西念寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e1/2dde033107154b9557440bd8f33b139b.jpg)
『紫雲山 西念寺
近世初期の竹鼻村には、村の貧しい歴史と共に歩む「東堂」円信寺・「中堂」西念寺・「西堂」地蔵寺の 「竹鼻三ノ堂」と呼ばれる三つの小さな寺々があり、 当寺のみ明治初期の廃仏毀釈の嵐の波に揉まれながら村人の熱い支えにより唯一残った寺院である。山門前の道路以南を竹鼻堂ノ前町として今なお現町名が残る。
「元禄改帳」に「浄土宗、一心院末寺同郷摂取院末寺 西念寺、恵南。屋敷地東西十間南北九間除地境内十六間横九間、本堂梁三間桁四間、藁葺、百余年前天正年中建立、開基知レ申サズ候。」とある。しかし昭和五年出版「山科町誌」に西念寺開基は、瑞 蓮社方譽紫光西雲大徳と記載されるのは、文政五年当時の住持であった鏡譽隆遠和尚の造になる位牌が堂内に現存することによる。その時代に浄土宗鎮西派、即ち知恩院を本山とする脈流の一端になったといわれる。
現堂宇は、昭和十三年に整備された。「雍州府志」に本尊阿弥陀如来像は聖徳太子丸木の作と記され、延命地蔵菩薩像は村人から篤い信仰を浴びている。
京都市』 (駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/a7/d2562ea6f45436e82ae986f45644cf74.jpg)
山科区には西念寺というお寺が2箇所ある。一つは有名な勧修寺のすぐ横だ。そしていまひとつが今回紹介する浄土宗の地域に根ざした寺だ。地下鉄東西線山科駅から南へ少し下ったところにある。幹線道路に面している門は入ることができず、横の細い路地を入ると山門に至る。境内に入ると緑豊かに整備されており、本堂も非常に綺麗で居心地がいい。すぐ近くを多くの車が走るが、騒音はほぼ聞こえてこない。
本堂のすぐ横に駒札が立っていた。上記のものだ。由緒や経緯については駒札の内容の通りだが、創建の時期は定かではない。近世初期という表現はおそらく、江戸時代の初期あたりだろうか。中に文政五年と出てくるが、これは江戸時代末期に近い頃となる。この辺り一帯は江戸時代においては、農耕作地が広がり貧しい農民たちが、あるいは商工業者も含めて年貢や税に苦しんでいたと考えられる。そんな中にあって彼らの心のよりどころとして竹鼻三ノ堂と呼ばれる小さなお寺が3箇所建立されたんだろう。
現在ではこの西念寺が残るのみ。周囲は山科駅前の再開発によって大きな商業ビルが建っているが、当初入居していた百貨店は今は撤退している。山科駅は地下鉄、 JR、京阪電鉄と三つの駅があり乗降客数もかなり多いが、鉄道やバスが便利すぎてあまり立ち寄る人がいなかったんだろう。マンションの部分だけは周囲のマンションも合わせて好調なようだ。
なお、最近本尊の阿弥陀如来坐像が京都市の指定登録文化財になった。以下に掲載しておく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/ab/38e30ab8aa9b938b36befbdac9a1fcac.jpg)
『木造阿弥陀如来坐像 1躯(指定) 京都市指定・登録文化財
〔西念寺〕
浄土宗寺院,西念寺の本尊。寺の創建時期を遡る鎌倉時代の制作と考えられる。針葉樹材の一木割矧造,玉眼嵌入,漆箔仕上げ。像高60.2cmの比較的小さな像で,説法印を結び,左足を外に結跏趺坐する。上げ底式像底や,頬の引き締まった面相,動きのある衣文表現には,鎌倉時代前期の慶派彫刻の特色が見られ,とくに端正な顔立ちと均整のとれた体つきからは,運慶・快慶の次世代である湛慶及びその周辺仏師の制作であることが推定される。』
(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/47/4b23daf995af572ad533317835890b94.jpg)
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『紫雲山 西念寺
近世初期の竹鼻村には、村の貧しい歴史と共に歩む「東堂」円信寺・「中堂」西念寺・「西堂」地蔵寺の 「竹鼻三ノ堂」と呼ばれる三つの小さな寺々があり、 当寺のみ明治初期の廃仏毀釈の嵐の波に揉まれながら村人の熱い支えにより唯一残った寺院である。山門前の道路以南を竹鼻堂ノ前町として今なお現町名が残る。
「元禄改帳」に「浄土宗、一心院末寺同郷摂取院末寺 西念寺、恵南。屋敷地東西十間南北九間除地境内十六間横九間、本堂梁三間桁四間、藁葺、百余年前天正年中建立、開基知レ申サズ候。」とある。しかし昭和五年出版「山科町誌」に西念寺開基は、瑞 蓮社方譽紫光西雲大徳と記載されるのは、文政五年当時の住持であった鏡譽隆遠和尚の造になる位牌が堂内に現存することによる。その時代に浄土宗鎮西派、即ち知恩院を本山とする脈流の一端になったといわれる。
現堂宇は、昭和十三年に整備された。「雍州府志」に本尊阿弥陀如来像は聖徳太子丸木の作と記され、延命地蔵菩薩像は村人から篤い信仰を浴びている。
京都市』 (駒札より)
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山科区には西念寺というお寺が2箇所ある。一つは有名な勧修寺のすぐ横だ。そしていまひとつが今回紹介する浄土宗の地域に根ざした寺だ。地下鉄東西線山科駅から南へ少し下ったところにある。幹線道路に面している門は入ることができず、横の細い路地を入ると山門に至る。境内に入ると緑豊かに整備されており、本堂も非常に綺麗で居心地がいい。すぐ近くを多くの車が走るが、騒音はほぼ聞こえてこない。
本堂のすぐ横に駒札が立っていた。上記のものだ。由緒や経緯については駒札の内容の通りだが、創建の時期は定かではない。近世初期という表現はおそらく、江戸時代の初期あたりだろうか。中に文政五年と出てくるが、これは江戸時代末期に近い頃となる。この辺り一帯は江戸時代においては、農耕作地が広がり貧しい農民たちが、あるいは商工業者も含めて年貢や税に苦しんでいたと考えられる。そんな中にあって彼らの心のよりどころとして竹鼻三ノ堂と呼ばれる小さなお寺が3箇所建立されたんだろう。
現在ではこの西念寺が残るのみ。周囲は山科駅前の再開発によって大きな商業ビルが建っているが、当初入居していた百貨店は今は撤退している。山科駅は地下鉄、 JR、京阪電鉄と三つの駅があり乗降客数もかなり多いが、鉄道やバスが便利すぎてあまり立ち寄る人がいなかったんだろう。マンションの部分だけは周囲のマンションも合わせて好調なようだ。
なお、最近本尊の阿弥陀如来坐像が京都市の指定登録文化財になった。以下に掲載しておく。
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『木造阿弥陀如来坐像 1躯(指定) 京都市指定・登録文化財
〔西念寺〕
浄土宗寺院,西念寺の本尊。寺の創建時期を遡る鎌倉時代の制作と考えられる。針葉樹材の一木割矧造,玉眼嵌入,漆箔仕上げ。像高60.2cmの比較的小さな像で,説法印を結び,左足を外に結跏趺坐する。上げ底式像底や,頬の引き締まった面相,動きのある衣文表現には,鎌倉時代前期の慶派彫刻の特色が見られ,とくに端正な顔立ちと均整のとれた体つきからは,運慶・快慶の次世代である湛慶及びその周辺仏師の制作であることが推定される。』
(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課より)
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