切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都の桜 向日神社(向日市)~宝積寺(大山崎町)・・・空模様が・・・

2019-04-26 23:04:06 | 撮影



向日神社

『向日神社縁起
 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社ま下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られところである。
 (駒札より 抜粋)

   
 向日神社は既に何回か紹介している。
 春の桜も秋の紅葉も実に見事で、重要文化財の本殿を中心に境内の多くの末社も登録有形文化財となっている。極めて長い参道から桜がトンネルを作っている。この風景だけでも十分見応えがある。
 この日は残念ながら、現地に到着した途端青空が一気に曇り空に変わってしまって、写真撮影には不利な条件となってしまった。正直なところ、そのどんよりとした雲に桜の美しさが勝るというところまでは行かなかったようだ。画像の発色も今一つといったところ。まぁそれでもこんな時もあるので、境内から本殿に参拝し、その周りをぐるっと一周して撮り続ける。
 本殿や拝殿、あるいは末社などをバックに撮影すると、それなりの絵になる。私のように大きなカメラを構えて撮影、という人はあまりおらず、来ている人の多くが敬虔な氏子さんか何か、参拝の方に熱心だった。
    
 神道という宗教に自分を託しているというほどの人はあまりいないだろう。神仏習合の時代ではないが、神社にお参りし、同じ人がお寺にもお参りすると言う、宗教に対してかなり寛容な姿勢がのどかな宗教風景を齎した国だと言える。イスラム教原理教主義者達の激しい殺戮闘争を見ていると、宗教の一面の恐ろしさというものがいやでも目につくが、日本では一時期、仏教宗派による激しい争いがあったとはいえども、今現在のどかな形で共存共栄しているというところは、日本の非常に良いところだと思える。
 私など全くと言っていいほど、神道にも仏教にも気持ちを依存させているようなところはほとんどないと言える。まぁしかしこの国に育ってしまうと、心の奥底には神頼みとか、お釈迦さんに頼ってしまうとか、そんなうっすらとした心持ちもどこかに育ってきてしまっているんだろう。
 神社やお寺の撮影をするというのも、気持ちの奥底にはそのようなものに対する興味があるからこそだと思う。そこにさらに綺麗な桜や紅葉などの彩りが添えられると一層、歴史的な風土の中に見事な強調した美しさを感じるものだ。
       
 向日神社がある向日市は自治体としては全国的にも小面積の衛星都市であり、住宅がぎっしり密集している。そのど真ん中に広い境内を構えて、どっしりした存在感を示しているというのもなかなか大したものだと思う。


寶積寺



寶積寺縁起
『養老7(723)年11月23日、龍神が唐土より万宝第一(何事も叶う)の打出と小槌を我国に伝来されました。神亀元(724甲子)年、聖武天皇は行基菩薩に勅命され寶積寺を建立し、打出と小槌を奉納されました。しばらくして御本尊大黒天神を印度よりお招きし、お祭り申し上げました。以来、財福、繁栄・増進の神様と崇められ打出と小槌の加持を求める御信徒が、大勢参詣されております。
 当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、その昔大洪水で橋が流出し民衆が途方にくれていたとき、どこからともなく人の翁が現れて、水面を自由に歩き、見事橋を復元されました。その翁は山に上り、当寺本堂のお厨子に入られました。以来、当寺の本尊十面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました。
 天正10(1582)年の山崎の合戦、元治元(1864)年の蛤御門の変に於て、当寺へ陣地となり戦禍を蒙り、伽藍は一時荒廃しましたが、歴史の重要な舞台ともなり、どの時代にあっても現世利益の信仰はすたれることなく、今日もなお興隆の一途を歩んでおります。
三重の塔は「豊臣秀吉の一夜の塔」として名高い。
 (パンフレットより)

   
 大山崎町の宝積寺へ行く。
 向日神社からは長岡京市を経てすぐだ。ここもすでに当ブログで何回か紹介している。向日神社もそうだったが、この宝積寺も一部、昨年の台風21号による倒木被害がかなり見られた。折れた樹木は全て根元から伐採されていた。復活するのには長い年月がかかるだろう。
 宝積寺も桜の名所として名が知られている。重要文化財の仁王門や三重塔あるいは本堂など、普段からでも見所が非常に多い。庭園も少し複雑な造形をしているがじっくり見ていられる。そこに満開の桜があちこちに咲き誇っていると、これはこれで見事というほかない。 向日神社では曇りだったが、宝積寺に到着した頃には薄青空になっていた。まぁ少しはましか。平日ではあったがそこそこ人は来ている。 JR 大山崎駅から少し坂道を登るが、比較的近い。山麓にある境内は静かと言いたいところだが、山のふもとから電車が通過する音がひっきりなしに聞こえてくる。しかし 広い境内のお寺を巡りながらその景色に見とれていると、音も全くと言っていいほど気にならない。
 大山崎町も面積の狭い自治体で、大昔から交通の要衝であり、今現在も東海道本線、新幹線、阪急京都線、名神高速、国道171号線といった大動脈がこの狭いところに集中している。
 しかし歴史的にも重要な場所であったからこそ、この狭い自治体の中にも国宝の妙喜庵があるし、重要文化財など多数の文化財がある。そういった点からも非常に見所の多い小さな町であり、その気になれば歩いて町内を回れるし、天王山の方にも文化財に指定されたものがある。
        
 かつてこの町の中学校に赴任していた頃は、授業の一環で天王山には何度も登っていたものだ。残念ながら当時は神社にもお寺にも興味はなかった。それでいて社会科で歴史を教えていたもんだから、いい加減な教師だったことには間違いない。

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