哲学2
三浦梅園(1723~1789)「多賀墨卿へ與ふる書」より
一節
「神鳴り、地震りたりといえば、人ごとに首を捻り、いかなることにやといいののしる。我がよりしてこれを観れば、其の雷・地震をあやしむこそあやしけれ。故いかんとなれば、其の人、地動くを怪しみて、地の動かざる故を求めず、神鳴りなる所を歌がいて、鳴らざる所を訪ねず、これ、空々の見ならずや。」
(雷や地震が起きれば、人はどうして起きるのだろうと聞くけれど、私から見れば、雷や地震が起こらない時がどうしてそうなのだと聞くし、考えてしまうよ)
また、ニュートンのリンゴにも匹敵する問答もある。
一節
「我、人に「石を手に持ちて、手をはなせば、地に落つるはいかなる故ぞ」と問えば、「それは重きによりて下に落つるなり、知れたる事也」
(人に私は、訪ねた。どうして石を手に持ってはなせば、地面に落ちるの?すると人は、「当たり前じゃないか、重いからだよ」と応えた。)
地震や雷は、起きている時より起きていない時の方が長い。
起きない理由を追究すれば、起きた時のこともわかるということだという。
話は飛ぶ。
ある記事
(2年目女子ですが、いいですか? 「女性らしさを生かして」ってヘンじゃないですか。)
http://news.goo.ne.jp/article/nbonline/business/nbonline-166159-01.html
の一節にこんなものがあった。
毎日使っている女性の方が、男性よりも要望が分かり、商品に活かせるはず。そりゃそうだと頷きそうになったのですが、よくよくその根拠を考えてみると、違和感を覚えるのでした。男性が、女性が使う商品開発に向いていない理由はどこにあるのでしょうか。
女性の声を生かした商品開発ならわかるけれど、女性が商品開発したものがよくて女性が主として使うものを男性が商品開発するのがいけないのがわからなかった。
もちろん、この逆もある。
やはり、平時の中での疑問を持つ感性を持ちたいものだ。
「え、そりゃ当たり前でしょ」と言うまえにどうして当たり前かという疑問点を持ちたい。
教えていただいた、哲学の講演であった。