福勝寺
千本出水通りの西側にある。この辺りはお寺が密集してる地域であり、一度に何箇所ものお寺に参拝することができる。
真言宗善通寺派のお寺であり、本尊は薬師如来。平安時代初期の僧である弘法大師(空海)によって河内の国古市郡に創建された。現在の羽曳野市にあたる。その後鎌倉時代に京都に移されて再建される。さらに後にいくどかの遷座を経て最終的に現在の地に落ち着く。歴代天皇からの信頼が篤く、後に勅願寺となる。特に後西天皇の時に観世音菩薩の称号と紫宸殿にあった桜の休が与えられ、「桜寺」とも呼ばれるようになる。
年中行事で有名な物は節分において瓢箪が授与されるというものがある。これは創建者の弘法大師が唐の国で授与された如意宝珠と歓喜天のご利益に基づいて、祈祷を受けた瓢箪が与えられるというものだ。豊臣秀吉がこのお寺の歓喜天を篤く信仰し、戦いの度にお寺に瓢箪を奉納し戦勝するたびにさらに信仰が篤くなり、奉納した瓢箪を持ち帰ってそれを豊臣軍の「千成瓢箪」としてのぼり旗に採用したと言う話が伝わっている。
なお如意宝珠というのは、仏教において必要に応じて宝を出すというものであり、如意輪観音の持ち物とも言われている。また歓喜天とはもともと古代インド仏教の神であったものが日本に伝えられる中で、仏教の守護神としての意味合いを持つものとして崇められたものとなる。
玉蔵院
『出水通の七番町とその付近には寺の甍が軒を連ねています。一番町より七番町までの町名は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が聚楽第を築くにあたって、大内裏址の内野の地に一番から七番の組屋敷を置いたことによるといわれています。聚楽第廃絶後の荒地が寺地となったようです。近世には五番町という遊廓も栄え、付近には西陣の織工の憩の場となった映画館が数多く営業し、一大歓楽街となりました。
その中の玉蔵院は目立たない寺ですが臨済宗妙心寺派で、寛永11年(1634)仏頂が開山しました。重要文化財の絹本著色芦葉達磨図は、南北朝時代の道釈人物画で、遺例の少ない東福寺の禅僧固山一鞏(こざんいっきょ)の賛のあることで知られています。』
(京都市上京区の史跡百選より)
出水六軒町通りにある。江戸時代初期の1634年に開創。臨済宗妙心寺派のお寺だ。臨済宗ということで禅寺となる。一見普通のお寺のように見えるが、こちらには国の重要文化財に指定されている南北朝時代作の「芦葉達磨図」が保存されている。
またこのお寺には円山応挙によって描かれた幽霊掛け軸があって、死にかかった遊女を描いたものが幽霊に見えると言う伝承があった。今現在では現物はないとのことだ。
千本出水通りの西側にある。この辺りはお寺が密集してる地域であり、一度に何箇所ものお寺に参拝することができる。
真言宗善通寺派のお寺であり、本尊は薬師如来。平安時代初期の僧である弘法大師(空海)によって河内の国古市郡に創建された。現在の羽曳野市にあたる。その後鎌倉時代に京都に移されて再建される。さらに後にいくどかの遷座を経て最終的に現在の地に落ち着く。歴代天皇からの信頼が篤く、後に勅願寺となる。特に後西天皇の時に観世音菩薩の称号と紫宸殿にあった桜の休が与えられ、「桜寺」とも呼ばれるようになる。
年中行事で有名な物は節分において瓢箪が授与されるというものがある。これは創建者の弘法大師が唐の国で授与された如意宝珠と歓喜天のご利益に基づいて、祈祷を受けた瓢箪が与えられるというものだ。豊臣秀吉がこのお寺の歓喜天を篤く信仰し、戦いの度にお寺に瓢箪を奉納し戦勝するたびにさらに信仰が篤くなり、奉納した瓢箪を持ち帰ってそれを豊臣軍の「千成瓢箪」としてのぼり旗に採用したと言う話が伝わっている。
なお如意宝珠というのは、仏教において必要に応じて宝を出すというものであり、如意輪観音の持ち物とも言われている。また歓喜天とはもともと古代インド仏教の神であったものが日本に伝えられる中で、仏教の守護神としての意味合いを持つものとして崇められたものとなる。
玉蔵院
『出水通の七番町とその付近には寺の甍が軒を連ねています。一番町より七番町までの町名は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が聚楽第を築くにあたって、大内裏址の内野の地に一番から七番の組屋敷を置いたことによるといわれています。聚楽第廃絶後の荒地が寺地となったようです。近世には五番町という遊廓も栄え、付近には西陣の織工の憩の場となった映画館が数多く営業し、一大歓楽街となりました。
その中の玉蔵院は目立たない寺ですが臨済宗妙心寺派で、寛永11年(1634)仏頂が開山しました。重要文化財の絹本著色芦葉達磨図は、南北朝時代の道釈人物画で、遺例の少ない東福寺の禅僧固山一鞏(こざんいっきょ)の賛のあることで知られています。』
(京都市上京区の史跡百選より)
出水六軒町通りにある。江戸時代初期の1634年に開創。臨済宗妙心寺派のお寺だ。臨済宗ということで禅寺となる。一見普通のお寺のように見えるが、こちらには国の重要文化財に指定されている南北朝時代作の「芦葉達磨図」が保存されている。
またこのお寺には円山応挙によって描かれた幽霊掛け軸があって、死にかかった遊女を描いたものが幽霊に見えると言う伝承があった。今現在では現物はないとのことだ。
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