって、原因になりうるのです。書かない手紙に対して怒りの返事が来る。 精神の生態学より。
変換されながら回路をめぐる差異が観念の基本形である。 この考えを、もう少し進めていきましょう。 この考えに立脚した場合、精神とは何であるといえるのか。 地図は土地と違うとして、土地とは一体何なのか。 精神の生態学より。
クレアトゥーラとは、(そう見ることことが適切なかぎりにおいて)精神として見た世界であります。世界を精神として見るとき、そこにはつねに、プレローマの記述には現われでない種類の複雑性が姿を見せます。すなわち階層性。クレアトゥーラの記述には複数のレベルが現われるのです
「心的決定」といっても、超自然的な要素を科学にもちこもうというのではない。世界を巨視的な視点から見たとき、そこには必ず心的な特性が現われる、ということだ。これは超越者から与えられる決定ではなく、内在する心的決定性である。 精神の生態学より。
われわれはみな、関係のパターンに心を砕く動物である。 面と向かった相手との間に結ばれる愛、憎しみ、尊敬、依存、信頼等々の関係性のなかで自分がどんな位置をしめているのか、これは哺乳動物として生きていくのになによりも重くのしかかってくる問題です。
この机と原稿箋とでは、色が違いますが、その違いは、机にも、原稿箋にも、その間の空間にもありません。ピッタリ押しつけてみても、それで差異が挟みつけられたりはしない。要するに「ちがい」とは一個の観念ideaなのであります。 精神の生態学より。
コントロールとパワーの思考が幅をきかせる世界では、事が思い通りに進まないと、「誰かが悪い」ことになり、その悪い誰かが特定できると、その誰かを牢獄か精神病院かに―好みに応じて―送り込むことが取り行なわれます。 精神の生態学より。
生物界で、なんらかの必要が直接的に満たされるケースというのはごく稀にしか見当たらないのだ。ものを食べるという行動を引き起こすものは、「飢え」ではなく、食欲と習慣と社会慣習である。呼吸活動は、酸素の欠乏ではなく二酸化炭素の過剰によって活性化される
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